第020話 森を出た吸血鬼
「――あっ……んっ……」
「…………」
「あっ……! はぁん……!」
「…………」
人生初の、人に対する――吸血。
それも相手は――極上の美女。
まさに吸血鬼の面目躍如。
異世界に生を受けて300年。現在”吸血鬼転生”の真骨頂へと到達していた俺は――
――興奮していた!!
(エロい!!)
「あっ……くっ……はぁっ!」
喘ぎ声をあげながら、俺の胸の上で、美女が乱れる。
それは血を吸い始めた途端に始まり、次第に声には快楽の色が乗っていった。
「あっ!? あんっ!」
クネクネと肢体がくねり、豊満な体がこれでもかとこすり付けられる。耳元には、エロティックな声に合わせ、生暖かい吐息までもが吐きだされるのだ。
そこに追い打ちをかけるのが、ルルワの血の例えようもないほどの旨さであり、これまで啜ってきた血は腐っていたのかと思うほどの美味には、このまま昇天してしまうのではと本気で思うほど。さらにここに女体の柔らかさ、温かさ、そして汗の匂いなんかのトッピングもついてくる。
こんなの正気を保てる男がいるだろうか。いいやいない。吸血鬼にだっていない。
「ルルワ……大丈夫か?」
「はぁっ……! はぁっ……!」
俺はどんどん吸いたいという自身の欲求をなんとか打ち切り、吸血を終了する。
確か人間が一度に抜いていい血の量には限度があったという知識を思い出して。
ようやく吸血鬼から解放されたルルワは、くたっと力なく倒れ込む。俺の胸の上に顔を乗せ、荒い息を吐いて必死に呼吸を整えていた。
しかしすぐに、俺の声に導かれるように、目を開き、顔をあげる。
「っ!?」
「はあっ……はあっ……」
恍惚とした表情。
トロンと熱を浮かすような瞳に、上気した頬。口元から僅かに垂れた涎は、テラテラと輝いている。
明らかに、正常ではない。ルルワも興奮しているのだと、一目で分かる姿だった。
俺はないはずの生唾を飲み込む。その魅惑から、目が離せない。
「っ!」
愛しいものに触れるように、頬へと手が置かれる。
男の上に乗り上げ、身を乗り出してまで覗き込んでくる少女。熱っぽい瞳で俺を見下ろし、生暖かい息を俺の顔へと吐きかける。
緩んだ胸元からは大きなものがチラリとその姿を見せ、どうしようもなく情欲を誘う。
全てが淫靡。一挙手一投足が誘惑。
俺はその誘いに、抗えなかった。
「ふっ、ふっ……んっ……」
「…………」
ルルワを少し乱暴にひっくり返し、位置を入れ替える。
月も出ないような暗い森の中、石のベッドの上へと女を押し倒す。
情緒もへったくれもないような場所ではあるが、吸血鬼の初めてとしては風情があるという見方もギリギリできるだろう。もはやそんなことはどうだっていいが。
「…………」
「…………」
広がる金髪、はだける服、乱れる体――
全身から解き放たれる色香が、どうしようもなく俺の男を誘った。
俺たちは見つめ合い、身を重ね合い、そして本当の意味で体を――
「だめぇ!!」
「ぶへぇ!?」
瞬間――吸血鬼の絶叫が、木霊する。
彼女の胸に手を伸ばし、唇が触れようとしたまさにその瞬間――俺は吹っ飛ばされたのだ。
どう考えても、今だけは絶対にあり得ないというタイミングでの平手に、俺は成すすべなく吹き飛ばされる。
もはや吹き飛んだ方が心は救われた。
「ふぅ……危ないところだったわね」
「…………」
ほとんどダメージも痛みもないが、俺は地面に転がり、そのまま起き上がれなかった。
純然たるショックに打ちのめされる。まさかあの状況から拒絶されることがあるなどと、誰が想像するだろうか。
ならさっきの蕩け顔はなんだったのか。もの欲しそうに見つめてきた視線はなんだったのか。嫌がる女があんな顔をできるのか。女性不信まっしぐらだ。
それともこれが美人局という奴なのか。
