第017話 血の叫び
『約束するよ……アガトス。俺が必ず――ルルワを救ってやる』
還らずの森――
ここにようやく向かい合った両雄は、互いに相手を宿敵と見定め、そして――睨み合う。
挑むは、人類の英雄――アベル・シェメシュ。
迎え撃つは、魔王の一人を屠った――名無しの吸血鬼。
それは人と人ならざる者による生存競争の縮図ではなく――
一人の少女の未来と命運を賭けた――ただそれだけの、戦いだった。
「――遅かったね。吸血鬼は遅れてやってくる決まりでもあるのかな?」
「…………」
両手を広げ、敵を歓迎する男――
俺はそんなアベルではなく、その隣に立つルルワを見る。
亡霊か何かのように所在なく突っ立っている、変わり果てた少女の姿を。
(これは……)
直ぐに記憶に呼び起こされるのは、先ほど見たアガトスの姿。
まるで何かに体を乗っ取られたかのように自意識というものが感じられず、語り掛けても一切無駄だった。
おそらくは、アベルの能力に関係しているのだろう。遅かったという言葉も、彼女の様子の変化を指しているのだと当然のように受け取れる。
「それもギリギリでタイミングを逃す。逆に凄いよ。ここまでいくと、よっぽど神に嫌われているんだろうね。君がせっかく、アガトスとのお喋りを打ち切ってまで馳せ参じたっていうのに……」
「あんまり喋ると、言葉が軽くなるからな」
「そうだったね」
こちらの様子を見ていたと言わんばかりのセリフに、アガトスの変化が、アベルの仕業であったことは半ば確定となる。
ならばその手段と、どういう能力によるものなのかの把握――これは急務だ。
おそらくは同じような術の支配下にあると思われる現在のルルワを、救い出す方法はあるのか。
その答えを求めるように少女を眺めるが、虚ろな瞳と魂が抜けたような無表情は、何も語ることはない。だが、物語ることが何もないわけでもなかった。
(…………泣いてたのか)
よく見れば、顔に涙の痕があった。
先のアガトスの様子を見れば、彼女もどれだけの無念の中意識を消失したかは、察するに余りある。流石に今の彼女の顔を見て、”今も泣いてる”――とか言うほど俺はロマンチストではないが。
「でも良かったのかな? 結構仲良くなってたように見えたけど……案外あっさりと殺したじゃないか。彼には奥さんも息子も娘もいるんだけど……胸は痛まない?」
アベルの言うように、俺はアガトスを手にかけた。
その証拠が衣服を濡らす大量の返り血であり、これはアガトスが確かに生きていた証明でもある。
彼はまだ死んでいなかった。だから――俺が殺した。
「心臓止まってるから」
「流石は化け物。その冷酷さを私も見習わないとね」
(…………なるほど)
やはり先のアガトスと今のルルワの状態は、似通ったものと判断していいだろう。
アガトスは一刻も早くルルワの元に向かわなければならない状況だったからこそ、殺害という方法を選んだが、今回はそういうわけにはいかない。
なぜなら約束がある。ルルワを救えなければ、アガトスを殺してまで彼の意志を汲んだ意味がない。
「もういいだろ? この後アガトスたちの葬式が控えてるんだ。お前はあの輪に加わるのは気まずいだろうから、細かく千切って獣の餌にでもしといてやるよ。それともそのままの方がお好みか?」
「ご配慮痛み入るよ。でも餌になるのは私じゃない。君の体に栄養価があるのかどうかは、私も是非知りたいところでね」
(なんでこいつ……こんなに余裕なんだ?)
