第030話 それでも月に近づきたい
「――やっぱ馬鹿だな、勇者ってのは」
「うっ……くっ……」
血を流して地に伏せる姿は、どこからどうみても敗者のもの。そこまではいかずとも、劣勢であることは疑いようがない。
親の仇でも睨みつけるようなルルワの眼光の先には、仁王立ちする女大夫の姿。
その姿まさに威風堂々。歴戦の猛者の片鱗を気品ある佇まいと、圧力を凝縮したような気配のみで演出してみせる。
世に名立たる40試練――名前負けしないだけの強さが、彼女にはあった。
しかしルルワがこうして地に這いつくばっていることには、別の理由もある。
「弱い奴らなんかほっときゃいいのによォ……勇者ってそんなんばっかだな。だからどいつもこいつも早死にするんじゃね?」
「…………」
ルルワが追い込まれている要因――それは、場所変更にあった。
ここは峡谷内ではなく、既に人の住む領域の一部。
つまりは――グランド要塞の城門前だ。
「ちっ……ぎゃあぎゃあうるせえな。だから殺したくなるんだっつの」
「っ!」
ミサが遥か頭上に視線をやり、意識を逸らす。
敵を前にして明確な隙を晒す行為だったが、焦りを覚えたのはルルワの方だった。
「<夜空疾走>」
「くっ!!」
震える足腰に鞭打つように立ち上がると、飛び上がったミサに合わせて剣を降る。
しかし――結果は繰り返しだった。ルルワたちはこれを、もう数度繰り返している。
「<角槍>!!」
「がはっ!?」
反転したミサの一撃で、ルルワは三度吹き飛ばされ、地を転がる。
口から吐き出された鮮血は、内臓へのダメージを色濃く映し出し、口内には、死の味が広がり始めていた。
「なんなんまじで? 馬鹿なん? 行かせりゃいいだろうがよ。そんで俺があいつら殺してる間に回復なりなんなりしろよ。絶対俺の言う方が正しいよな?」
「はぁ……はぁ……」
ルルワが一方的に責められている理由――それは戦場の変更。
そしてそこにいる人々の命を人質に取られているが故の、劣勢だった。
(まずい……もう天力が尽きる)
ミサの最も厄介なところが、短時間であれば空をも疾走できるということ。
その能力で一度城壁の上へと登られてしまえば、ルルワでは追うのに数分かかり、その間に多くの兵士たちが成すすべなく殺されることだろう。
それでは駄目だ。勇者がここにいる限り、そんなことを許してはならない。
「ほんとうるせえな。頑張れじゃねえんだよ。応援で急に強くなるわけねえだろ。漫画じゃねえんだぞ」
血を吐くように頭上から声を飛ばしてくれる兵士たち。
それは――まさしく声援だ。それに対し先ほどから募る苛立ちを隠さないミサ。かなり上に気を取られている様子を見せる。
しかし、ふと何かに気が付いたように、彼女はルルワを見下ろした。
「なんかさぁ……お前ってセコイよな」
「は?」
ルルワは地を舐め、土に汚れた顔を起こし、こちらを見下ろしてくる女を見上げる。
それはまさしく、見下ろしていた。ルルワという存在を。いや、ルルワという女を。
「自分は勇者だ救世主だってもてはやされて、人間にもたくさん応援されて、気持ちよくなってよ。でも実際凄いのはお前が飼ってる吸血鬼の方だろ? 今もあの怪物ジジイと殺り合ってんだから」
「っ!?」
心臓を握りつぶされたような、衝撃。
ルルワは呼吸すら忘れ、言葉を失う。
「お前が人間守った気になって気持ちよくなってる今もよ、あいつ死ぬ気で戦ってんじゃね? お前のために。そんで勝っても特に誰にも感謝されることなく、キャーキャー言われるのはお前だけなんだろ? セコイって、マジで」
「…………」
それは、挑発のようには思えなかった。
ミサがそういうタイプの戦士であるかどうかという以前の問題。同じ女として、ルルワには分かった。
「正直可哀想で見てらんねえよ。だってそうだろ? あそこまで規格外の強さ。向こうじゃ女なんて選び放題。どの種族の、どんな高貴な女だって番になって子を孕みたいと望むぜ。俺だってそうさ。チビだとかガキだとか散々言っちまったが、あんなに強いんならやっぱ話は別だ」