「あ、ごめんなさい」
俺がもうすぐ出てくるはずのヤクザ男を返り討ちにする覚悟を心の中で決めていると、女が駆け寄って来る。
俺は何を言われても耳を傾けない意志を決める。どうせ示談金や口止め料の請求だろう。
「でも危なかったのは本当なの。私もまさか、吸血鬼の吸血がここまでとは思ってなくて……」
「…………」
「本当に、嘘じゃないの。これはあなたのためでもあったのよ?」
「…………」
俺は地面で丸まり、そっぽを向き続ける。
男心をなんだと思っているのか。俺も今回ばかりは、そう簡単に許してやるつもりはない。
しかし、俺の覚悟はいつも通りのなけなしだった。
「…………ょじょ」
「…………」
「処女…………じゃないと」
その単語が耳を掠めた瞬間、俺は即座に顔をあげ、身を起こす。それはもはや、条件反射の類だった。
大切な彼女の話を蔑ろにする男がいるだろうか。いいやいない。俺はそんな男ではありたくない。だから決して処女という単語に釣られたわけではないはずだ。
「処女?」
「うん」
「処女?」
「ええ」
ルルワは乱れた髪や乱れた胸元をいそいそと直しながら、俺の問いに答える。
深呼吸も繰り返してなんとか内なる興奮を鎮めようとしているようだが、頬は未だに赤く、表情は恍惚としていた。
そう言えば、吸血鬼の吸血は快感が発生するとか、そんな話を聞いたことがある気がする。そう考えれば先の彼女の様子にも矛盾はなかった。
俺はそんなルルワに向かい合うように座り直すと、首をかしげる。
「処……女?」
「純潔ってことよ」
「純……潔?」
「未経験ってことよ」
「未経……験?」
「清らかな乙女ってこと」
「乙……女?」
「男の人と、そういうことを一度もしたことがないってこと」
「そういう……こと?」
「なんで急に頭悪くなるの?」
お馬鹿な吸血鬼のおかげで冷静になれたのか、ルルワはほとんどいつもの調子を取り戻していた。俺もだ。
流石にあれほどいい雰囲気からのビンタ炸裂には正気にもなるし、更に続いた衝撃の事実の前には、そんなことすらもはやどうでもよくなる。
「王女なんだから当然じゃない。なんか文句ある?」
「いや、助かる」
「助かる?」
めっちゃ助かる。
想い人が処女っていう情報だけで、男はほんと助かる。
「要するに、処女の血じゃないと駄目ってこと。だからさっきは本当に危なかったわ」
「ああ……なるほどね。17歳王女の処女の血の力じゃないと、駄目ってことか」
「17歳いる?」
彼女の血ならなんでもいいのかと思っていたが、そんなルールがあったとは。
俺は素直に感心する。興奮冷めやらぬ今、重大な落とし穴がそこにあるとにも気が付かずに。
「……その腕だけど」
「ん? ああ」
突然の話題替えだったが、心の優しい彼女にはことさら違和感はなかった。
俺は素直に示された腕を見る。
「気にしなくていいよ? 別に対して使い道も――」
「…………」
「どうしたの?」
「いや……やっぱ左手にしとけばよかったなって……」
沸き上がる後悔の念。
なんで俺はよりにもよって、右手にしてしまったのか。
男の利き手には唯一といってもいい定められた役目があるというのに。
「話が逸れちゃったけど、その腕、今ならなんとかなるんじゃないの?」
「なんとかって?」
「アベルとの戦いの時、あなた腕治してたじゃない」
そうだ。彼女はあの時も意識があったのだ。
しかし彼女は勘違いしている。太陽による傷だけは、俺の能力でも治せないのだ。
「ほら、人の血だとどうなるか分からないでしょ?」
「っ!」
それは決して、馬鹿に出来ない仮説だった。
「そうだな……確かに。17歳王女の、処女の血の力なら……」
17歳で、王女で、勇者で、美女で、そして処女の血であれば、なんとかできるかもしれない。