それはこの場にあって、強烈すぎる違和感。
なぜなら――自分で言うのもなんだが、俺は強い。魔王を殺したという確かな実績もある。
そしてその武勇伝は、ルルワの口からアベルへと既に伝わっているはずだ。ならば今のアベルは、魔王をも超える脅威を、目の前にしているも同じ。
いかに勇者に匹敵する戦士とはいえ、無傷で勝てる相手ではない。どころか、死闘は必死のはず。
その違和感こそが、俺が未だに攻めあぐねている理由の一つだった。あとはルルワを盾にされることを考えて、先に何とか彼女を無力化しておきたいが――。
「不思議だろう?」
「ん?」
例えば気絶でもさせれば、彼女は大人しくできるのか。それとも今が既に気絶に近い状態なのか――そんなことを考えていた俺に、アベルは嬉しそうに語り掛けてくる。薄ら寒い笑みがよく似合う男だなと、俺は皮肉ではなくそんな感想を抱いた。
「私がなぜ、こんなにも余裕なのか」
「ああ、不思議だな。還らずの森二大不思議の一つにランクインしそうだ」
「今までは一つだったんだね。その不思議って?」
「誰も還ってないのに、誰が森の中のことを伝えたのか」
「それは……確かにな」
それは珍しく、アベルの素の表情だった。
その反応が同じ問いをした時のルルワと重なるのは、血縁だろう。認めたくないが、二人は表情や仕草がよく似ていた。
「まあ、時期にその不思議は不思議じゃなくなる」
「ほう?」
「還らずの森から、還る女がいるからな」
それは勝利宣言。
ルルワを必ず取り返してみせると、俺は敢えて言葉にした。
「そうか……ならもう一つの不思議は、私が解き明かそう」
「――っ!?」
瞬間、アベルは動き出す。
ゆっくりと掲げられた右腕と、ピンと伸ばされる指先。
何をするのかギリギリまで目で追っていたこともあり、若干反応が遅れる。その初動の乱れを経てもなお、俺の常人ならざる反射速度は見事回避を成功させた。が――
「っ!?」
攻撃の範囲と指向性を完璧に見切った上での、無駄のない回避。それが逆に仇となった。
急速に拡大した光の中に、俺の体の一部が飲み込まれる。
といっても、ほんの指先。冗談でも攻撃が直撃したとは言えない程度の戦果。
そのはずだった――
「これは……」
勢いそのままに大地の上を滑りながら、俺はダメージを確認する。
掠ったはずの指先だけではなく、右腕のほぼ全てが干からびていた。それはまるで、太陽に焼かれてしまったかのように。
そして攻撃が直接当たった中指の先は――
「凄い反応速度だね。流石は吸血鬼」
――消失していた。
「でも吸血鬼だからこそ、この攻撃は抜群に効くようだ」
「<公序陵辱>」
「っ!」
したり顔を浮かべるアベルを無視し、俺は能力を発動する。
<公序陵辱>は、外から取り込んだ血液を己の中に貯蔵しておき、その血を使って行う自己再生。
干からびていた腕は瞬く間に治っていき、元の健康とは言えないような青白い肌を取り戻す。
「凄いな……それが吸血鬼の再生能力か。まさか太陽の攻撃も癒せるなんて……」
それは正しくもあり、間違ってもいた。
なぜなら先ほど焼失した中指の指先だけは、未だ元には戻っていない。
というより、俺は中指だけではなく、隣の人差し指の指先も無かった。ボロ布を巻いて隠された足の指に至っては、全てが無い。
その理由は当然――太陽。300年にもなる太陽克服のための悪あがきが、俺の身体を一部欠損させているのだ。永遠に。
つまり――
(性質は太陽と変わらないのか……厄介だな)
本物と比べれば痛みは比較にならないが、ほぼ同じだけの効果をもたらすことは間違いない。純然たる脅威は格段に太陽の方が上だが、それを人が操るとなると話は変わって来る。向かい合う相手が吸血鬼であればなおさらだ。
さてどう攻略するかと思考を回していると、アベルの全身が光に包まれる。その意味を理解できない程、俺は鈍くはなかった。
「分かるかな? 私は太陽になったんだ」
「…………」
つまり、アベルに物理的攻撃を仕掛ければ、最低でも接触した部分が持って行かれるということ。