「…………」
男は強さこそ、魅力。
ルルワにとっては首を傾げるような考え方だが、意外にも、世に広く一般的な考え方だった。特に人という種は弱いため、自分を守ってくれるような強い男を女は好む傾向にある。
そしてミサの話を聞く限り、向こうでもそうらしい。いや、吸血鬼という種族である彼に取っては、あちらこそが本来いるべき場所ということだろう。
「それが人の、小便臭い小娘のペットで、いいようにこき使われてよ。要はあれだろ? 自分一人じゃどうやっても勝てねえって分かってるから、あの吸血鬼を利用してるわけだ」
「っ!!」
それは――ルルワがずっと抱えていた後ろめたさ。
森を出る時から心に引っかかっていたことだった。
『助けたいんだろう? 人を』
「やっぱそうだ。自分じゃ敵わねえ奴にはあの化け物をぶつけて、んでよくできたらヨシヨシしてご機嫌取り。あいつが他人に優しくされない化け物だってことを分かってて、自分だけが優しくしてやることで依存させてんだよな? そうだろ?」
「…………」
「男の弱みに付け込んで……ほんと汚ねぇ女だな。てめえの事情に巻き込むなや。全然釣り合ってねえから」
「…………」
ルルワは森を出てから、ずっと矛盾を抱えていた。
ムメイしかいらないと言いながら、彼の力を頼り、そして自分の事情に巻き込んでいる自分に。
彼一人でいいと思いながら、彼以外の人間を助けたいという気持ちを捨てられない自分に。
だからミサの言う事は――正しい。その通りだ。
ルルワは自分がしたいことに、ムメイを巻き込み、利用している。
『300年前、ルコスのおっさんを野放しにした勇者って、たぶん俺なんだ』
『だから……ずっと君を傷つけてたのは、俺だ』
森を出る直前のあの言葉は、ムメイの優しさであることは分かっていた。
ルルワが勇者の務めに利用していることを気に病んでいると見透かし、自分にも非はあると打ち明けてくれたのだ。
彼は人の心を――いつも見透かす。容易く。
そしてどこまでも優しく寄り添う。どんな相手にも。
ならばルルワの答えるべきだった返事は? あの時、隠し事をせず全てを打ち明けてくれたムメイに対し、ルルワも本音を晒すべきだったのでは?
ムメイの力を、自分の目的のために利用していると。
今だって、自分では逆立ちしても敵わないような相手との戦いを、彼に押し付けている。それが、心苦しかった。
きっと彼は気にしなくていいと笑ってくれるから――だから苦しかった。
「…………分かってる」
「あん? なに? もっとハキハキ喋ってくれ」
「分かってるわよ!! そんなこと!!」
だからルルワは、血を吐くように叫んだ。
己の弱さ、醜さが、本当に許せなかった。
「彼の優しさに、付け込むような真似をした! 私は彼と、全く釣り合ってない! そんなこと、私が一番よく分かってるのよ!!」
それは一人の女の――魂の悲鳴だった。
「だから、少しでも近づきたいの!! 彼の隣に並んでいいんだって、彼の傍にいていいんだって――そう、心の底から思えるように!!」
相手は、人外の存在。皮肉にも、彼女が本当に心からの激情をぶつけられる相手は、兄アベルと同じだった。
だから――
「私はここで、勇者になる!! あの人に近づく!!」
現状では、ムメイの力に甘えるしかない。
彼の優しさに甘えるしか。
だからルルワは、強くなりたかった。ムメイの横に並べるくらい。
それが難しいことだということは、やはりよく分かっていた。
しかし少女の覚悟は、恋は――その程度の障害をものともしない。
「急にキレだしやがって、生理かよ。ちっ……ほんとうるせえな。声出す暇あったら降りてきて手伝えよ。取るに足らないザコ共が」
勇者は立ち上がり、壁を見据える。
少女の真価が今――世界に問われていた。
***
「――なぜだ!? どうしてだ!!」
一方――