「<公序陵辱>」
「やった!」
俺の代わりに、歓喜の声をあげるルルワ。
そんな中、俺は自身の現状を、唖然と見下ろしていた。
(これは……)
アベルとの戦いで欠損した右腕だけではなく、過去太陽に焼かれた指まで元に戻っている。
足を隠しているボロ布を外せば、そこには綺麗な両足があった。
つまり、肉体の完全なる復活である。
「これが……これが17歳王女の、処女の血の力……」
「なんで毎回フルで言うの?」
もちろん敬意を表してだ。その方がなんとなく力も出る気がするし。本当になんとなくだ。
「ありがとうルルワ……本当にありがとう」
俺は右手を見下ろし、感謝の心に震える。
男は、何を失おうとも右手だけは失ってはならなかった。
「んっ」
処女の血を取り込んだことにより、何か新しい力にでも目覚めそうな右手を俺が見下ろしていると、ルルワは立ち上がる。そして、両手を伸ばした。
まるで何かを寄越せとでもいうような手ぶりに、生涯無一文の俺はないはずの冷や汗を流す。
彼女は示談金を諦めていなかったのだと。ここまで完璧で計画的な美人局を、俺は見たことが無い。
「腕が戻ったら、最初にやることはなに?」
「ん?」
当然、違った。
彼女は察しの悪い男を見て、唇を曲げる。
「自分の女を抱きしめる、でしょ?」
「ああ……」
俺は無い金の用意とアホみたいな妄想を手放し、空いた両手でルルワを抱きしめる。
彼女はやはり、俺を騙してなどいなかった。そもそも彼女になら、騙されてもいい。
俺たちは抱き合ったまま、どちらからともなく、再び石のベッドへと横になる。
「私、今夜はここで寝るから。あなたが布団になって」
それは、寒いのではなかろうか。
俺は吸血鬼だから問題ないが、彼女は人間。そして夜の森は冷え込む。
「移動しようか? 俺ならすぐだぞ?」
「ううん、ここでいい。ここがいいの……」
ルルワは俺の胸に顔を埋めると、目を閉じる。
俺はそんな彼女に両腕を回すと、しっかりと抱きしめた。
「そうか……」
俺には体温が無い。
だから、彼女を温めることができない。それでも、彼女は俺の胸の中で、寝てくれるみたいだ。
ようやく落ち着いたのか、男と女は、静かな夜を取り戻す。
興奮状態から平静を取り戻した俺は、遅れてその事実に気が付いた。
「……ん?」
『私の……私の血を飲めば、あなたは《《一時的に》》太陽を克服することができる。この森から出られる』
「どうしたの?」
俺の微かな気配の変化にも、ルルワは目敏く反応する。
俺は間違っていて欲しいと、救いを求めるように彼女を見下ろした。
「ルルワの――17歳王女の処女の血を飲めば、俺は一時的に太陽を克服できるんだよな?」
「ええ」
なんでフルで言うのかというツッコミは、なかった。
俺のいつになく焦った表情に、ルルワも感化される。
「一時的ってどれくらいか分かるか?」
「…………一週間? いえ……10日くらいだったかしら? ごめんなさい、ハッキリとは。国に帰ったら、また調べてみないと」
しっかり思い出そうとしてくれたルルワには悪いが、正確な期間など俺にはどうでも良かった。
問題は、一定期間血を取り込み続けないとならないところにある。
「じゃあ俺は10日に一度くらいのペースで、ルルワから血を吸うわけだ」
「ええ」
「それで、その血は処女の血でないといけない……と」
「そうね」
もう答えは出ているようなものなのに、それを言葉にしたくない。
俺は喉元まで出かかっていたその答えを、込み上げる吐き気によって、ようやく世界へと解き放った。
「ルルワ、一生処女じゃない?」
「ええ」
そして俺の、生涯童貞がここに決定した。
涙は流せないはずの俺だったが、確かにその夜は、泣いた。