あの光による遠距離攻撃を封じるためには、こちらから接近して本体を仕留めるしかない。しかし本体に触れればこちらの体が消失する。攻防隙のない能力だ。
(吸血鬼ハンターかよ……)
いくら何でも吸血鬼相手に特化し過ぎだろう。外には吸血鬼が一匹もいないとされているらしいが、こいつが狩りつくしたからではなかろうか。
「<一触即動>」
「っ!?」
――そんなことを内心でぼやきながら、俺は続けて能力を発動させる。
過去一度でも触れたことのあるものならば、自在に動かせる操作能力で、ルルワをこちらへと引き寄せる。しかし宙を浮き、俺目掛けて真っ直ぐに飛んでくるルルワは、助けてくれた男に抱きとめられる未来ではなく、拒絶――それも剣での迎撃を選んだ。
「ちっ!」
引き寄せられる勢いに体重を乗せた突きが、繰り出される。
俺がそれを躱し、逆にルルワを捕まえようと手を伸ばすと――彼女は後ろへと飛びのき、アベルを守るような位置へと立った。
(……良い動きだ。勇者と言われるだけはある)
「面白い力だね。それが念動力ってやつかな?」
アベルの言葉を無視しながら、俺は脳内のチェック項目に順次ペケをつけていく。
(やっぱ無理か……彼女も完全に操られているのなら、実質二対一だな)
それは単純な数の差では表しきれないほどの――脅威。なぜならその内の二人ともが、俺の天敵だからだ。
だからこそ、やはり元を断たなければ話にならない。
つまり肉体的接触を避けた、遠距離からの攻撃。
(ルルワが盾にされることを念頭に入れて、攻撃を選ばないとな……)
俺が早くもこの戦闘での立ち回りを定めた頃、それを知ってか知らずか、アベルは切り出す。
「この勝負の決着は、始まる前から決まっている。なぜなら君は、私を絶対に殺せないから」
「……言葉遊びか?」
「いいや、もっと単純さ」
「…………」
無視して攻撃を仕掛けるか――しかし、無視すべきではないと直感が警告している。そしてその第六感は、間違いではなかった。
「私を殺せば、ルルワも死ぬからさ」
***
「…………死ぬ? ルルワも?」
「そうだ」
これを言えば、彼が絶対に攻撃できないことは分かっていた。
しかもハッタリではなく真実であるのだから、なおさら動けるはずがない。
「魔術が魂を代価に行使する力であることは、知っているだろう? 欲望、契約、取引なんかで、その威力は増大していく」
「いや、知らん」
「…………」
何を言っているのかと素で呆れるが、彼の表情に、アベルはすぐに考えを改める。
(そうか……)
この森には、知的生命体が存在しない。彼は人の力について、全くの無知なのだ。
(なら、説明しても無駄か……)
アベルとルルワがどのような種類の契約を結び、精神支配を完成しているか――語ったところで焼け石に水だろう。彼はそれ以前の術師やスキルの基礎すら知らないのだから。
「じゃあ結論だけ言うよ。私を傷つけたら、彼女も傷つく。私が死ぬ時、彼女も死ぬんだ」
「え? じゃあなんでアガトスは死んだのに、お前は死んでないんだよ。逆は受け付けてないのか?」
(…………頭の回転が早いな)
先ほどの魔術の話とは矛盾するが、この吸血鬼は300年森の中に引きこもっているとは思えない程、物をよく知っている。
それに着眼点と、それを見つけ出すまでの早さが凄まじい。
これが300年人間と暮らしている存在なら年の功で納得も出来るが、彼がこの森で言葉を交わせる相手はそれこそ獣くらいしかいなかったはず。
だからこそ――異質。そもそもこんな辺境の森にここまでの力を持つ個人が存在すること自体が、学者の視点から不可解と言わざるを得ない。
常識では計り知れない存在。学者が匙を投げる怪異。いっそ、別次元からやってきた謎の生命体とでも思いたいほどに――
存在そのものが、不気味だった。
「何か勘違いしているようだけど、ルルワとアガトスの状態は同じじゃないよ? 精神支配の種類が違う」
「…………」
「まあそれを君に語ってもね。条件型契約の理屈も知らないようだし……実際に見せた方が早い」