ロータル大谷中腹部では、巨人と吸血鬼との最後の戦いが行われていた。
激戦を物語る深い傷痕。すっかりその景色を変えた峡谷内――巨人の血を吐くような声が、岩肌に反響し、木霊する。
「どうしてそこまでして戦う!? 貴様は吸血鬼だろう!?」
イコラオスは血に染まった吸血鬼を相手に、必死になって語り掛けていた。
身が千切れそうなほどにボロボロの体。どこから出ているのかと瞠目するほどの出血量。燃やされ、炙られ、光に身を焼かれ、地獄の激痛を今も尚浴び続ける存在に。
意識を半分手放しながら、なおも立ち上がる男に。
己が滅ぼすべき敵に、イコラオスは一心不乱に呼びかけていた。
「貴様がここでどれだけ立ち上がろうとも!! ここでどれだけの血を流そうとも!! 貴様に感謝する人間などいないはずだ!! 功績は全て勇者に掠め取られ、貴様は人外の力持つ化け物として恐れられる!! そうだろう!?」
殺したと確信したムメイが再び立ち上がってから、数時間。戦いは戦いではなく、一方的な蹂躙とも言うべきむごいものとなっていた。
そんな中、吸血鬼は何度となく立ち上がる。
どれほどの苦痛を与えようとも――
どれだけ肉体を破壊しようとも――
何度でも何度でも、立ち上がる。地獄の苦痛に身を焼かれながら、決して倒れない。
イコラオスはここに至って、吸血鬼の不死性ではなく、その精神性に恐怖していた。
なぜ、そうまでして戦うのか。理解できないモノへの純然たる恐怖が、彼を叫ばせていたのだ。
「何の義理があるというのだ!? 人間など捨て置けばいいだろう!? 貴様ほどの男が命をかける価値が人にあるというのか!? こんな場所で、一人孤独に!! 貴様がやるべきことはこんなことではないはずだ!!」
吸血鬼であるムメイが、人の世界で受け入れられないことなど、誰にでも分かること。ならばこそ、イコラオスには理解できない。
誰の目にも届かないこんな場所で。誰にも声が届かないこんな場所で。
誰が応援しているわけでもない。むしろ誰もが吸血鬼の活躍など望んでいない。もし仮にここでムメイがイコラオスに勝ったとしても、何も変わることはない。
吸血鬼が、人になれるはずがない。それが分からないのか。頑張れば認めて貰えるとでも思っているのか。
「あちらに行けば、すぐにでも王になれるんだ!! 誰もが貴様の力にひれ伏し、跪き、口を揃えて称えるだろう!! 世界を手に出来る器なのだ!! こんな扱いでいいのか!? こんなところで――!! ここが! ここが貴様の死に場所だというのか!?」
この瞬間だけは、イコラオスは恐怖ではなく、計り知れないほどの憐憫に身を焼かれていた。
自分と同等の、いやそれ以上の力と才能を持つ存在が、こんな扱いを受けていることに――耐えられなかったのだ。
この吸血鬼が今、どれだけの偉業を成しているかを身に染みて分かるほどに、この吸血鬼の潜在能力と成長性を肌で実感するほどに――その思いは強まる。
こんなところで死んでいい男ではない。
誰かの下についていいような男ではない。
それが300年様々な強者をその目で見てきた、イコラオスが導き出した答えだった。
絶対に間違っている。人如きのために、この命をすり潰していいはずがないのだ。
しかし――
「うるせえな……分かってるよそんなことは」
火にあぶられながら、光に身を焼かれながら、血に染まりながら――吸血鬼はそれでも立ち続ける。
どこからどう見ても満身創痍の姿――まさに虫の息。
しかしその静かなる声は、ここ一番で力強く――渓谷に響く。
「分かってんだよ。俺が……人から嫌われてるってことくらい」
「…………」
悲しみを帯びたその声に――この男の心臓は動くことはなかれど、心は確かにそこにあるのだと、イコラオスは確信する。
「どんなに頑張っても、人から感謝されないってことも。どんなに血を流しても、誰も心配してくれないってことも……分かってるさ。分かってんだよそんなこと」
だからこそ、さらなる憤りは膨らむ。