***
アガトスらの墓参りを含めた”還らずの森”聖地巡礼ツアーを済ませた俺たちは、ようやく、本当にようやく――
森の外へと出ようとしていた。
絶えず他愛もないお喋りを続け、二人して森の中を並んで歩く。
ちなみに今日のルルワの服装は、俺の服かも分からないようなボロ布ではない。どうやら収納系のアイテムを彼女は持っていたようで、新しい服を既に着ていた。
じゃあなぜ昨日は着替えなかったのかと問うたら、なんとなくと返されてしまった。アガトスやアベルの返り血はできるだけ洗い流していたものの、決して清潔とは言えない服だったろうに。
おかげで俺は昨日一日上裸のまま過ごすハメになったが、俺には寒いとかないので別に文句はない。今日、ルルワの一日分の匂いがしみ込んだ服を着られているし、本当に文句はなかった。
「外での、俺たちの関係を決めとかないとな」
「関係? 恋人でしょ?」
森の出口がいよいよ近づいてきたタイミングで、俺は切り出す。
当然のように言い切ってくれる女の存在が嬉しく、また彼女には感謝の念が堪えないが、それではまずい。
「いや、それじゃ駄目だ。駄目な理由があり過ぎる」
一国の王女に恋人というだけでもまずいのに、その相手は人間ですらない化け物。
しかも彼女は世界を救う勇者であり、吸血鬼に縁のある家系でもあるときた。
何度も言うようだが、俺たちは見方によっては最低最悪の組み合わせだ。
たぶん世界で一番祝福されないカップルだろう。
「あなたは……」
「ん?」
ルルワにも、それは分かっているはず。彼女は分かっているからこそ、俺の言葉に否定ではなく、愚痴をこぼした。
「あなたは、それでいいの?」
「ルルワ……」
平静を装ってはいるが、どこまでも悲しみを帯びたその声に、俺は立ち止まる。
そして彼女の手を引くと、胸の中に収めた。
「気持ちは分かるよ。俺だって、お前と同じ気持ちさ。家族、友人、パートナー……どんな関係だろうと、恋人以外は絶対に受け入れられない。受け入れたくない。俺は……お前の恋人じゃないと……」
「うん。私も……あなたと同じ気持ち」
森の中、俺たちは抱きしめ合う。
両腕を回せば自然と寄り添ってくれる女の存在が、本当に愛おしかった。
「でも、決めたのは俺達だろう? 外で生きるって」
「……うん」
「助けたいんだろう? 人を」
「……うん」
俺は、ルルワのことを知っていた。
彼女が、とても優しいことを。
彼女が、人を救いたいと心から思っていることを。
彼女は諦めたくて諦めていたわけではない。諦められなかったから、これまで必死に足掻いていたのだ。
だから、もう諦めさせてやりたくない。
「俺たちで救おう……世界を。俺が君を、救ってみせる」
「…………うん」
寄り添い、互いの想いを確かめ合う。
しばらくの時間を経て、俺は彼女を解放した。名残惜しそうに見てくる上目遣いが可愛い。
「人を救うなら、人の世界に入る際の身分証は、やはり必要不可欠だ。不用意に人を敵に回さない。これが求められる最低条件」
「ええ、そうね」
そのためには――
「最低でも、勇者が吸血鬼を完全に支配下に置いている。完璧に制御できていると、周囲に思わせなければいけない。そのためには、分かりやすいアピールが必要だ」
「なら、契約者でいいんじゃないかしら? 外には<死霊使い>って職業があるから」
そういう戦い方をする勇者と思わせるってことか。
化け物を支配し、それを操って戦う存在だと。悪くない提案だ。敵には効果的だろう。戦術的にも体裁的にも。だが――
「契約による支配。シモベってことか……悪くないけど、ちょっと弱いな……」
それは能力か何かで支配するということなのだろう。
俺なら、勇者がちょっとでもヘマをしようものなら、突然暴れ出すんじゃないかとそんなイメージをしてしまう。