アベルはホルダーからナイフを引き抜くと、自身の頬を傷つける。顔を選んだのは、一番目につき、分かりやすい箇所がそこだと思ったからだ。薄皮一枚を裂くパフォーマンスだったが、観客の視線はアベルにはなかった。なぜなら――
「…………女の顔に、なんてことするんだよ」
「君の女じゃないだろ?」
「ああ、お前のでもない」
変わらず軽口を叩く吸血鬼だが、これ以上に無い程警戒が高まったことを、アベルは見逃さなかった。それも当然だろう。
「じゃあ何か? 俺はその太陽ボールを掻い潜ってお前に直接攻撃したら、体が消し飛ぶ。太陽ボールを躱しながら遠距離攻撃しても、ルルワが傷つくと」
「直接攻撃でも、ルルワは傷つくけどね」
「なおさらダメじゃん」
そう。だから最初から、勝敗は決まっているのだ。
ルルワを救い出すという目的でアベルと相対している限り、吸血鬼は絶対に、アベルを殺すことはできない。
この状況に持ち込んだ時点で、アベルの勝ちは決まっていたのだ。
「なるほどな。じゃあ最後に……一つ聞いといていいか?」
「ああ……いいとも」
だからこの勝負の行末は、吸血鬼の死という結末しかあり得ない。
しかし彼がいかに頭の回転が早いとはいっても、その結論しかないと頭で理解したとしても、命を諦めるにはあまりに言って早すぎるだろう。それとも300年も生きていると、そこまで生への執着というものはないのか。
アベルは完璧な優位を持ってしても、油断なく吸血鬼を見据える。何かアベルの想像を上回るような、切り札を隠し持っているのかもしれないと踏んで。
「アガトスからなんとなくは聞いたけど……要は外が怖いから引きこもりたいんだよな?」
「…………そうだね」
言いたいことは多々あったが、完結に要約すればそうなってしまうので文句を飲み込む。むしろこれ以上に無い程的を射ていた。
「ならなぜ彼女を巻き込むんだ? この森にいたいんなら、お前だけ残ればいいだろ。別に俺はここを自分だけの森なんて言った覚えはないぞ?」
「巻き込む? 人聞きの悪い言い方はやめて欲しいな。私は彼女を救っているんだ」
流石にこれは黙って聞いてはいられなかったので、反論する。
そう。アベルはただ、ルルワを救いたいのだ。
「救う……ね。拉致監禁にしか見えないけど」
「否定はしないさ。だがそれが、彼女のためなんだ」
「…………」
もの言わぬ人形と化したルルワを、吸血鬼がこれ見よがしに見つめる。アベルは、ルルワを見なかった。見れなかった。
「君は外の世界を知らない。外には、本物の化け物たちがいる。彼女はそれを全部倒せと世界中から言われているんだぞ? 可哀想じゃないのか?」
「でも、それが彼女のやりたいことなんだろ?」
その他人事のような――ではなく、まさしく他人からの軽い言葉に、アベルの激情は刺激された。
はらわたが煮えくり返るほどの怒りを、アベルは必死になって抑え込む。
「彼女は優しいから……自分では決断できないんだ。人を見捨てられずに、心の中ではいつも泣いている。側にいる私には、彼女の悲鳴と泣き声が聞こえるんだ。だから……ルルワが諦められるように。自分を責めないように……私が救ってやるんだ」
「それでも、生き方を決めるのは彼女だ」
瞬間――アベルの堪忍袋は、容易く決壊した。
ギリギリで結んでいた、容量を超えるほどの憤怒が、ここに弾けたのだ。
「あんな奴らに!! 勝てるわけがないんだよ!!」
それは一人の男の――魂の悲鳴だった。
「人間が勝てるわけがない!! そう言う次元じゃないんだ!! そういう話じゃないんだ!!」
アベルは、これまでずっと押しつぶしてきた激情を、ここに吐き出す。
その相手は、人外の吸血鬼。皮肉なことに、彼が素直な本音をぶつけられる相手は、人間の中にはいなかったのだ。
「どうあがいても、最後には死ぬ!! どんなに頑張っても、彼女が報われることは決してない!! あの世界では、彼女は幸せにはなれない!! だから――!!」
人の苦悩を、痛みを、吸血鬼は静かに眺める。
それはまるで、在りし日の己を見つめるかのように――
「だから私が……彼女を救ってあげるんだ。私しか……彼女を救えない」
「…………そうか」