そんな不遇な現状を受け入れてまで、人のために戦う義理があるというのか。
こんなところで、死ぬか生きるのかの戦いに身を投じる必要があるというのか。
「全部分かってんだよ。そんなことは、百も承知で森を出たんだ」
「だからなぜそんな奴らのために貴様が――!!」
「月が綺麗だから」
吠える巨人の声に、吸血鬼の静かな言葉が溶け込む。
何の偶然か、ちょうど空から雲が避け、月光がムメイの頭上へと運ばれる。
月明かりに照らしだされた吸血鬼の姿は、やはり――血に染まっていた。
「男が戦う理由なんて、そんなもんだろ?」
「…………」
疲れたように笑う姿は、少し照れているようにも見えた。
だからこそ、イコラオスにはこの言葉が正真正銘、彼の本心なのだと分かった。
(そんな……そんなことのために……)
この場に立ち会う者がいれば、誰もが語り継ぎ、英雄譚にするほどの激戦を――誰も見ていない。
この吸血鬼がどれほどの苦痛の中戦っているのか、どれだけの血を流した上で立ち上がっているのか――誰も知らない。
そしてその先に勝利を収めたとしても、誰にも感謝されることはない。何の見返りもない。誰も褒めてはくれない。努力を認めてはくれない。
それでも――それでも――
(これほどの男が……女一人のために……)
世界を制する器だ。あちらでは、冗談ではなく引く手あまた。
そんな男が、惚れた女のためだけに、地獄に身を置くことを受け入れる。
生を投げ出したくなるほどの苦痛にも耐え、戦い続ける。
自分では決してあり得ないような答えだっただけに、イコラオスはようやく、ムメイの戦う理由を飲み込めた。
「然り……然り。野暮なことを聞いてしまったな」
「ほんとだよ、勘弁してくれ。俺は一度使った決め台詞をもう一度使い回すような男が、世界で二番目に嫌いなんだ」
「…………」
待ってましたとばかりに急に饒舌になったムメイに、イコラオスは目を丸くする。
そんなイコラオスを、ムメイは冷ややかな目で見つめていた。
「…………一番嫌いなのは、『二番? じゃあ一番は?』って聞き返してくれない察しの悪い男だ」
どうやら、イコラオスの相槌を待っていたらしい。
そんなことを言われても、年寄りに若者のルールを押し付けるなとしか言いようがないが。
しかし、そんなイコラオスにも返せる言葉はあった。
これだけは、どうしても言っておきたかった。
「そうか……私はどちらも嫌いじゃないな」
「嬉しいよ」
イコラオスはムメイの答えも、ムメイ自身も、嫌いにはなれなかった。
そうまでして戦いを選ぶ誇りある戦士の姿に、イコラオスは敬意を示す。
今のこの世に――これだけの存在がいた事実に、深い喜びを噛み締めながら。
「それと、いくら俺が子供みたいに可愛いからって、あんまガキ扱いすんなよ?」
「っ!!」
その時の驚きは、先の衝撃をも超えていたかもしれない。
なぜなら、指摘されたのだ――イコラオスの、後ろ暗さを。見透かされたのだ、心の内を。
戦いの最中、イコラオスにはずっとある想いがあった。これでいいのかと。
知識なきもの、力の扱い方も知らぬ者を一方的に嬲る。これが良い気分なわけがない。
例えるなら、子供を相手に乗馬や腕相撲で勝負をしかけているようなもの。そこには圧倒的有利不利が存在し、はなから勝率に大きな差が存在する。
天術魔術を用いた戦闘。これにどれだけの戦闘経験と膨大な知識量が必要になるか、分かっているイコラオスだからこそ、この勝負には気が引けたのだ。
本来魔王に匹敵するほどの力ある者を、己に有利なフィールド、己の有利な戦いで一方的に蹂躙し、痛めつけるような鬼畜の所業に――気後れしていた。
しかし――
「全力でやろう。俺も楽しんでるからさ」
「…………」
月光の下、吸血鬼は――笑う。
その表情には、イコラオスに対する負の感情というものが、全くと言っていいほど読み取れなかった。
イコラオスは知っている。己のスキルによって心身を弱体化させられた者が、どれだけの苦痛を味わうか。