それに、もうちょっと大衆に分かりやすいインパクトが欲しい。死者を扱って戦う<死霊使い>とやらは、そこまで一般に知名度が無いのではなかろうか。
俺と同じ懸念をしていたのだろう。ルルワは眉間にシワを寄せるほどに考えた上で、新たな案を提示した。
「なら、”ペット”は?」
瞬間、俺の体に――
電流、走る。
「ペッ……トッ……」
俺は顔を伏せ、体を震わせることしかできなかった。
何が何だか分からないが、とにかく震える。それは、心までもが震えているかのように――。
そんな俺の気配の変化に、慌てたのはルルワの方だった。
「えっと……ペットとして飼われてるってことにすれば、上手くいくんじゃないかと思って。だって、凶悪強大な吸血鬼が、そんな立場を進んで受け入れるはずがないでしょう? 屈辱以外のなにものでもないもの」
「…………」
「ペットって単語を聞けば、誰でも完全な服従関係をイメージするし、何より親しみやすいわ。そこまで落ちているのなら、警戒度も下がると思うの」
「…………」
顔を伏せ、震え続けることしかできない俺に、ルルワも顔を伏せたのが分かった。
「ごめんなさい……おふざけが過ぎたわね。あなたほどの人が、ペットなんて……」
「仕方ないな!!」
瞬間、俺は震えから解き放たれる。
意見を引き下げる様子を見せたルルワに、体が勝手に動いたのだ。
「え……」
「それが人類のため、世界のためだというのなら、仕方がない!! 俺一人の屈辱ならば、甘んじて受け入れる覚悟だ!! どんな立場に落ちようとも、俺は何一つ変わらない!! これまで通り、気高く戦い続けるだけだ!!」
「…………」
既に地面に両手を付き、四足形態へと移行する俺へと、上から冷ややかな視線が注がれる。
関係ない。どんな立場に落ちようとも、俺は何一つ変わらないから。これまで通り、気高く戦い続けるだけだ。
人類のため、世界のためならば、こんな視線にも屈辱にも、耐えられる。耐えて見せる。
「安心してくれルルワ!! たとえ関係性が変わろうとも、俺が君を愛していることだけは変わらない!! さあ、そうと決まれば首輪とリードの準備だ!! 急いでくれ!!」
昨夜、吸血鬼を押し倒し、自身の血を一刻も早く吸わせようとしていた人間の女を見て、引いていた男がいた。
そして今日は――
「…………」
そこには、恋人以外の関係は絶対に受け入れないと宣言しておきながら、嬉々としてペットの立場を受け入れる吸血鬼の姿と――
そんな想い人の姿を、ゴミのような視線で見下ろす、女の姿があった。
こうして、最強の吸血鬼たる俺は、お姫様勇者のペットへと成り下がったのだ。
***
「――もう一つ、決めておかないといけないことがあるわ」
「なんでしょうか、ご主人様」
「やめて。それと立ちなさい」
「はい」
俺は即座に四足歩行をやめて立ち上がる。
おかしい。彼女のために屈辱的な立場も受け入れているというのに、なぜか彼女は怒っている。これが女心の難しさという奴か。
が、そんな空気もすぐに霧散した。
「あなたの名前よ」
「ああ!」
確かに、名無しの吸血鬼のままじゃ旅の門出は締まらない。
そもそもペットに名前がないというのもおかしな話だ。だが――
「それならもう、実は決めてあるんだ」
俺は準備を怠るタイプではない。
こういう大切なことは特に見逃さないタイプだ。
ルルワは俺の言葉に、素直に意外そうな反応を示す。
「300年も名無しだったのに?」
「昨日の夜、寝ずに考えたから」
「標準思考ね。それで?」
徹夜に渡る努力を、軽く扱われる。
まあその通りだ。普通に暇だったから考えていただけ。
しかしそんな態度でいられるのも今の内だろう。俺は満を持して、徹夜で考え抜いたいくつかの候補を発表する。
「クリムゾン・ブラッド。ミッドナイト・ムーン。エクリプス・ノクターン――」