アベルが洗いざらいの全てを吐きだせたのは、ここが暗く深い森の中だったから。
アベルが恥も外聞もなく子供のように喚き散らせたのは、相対する相手が化け物だったから。
それだけではない。それだけが理由ではないことに――
向かい合う両者だけが、気づいていた。
「考えは変わらないのか? 今からでも、お前は彼女を支えてやれるだろ」
「吸血鬼の命乞いが聞けるとは、思わなかったよ」
「…………そうか」
その言葉を最後に、吸血鬼は瞳を閉じる。
まるで自身の感情に蓋をするような仕草は、ある種の哀愁すら感じる。そしてゆっくりと見開かれた瞳は、冷たい輝きを宿していた。
「じゃあ最期に……これだけ言わせてもらってもいいか?」
「さっきも最後って言ってなかった?」
「質問な。一問一答くらいの権利は俺にもあるだろ」
「じゃあもう済んでるね。まあいいよ、何?」
自らの死を受け入れたとは思えないような、あっさりとした態度。
いや、これこそが死の境地とでもいうのだろうか。
吸血鬼からは凪のように、一切の感情が読み取れない。
対するアベルも、不思議とどこか穏やかな気持ちで、吸血鬼に向かい合う。
違う出会い方をすれば、彼とは心を通わせられたのではないか――そんなふうに感じてしまうほどに。
だが――
「俺はお前みたいな『これは愛だよ、愛』とか平気な顔で言い出しそうな、見てて一番痒くなるタイプの敵が――世界で二番目に嫌いなんだ」
だが、そんな未来はあり得ない。
アベルと吸血鬼は、この森でしか出会えない。この出会い方しか認められない。そして出会えば、必ずこうなることは決まっていた。
「分かりやすい誘いだけど、乗ってあげよう。一番嫌いなのは?」
全ての未来は、最初から――
そう。最初から――決められていたのだ。
「お前だ」
瞬間――吸血鬼の姿は掻き消える。
アベルが次にその姿を捉えたのは、彼が目の前で挙動を止めた――その時だった。
「っ!?」
それは、一瞬のこと。
いつの間にか、目前にまで迫っていた吸血鬼に、アベルは反射的に太陽のエネルギーをぶつける。
しかし、魔術を発動できないどころか――体そのものが、思うように動かない。
アベルは混乱する頭で、なんとか状況の把握に努めようとする。
自身の現状に気が付いたのは、口から血だまりが噴き出た――その瞬間だった。
「ごっ! ふっ……!」
あふれ出る吐瀉物が、アベルの口元から首にかけて、汚していく。
おかしい――
なぜ自分の口から、赤いものが出ているのか。
おかしい――
なぜ自分の体は、思うように動かないのか。
アベルは焼けるように熱い自身の体に疑問を感じながら、何とか顔を動かし、確認する。
そこには、信じがたい――
いや、アベルの信じたくない――光景があった。
「なっ……あっ……!」
アベルの胸元から、吸血鬼が生えていた。
いや、アベルの胸元に、吸血鬼の腕が差し込まれているのだ。分厚い鎧を貫通し、胸の中央を、吸血鬼の手刀が穿っている。
状況を理解し、一気に血の気が引いていくアベルの体。燃える様な熱さが、転じて極寒の冷たさへと変わっていく。
吸血鬼の腕が離れたのは、アベルが状況を飲み込んだ頃だった。
そこには――
「う"っ!? うでっ……を!?」
「やるよ。ちょうど使い道に困ってたところだ」
吸血鬼の右腕は、完全に消失していた。
つまりは、自傷覚悟の相打ち。右腕一本と胸を貫くほどの一撃では全く割に合わないが、なんにせよ、アベルを攻撃するために、彼は右腕を永遠に手放すことを選んだのだ。
そしてアベルに攻撃が通ったということは、太陽が彼の身を焦がすよりも、吸血鬼の攻撃の方が早かったということ。そんな滅茶苦茶な話はない。
だが、アベルが本当に言いたかったのは、そんな文句ではなかった。そんなことより、重要なことがあるのだ。
それは――
(ルルワは!? なぜルルワを――!?)
アベルは血の気の引いていく己の体に言いようのない不安を感じながら、それでも胸を押さえ、必死にルルワの姿を確認する。
彼女は既に地に倒れており、そして胸元からは――大量の血が流れていた。
(こいつ!! ルルワを――!?)