痛みは、正常時の数倍の痛みに変換され、さらにアンデッドの致命的弱点である火と光によって、ムメイは体の芯から焼かれているはず。
肉体の骨を砕かれ、肉をすり潰される痛みも、想像を絶するだろう。本来であれば、もう二度と立ち上がりたくないと思うほどの攻撃を、もう何度となく味合わせているのだ。
それは不死身の吸血鬼であったとしても例外ではない。いや、不死身だからこそ、痛みは永遠と繰り返される。
逆ならばどうか。イコラオスが彼の立場だったら。
知識もない、経験も浅い、まだ戦場に立ち始めたばかりのような自分に、格上が圧倒的有利な戦いを仕掛けてきたら。関知せぬまに、必殺の罠へと嵌めてきたら。
ずるいと思うだろう。そんな条件は対等ではないと。
格下の知識不足、経験不足に付けこみ、一方的に蹂躙して勝ち誇る。本当は対等な力を、いや、上回るほどの力を有しているというのに。
強い憎しみを抱くはず。敗北など到底受け入れられず、卑劣な相手を軽蔑すらするはず。
それが当然。それが人の心。
しかし、それでもこの男は――
(長生きはしてみるものだな……ルコス。俺も……俺もようやく、巡り合えたよ)
ずっと求めていた、真の好敵手。
自分を超えるほどの――男。
ルコスが手に入れた全て一切を手放し、還らずの森へと向かった理由が、今ようやく分かった気がした。
「生意気な小僧だ。ならば楽しむ余裕など無くしてやる」
「いいね、そうこなくっちゃな」
巨人は、笑う。吸血鬼も、笑った。
イコラオスは、ここに心を決める。もはや悪いなどとは思わないと。
覚悟を決めた戦士を前にそんなことを思う方が、遥かに無粋だった。
全力を持って殺す。それが互いの望み。
ふらつきながら、なんとかその場に立っているという状態の吸血鬼に、イコラオスは今再び――向かい合う。
ムメイの言葉は強がりもいいところではあったが、男とはやはりそういう生き物だった。
根拠もない虚勢。経験浅い若造の、上位者への敬いの欠片もないような不遜な挑発。
二人は互いの全てを受け入れ、最後の戦いへと臨む。
峡谷を風が吹き抜け、肌を焦がすような緊張感だけが、そこには残った。
「砕けよ!!」
先手を取ったのは、イコラオスだった。
それも当然。速度ではムメイの方が上なのだ。瞬間速度も、最高速度も、いずれも速度の領域の勝負においては、吸血鬼に軍配があがる勝負。
ならば必然、イコラオスが先に攻撃を入れるためには、ムメイよりも動き出しを早くするほかない。
豪速の剛腕、同じ巨人族ですら恐れ慄く様な一撃が――大地へ迫る。
「あ"あ"あ"あ"っっ!!」
それは、肉体の痛みを紛らわすための叫びか。それとも己の精神を奮起させるための鼓舞か。
猛り十分の咆哮を吐き出しながら、吸血鬼は大地に身を低く伏せた。
背中を超速で風が通り過ぎ、そして引き戻すような逆風が発生した直後、風が止む。
真空にも感じられるような時間が生まれたその刹那に――。
吸血鬼は、破壊の暴君と化した。
「――っっ!?」
けたたましい破壊音。巨人を蹴り上げ、天へと送る。
世界中の暴力がその身に結集したような強大なる存在が、今――
大地を離れ、宙へと浮かび上がった。
「お"お"お"!!」
イコラオスの四肢が大地を去り、衝撃に天を目指そうとした時、追従するように空へと舞い上がる影が見える。
放たれる、追撃。それはイコラオスをさらなる高みへと押し上げる、連撃だった。
空中で態勢を整える暇も与えられず、二撃三撃と、全てが余すことなく全力の一撃が叩き込まれる。
この巨体が空を飛ぶ。常識で考えればあり得ないような現象。
空への加速に十分な勢いがつく。しかし、猛攻は止まらない。
「<一触即動>!!」
「うぐぅっ!?」
蹴りの衝撃に更なる威力が加わり、イコラオスは遥か天へと押し上げられた。
まるで見えない掌底を叩き込まれたように、上昇していく高度に抗う術がない。
(気づいていたか!!)