「飼い主は私だから、名前は私が決めるわね」
「え?」
99思いついていた名前の候補のうち、最初の三つで早々に言葉を遮られる。
まさか気に入らなかったということはないだろうから、きっと最初から彼女は、名前を自分で名付けたかったのだろう。
俺は納得しつつも、恨みがましい視線でルルワを見てしまう。せっかく徹夜で考えた案を、聞いてすらもらえない事実に。
「文句でも?」
「キィ……」
「よろしい」
だが、そんな思いもすぐにどこかへ行ってしまった。
考えてみれば、ペットが自分で名前を付けるというのもおかしい話だ。それにルルワに名付けて貰うというのは、それはそれでいい。あらゆる観点から見て非常に助かる。今にも右手が動き出しそうだ。
彼女は腕を組み、顎に手を当ててまで深く考え込む。かなりの長考だ。真剣さが伝わってくる。
やがて、「やっぱりクリムゾンにしとく?」と俺が救い(?)の手を差し伸べようとしたちょうどその時、彼女は顔をあげた。
「”ムメイ”」
「…………」
「あなたの名前は、”ムメイ”よ」
俺はその名前の響きに、浸る。
直感的に、気に入った。すんなりと受け入れられた。
「なるほど……。名前も無い、命も無い、明かりも無い――だから”ムメイ”か。結構センスいいな」
名無しの吸血鬼だから”無名”。
不死者の化け物だから”無命”。
太陽に嫌われているから”無明”。
「もしそうなら、たぶん私はあなたのこと嫌いね」
「嫌いなの?」
「好きよ」
聞けば、即座に好きだと言ってくれる。
これがどれだけ嬉しいことか。300年一人きりだった俺には、それがよく分かる。
「なら、由来は?」
名前を貰い、その名前を受け入れることに決めた俺は、当然の質問をする。
だが――
「秘密」
その答えは、悪戯っぽい笑みに誤魔化された。
***
淡い光差し込む森の中、男と女は向かい合う。
それは、契約の儀式。
「これは――契約」
「血を呑み、血を結び、血で繋ぎ、ここに――永遠の誓いを立てる」
「”ルルワ・シェメシュ”の名において――”ムメイ・ヤレーアハ”へと命じる」
「私があなたを生かしてあげる。その代わり、私のために生きなさい」
「今日から私が――あなたのご主人様よ」
「誓う」
俺たちはここに、永遠の契約を結ぶ。
互いに血を呑み合い、互いの命を血で繋いだ俺たちは――
これからも、互いの血で助け合い、そして――
生きていく。
***
「――怖い?」
「ああ、怖いね」
いよいよ辿り着いたのは、森の出口。
その手前で、俺たちは一度立ち止まった。
「…………」
「…………」
正直、怖かった。怖すぎた。
太陽の恐ろしさを、俺だけが知っているから。
それに――
「大丈夫」
「っ!」
もし失敗し、俺がいつも通りに正気を失ったら、一番側にいるルルワは――
そんなことを考えていた俺に、やはり手は差し伸べられた。
「私を信じて」
「…………」
不安も恐れもない、穏やかな笑み。
仮にそうなったとしても、結果を受け入れると、その顔は語っていた。
俺は頼もし過ぎるパートナーの存在に、笑う。
「そうだよな。処女の血だもんな」
「その処女への絶対の信頼はなんなの?」
俺は差し出される手に、手を伸ばす。
しかしその手を取る寸前で、動きを止めた。
「…………今が最後のチャンスだと思うから、言っとく。今なら同情してあんまり怒られないかもしれないし……」
吸血鬼が太陽の下に出るという一世一代の瞬間ならば、怒りを抑えてくれるかもしれない。
「その前口上で本当に逃げ切れると踏んだのなら、既に目論見は失敗してるわね」
駄目だった。彼女は甘くなかった。
やっぱり17歳王女、それも処女は甘くはない。
「300年前、ルコスのおっさんを野放しにした勇者って、たぶん俺なんだ」