――見殺しにした。
戦慄が、体を駆け抜ける。
確かにルルワさえ殺していいのなら、アベルの策はその根本から潰える。しかしそれだけはできないと踏んでいたからこそ、いや、信じていたからこそ――
アベルは信じていたのだ。ルルワを心から大切に想う吸血鬼のことを、認めていた。
しかし――裏切られた。
それが、命の終わりを悟った彼の、唯一の救いだった。
「……やっぱり……な」
アベルは、笑う。
膝が砕け、地に落ちながら、それでも笑った。
「最後は……自分の命を……。自分を……優先する。不死の……吸血鬼でさえ……」
それは、自分の幸せを追い求めたアベルが――正しかったことの何よりの証明。
そしてルルワのことを心から愛するのは、この世にアベルしかいないという――確信だった。
「ルルワ……一緒に逝こう。この森で……永遠に。私と……共に…………」
ルルワを救えるのは――アベルだ。
「いいや」
だが、己の欲望のために、愛する者を手にかけたはずの吸血鬼は――それを許さなかった。
倒れた少女へと近づいていく男を、アベルは睨みつける。
死に行くルルワへと気安く触れる、不届き者を。アベルのルルワへと許可なく触れる、間男を。
「<美意識過善>」
息は、飲めなかった。その代わり、アベルは目玉がこぼれ落ちんほどにその目を見開く。
吸血鬼は、欠損した腕の付け根から流れ落ちる血を、ルルワの身体へとかけていた。人外の腕力で鎧をはぎ取り、服を裂き、露わとなった乙女の柔肌へと、血を滴らせる。
その結果は、アベルには到底受け入れられない――非情な現実だった。
「彼女は森を出る。太陽の下まで、俺が送り届ける」
「ああっ……! あ"あ"あ"あ"っっっっ!!」
共に死ねるのなら、それでも良かった。
アベルとルルワの魂は、永遠に森に閉じ込められるから。この、還らずの森に。
あの地獄から、解放されるなら――
「やめ"ぇでぇ!! や"め"でぐれぇっっ……!!」
ルルワの傷が、みるみる修復していく。
アベルと同じ死を与えられたはずの最愛の妹が、ルルワだけが、生を取り戻していく。
アベルは必死に手を伸ばし、足掻くが、体は思うように動かない。むしろ動けば動く程に血は大地へと流れ、浸み込んでいった。
「う"あ"あ"あ"あ"っっっっ!!」
何が間違っていたというのか――
どこで間違えたというのか――
地獄から救い出そうとした自分よりも、地獄へ再び送り出そうとしている吸血鬼の方が正しいとでも言うのか。
そんなはずはない。そうであっていいはずがない。
ルルワのことを一番大切に想っているアベルが、こんな目にあっていいはずがないのだ。
(私は間違ってない。私は間違ってない。間違ってない。間違ってない。間違ってない。間違ってない――――)
血は、止まらない。
大地が生を吸い取っているかのように、止めどなく流れ落ちていく。
確かな死が――近づいていた。
その時――アベルは最後の、希望を見出す。
死という絶望の前では、人はどこまでも――救いを求めた。
「ほら……な。私は……正しかった」
完全に傷が癒え、元通りの生を取り戻したルルワを視界に収めながら、アベルは最後の言葉を残す。
彼が生きた証を――
彼の正しさを――
この世に残す。
「人間が……勝てるわけがないんだ。化け物には……どうやっても勝てない」
「…………」
アベルの最期を、吸血鬼は静かに見守った。
「行って…………みるといい…………」
アベルは笑う。
自分こそが、正しかったと。
自分こそが、真にルルワを救える者だと。
「本物の地獄は…………森の…………そと、に……………………」
ルルワを森から送り出そうとする吸血鬼。
それが救いにならないことを最後まで信じて、アベルは静かに目を閉じた。
そして、アベル・シェメシュは――死んだ。
「…………」
吸血鬼は――死に逝く男に、言葉を残さなかった。
ただ、男の死に様を目に焼き付け――そして、瞳を閉じた。
こうして、還らずの森で起きた一連の事件は――ここに終結する。
最後に生き残ったただ一人の少女を抱きかかえて、吸血鬼は、森の中へと消えた。