イコラオスは超速で空へと吹き飛ばされながらも、何とか意識を保ち、思考を回転させる。
なぜムメイが、戦場を空へ変えたのかという理由を。
それはムメイが、天へ届けられるイコラオスの後を追わず、大地に帰っていることから明らかとなった。
イコラオスの魔術――<子らへの贈物>には、弱点が大きく二つ存在する。
まず時間。発動は夜の間でなくてはならず、朝が近づくほどにその効果は弱まる。
そして距離。能力正常値が及ぶ発動範囲は、イコラオスにとっての6畳一間にあたり、実数値に直すと四方約11メートル、高さにして約8,5メートルの距離までに限定される。
つまりは、この範囲から対象が離れれば離れるほどに、能力の威力は落ちていくのだ。
それを踏まえてこの現状。イコラオスが空の彼方まで飛ばされてしまっている今、ムメイにはほぼ<子らへの贈物>の弱体化は及ばない。
(しかし、いつ気が付いた!? 一体どうやって――っ!?)
その時、300年もの戦闘経験値から導き出される戦士の勘が、イコラオスに答えを告げる。
今のイコラオスと同じく空の彼方へと飛ばされてしまった、彼の一本目の武器を。
(そうか!! あの時!!)
イコラオスの手に武器を戻さないためとはいえ、やけに遠くまで飛ばすなと思っていた。不自然なほどに、遠くまで。
あの時、ムメイはイコラオスから得物を取り上げるだけではなく、同時に操作能力で大槌を操り、魔術の有効射程範囲を調べていたのだ。
そして気付いた。イコラオスから遠くにあるものには、能力の影響が及びにくいことを。
「見事……見事!!」
距離が離れれば離れる程、効果は薄まる。
単純だが、初見で見抜いた者は未だかつて一人として存在しなかった。
戦闘に最も重要な思考の柔軟性と瞬発力。
それらはある面では、経験よりも必要となってくるもの。
ここに垣間見た。イコラオスをして脱帽するほどの――圧倒的戦闘センスを。
「ならば私も!! いいや俺も――!!」
やがて雲を超え、イコラオスが月の世界へと到達した頃、ムメイの操作能力の効果が消え失せる。
解放され、浮遊感と喪失感を同時に味わいながら見下ろせば――
大地には、空を睨み上げる小さき存在。
落下死など望むべくもない――張り詰めた殺意の瞳が、イコラオスを射抜いていた。
その相手を見止めた瞬間、イコラオスの肉体に爆発的興奮が駆け巡る。
巨人は数百年に唯一の高ぶる激情に、吠えた。
「魔人の全霊を持って、貴様を沈めてやる!! この空で、今決着をつける!!」
イコラオスには、転移の魔術があった。先の攻防でムメイの背後を取った能力だ。
それを使用すれば、空から大地まで、一瞬で戻ることも可能。
そして踏み込む足場もないような空では、巨人よりも吸血鬼の方が圧倒的に有利。
空は、吸血鬼の世界なのだから。
しかし――
『全力でやろう。俺も楽しんでるからさ』
「来い!!」
イコラオスはそれを選ばない。
ルコス以来、イコラオスが二人目の好敵手と見定めた存在の挑戦に――
イコラオス自身が、己に逃げることを許さなかった。
「<浪漫非行>!!」
大地に嫌われるように、吸血鬼は舞い上がった。
それは、身を焼かれると分かっていながら太陽を目指す愚かな人のように――
高く、どこまでも高く、つき進む。
凄まじい速度で空へと駆け上がって来る男を、イコラオスは迎え撃つ。
能力圏外から、吸血鬼本来の力と加速を伴った飛来。
これを打ち破ってこそ、真の勝者だと。
「貴様に――最期の贈物を授ける!! 魔王の地の洗礼をくれてやる!!」
瞬間――巨人の肉体が膨らみ、筋肉が膨張する。
その巨腕による振り上げは、空に風を起こし、雲を容易く押しのけた。
対して、吸血鬼は空間に穴を穿つ速度で天へと上る。
二人の間に大気の震えと、目に見えない空間の歪が発生した時――
両者はほぼ同時に、攻撃態勢へと移った。
「<焔光の>――!!」
イコラオスの誇る両槌が、一層の輝きを放つ。
一方は燃え盛る豪炎を立ち昇らせ、また一方は月光覆い隠す程の煌々に煌めいた。
天候を変えてしまうほどの炎と光。空が荒れ狂い、天災の一撃がここに宿る。
「<狂月の>――!!」
対して、天に向かって一直線に昇っていく吸血鬼の身は、漆黒の闇を身に纏った。