「…………」
「だから……ずっと君を傷つけてたのは、俺だ」
「…………」
ここしかなかった。
ここが、最後のチャンス。
後ろ暗い隠し事をしたままの男に、彼女と森を出る資格などあるはずがない。そんな男が、彼女とこれから、共に生きていいはずがない。
だから、俺は勇気を振り絞った。嫌われる覚悟で。
だが、いややはり――
「じゃあ、なおさら出なきゃね」
ルルワは、それでも吸血鬼に、手を差し伸べた。
己の人生を狂わせた元凶を目の前にしても、それでも――彼女の愛は――
「私を傷つけるより、怖いことがあるの?」
「……ないな」
俺は、その手を取る。
俺たちは、手を繋ぎ、歩き出す。
「生きましょうムメイ。私と一緒に」
「ああ、一緒に生きよう。ルルワ」
俺たちは、森を出る。
二人で、この森を出るのだ。
「――っ!」
一歩踏み出した途端、差し込んできた眩い光に、反射的に目を瞑る。
その明るさに、肉体が先に反応してしまう。強張った俺の手を、ルルワが力強く握り返してくれたのが、分かった。
その唯一の救いに背中を押され、俺は歩き続ける。
不安で、怖くて、逃げ出したかった。でも、俺の隣にはルルワがいるから。
やがて完全に森から出て、太陽の光を全身に浴びたところで――俺は、目を見開いた。
包まれた温かさを、今、全身で感じる。
「――これが……」
――太陽。
そして――外の世界。
眼前には、雄大な自然が広がる。
草原、大地、山、青空、そして太陽。どこまでも遠くまで広がり、果てがないようだ。
世界が色づいているのが分かる。森の中とは、まさしく世界が違った。
これが――世界。
「…………せっかくの太陽なのに、もっと見てなくていいの?」
「いいんだ」
そんな、300年ぶりの世界。吸血鬼が、300年振りの太陽を浴びた歴史的瞬間にあって――
俺は外の世界ではなく、一緒にこの景色を見ている隣の少女を――見ていた。
彼女も俺の視線に気が付き、こちらへと振り返る。
ルルワは、泣いていた。いつも彼女は、泣いている。
「ごめんね。私……泣いてばかりで。かっこ悪いよね……」
「違うよ。君は泣けない俺の代わりに、いつも泣いてくれてるんだ」
両手を絡めるように繋ぎ、彼女と向かい合う。互いに嬉しさを、分かち合う。
もう太陽も、外の世界も、どうだってよかった。
俺は外に出れたから救われたのではない。彼女と一緒に森を出られたから、救われたのだ。
俺たちは太陽の光の下、互いの存在を確かめ合う。
俺たちはここにいるんだと。ここにいていいんだと。
そして――
「ありがとう……ルルワ。俺を……森から出してくれて」
「私こそ……ありがとうムメイ。私と……森を出てくれて」
こうして吸血鬼は、森を出る。
異世界転生から300年。この日、この時、この瞬間――
俺はようやく、二度目の人生をスタートしたのだ。
共に生きていくと誓った女性を抱きしめながら――俺は誓う。
俺はもう――ここには還らない。
吸血鬼転生・序章 ”還らずの森の吸血鬼” 終
これにて『序章』完結となります。
ここまで読んでくださった方々には、本当に感謝しかありません。多くの作品の中から本作を見つけ、そして貴重な時間を割き章末まで読破する。当たり前のことではないと分かっているからこそ、皆さまとの出会いを心より嬉しく思っております。
もしこの先の物語も楽しみたいと思って下さったならば、是非本作品のブックマークをして本章に進んで頂けると嬉しいです。
星★★★★★評価はあくまでお気持ちで、かつ忌憚のないものを頂ければ、私としてはこれ以上の喜びはありません。
この作品を応援したい、他の読者にもおすすめしたい。そこまで思って下さった方がいらっしゃれば――どうかあなたの勇気と優しさを、本作品へとお貸しください。