それは決して手に届かない月を目指す人の夢――男の蛮勇。
どこまでも高みを目指す、力の奔流だった。
高速で接近する影と、迎え撃つ焔光。
やがてそれらは天の上でせめぎ合い、まさに頂上の戦いに今――終結の鐘を鳴らす。
「<奈落巨人>!!」
「<漸近鬼>!!」
力と力の激突は、天を割り、雲を晴らし、星を降らす。
この瞬間――
世界は、たった二人の存在に――狂わされた。
***
「――なんだよあれ…………」
空に――穴が開いた。
そうとしか言いようがない光景に、ミサは息を飲む。
炎、光、雷、闇――それらが天に嵐の奔流を巻き起こし、その後、弾けた。
雲が押されるように晴れ、大気に大穴が開けられた。月と星々が大地に降り注ぐように、夜空が近く見える。
あんな光景は見たことが無い。まさに環境の暴力。まさに人知を超えた災害。
決して生物が起こせるものではない。
しかし――あの位置は。
「うそだろ……どうなってんだよ……」
世界に、何かが起き始めようとしている。
ビリビリと震える空気が、その予感を届ける。
その気配をミサが肌で感じ取っていた時――
「どこ見てんのよ」
勇者は三度、立ち上がっていた。
「はっ! またそれかよ! 何度も何度も同じ技で! そんなんじゃ男に飽きられるぜ!?」
その構えは、もう幾度となく見て来たもの。
見るからにボロボロの体。満身創痍の頼りなさ。
足も震え、構える手も震えている。瀕死の重傷は間違いがない。
それでも勇者は、引き絞った剣先に、銀の光を宿らせていた。
「私は……一途な女なの」
「当たらねえよ! 何度やったってなぁ!! よく狙って当ててみろや!!」
ミサは当然、回避の体勢に入る。
事実、これまで何度となく放たれたこの技が、ミサの体に当たることはなかった。確かに大した速度だが、刺突攻撃は攻撃範囲が狭く、指向性も丸わかりのためよけやすい。
さらにルルワのこの攻撃にはタメが必要であるようで、その致命的な隙は、ミサからすれば避けてくださいと言われているようなものだった。
「あなたまさか……まだ自分がこの場所を選んだと思っているの?」
「……なに? っ!?」
瞬間、ミサは突然体のバランスを保てなくなる。
まるでタイミングを見計らったような異変に、これ以上ない動揺が襲った。
慌てて目をやれば、そこには沈んだ大地。いや、大地に沈んだ己の四足だ。
「なっ!?」
獣の四肢が、地に沈み込んでいる。
それだけではない。まるで底なし沼のように、もがけばもがくほどに、足を取られるのだ。
「要塞前の大地は、いくつかの仕掛けが発動できるようになっている。あんたがよそ見ばっかりしているうちに、用意してくれたわ。取るに足らない雑魚がね」
「――まさか!?」
不自然な程騒がしかった城壁の兵士たち。
こんな状況でなに応援なんかしてんだと思っていたが、あれは罠発動の事実からミサの注意を逸らすため。
確かに煩わしい歓声に、上ばかりに視線を取られてしまっていた。そうなれば、下の注意は散漫になる。
だから大地の変化を、ミサは気取れなかった。
(何度も地面を転げまわっていたのは、上に合図を送ってたってのか!! 俺がここに誘導された!? いや、今はそんな場合じゃ――!!)
「っ!?」
それに気づいた時には、もう現実は差し迫っていた。
致命的な隙を何度も見逃す程、勇者は甘くはなかった。
耳が痛いほどの金切り音が鳴り響き、空気を震わす。
夜闇を撃ち抜く銀の輝きが――ここに爆ぜた。
「まっ――!!」
「<銀の弾丸>!!」
勇者は――壁を超える。
彼女が彼女である限り、どんな壁でも、何度でも――
この日、世界を震撼させる一大事件が起こった。
勇者死亡の報を受け、北領域攻略に乗り出した二勢力が、一夜にして全滅の憂き目に合ったのだ。
そこには南領域で40試練と名高き女傑ミサと、12使徒最強――8人目の魔王とまで称され、大陸全土に恐れられていた魔人イコラオスの名が連なる。
この二名の死と、大攻勢の敗北をきっかけに――世界は大きく動き始める。
歴史が今――変わろうとしていた。
実験的にタイトルを変えてみました。また戻すかもしれません。
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