第016話 触れてはならないもの
「――流石は、世界を救う女だね」
威嚇のような大振りに、ルルワは余裕を持って距離を取り直す。
戦闘開始から既に数十分。死闘は極まっていた。しかし――
(…………おかしい)
精神が揺らされていたのは、優勢のはずの女勇者。
一騎討ちの感触に手ごたえを感じつつあることが、逆に彼女を混乱させる。戦闘で冴えていく思考が、遅れてその事実に気が付いたのだ。
それは――
(どうして……どうしてそんなに余裕でいられるの?)
相対する相手は、ルルワの実の兄であり、天才アベル・シェメシュ。
人類では並ぶ者はいないとまで言われるほどの才覚を持つ――麒麟児。
しかし世界の救世主たる勇者を前にすれば、やはりその肩書は霞んだ。現にこの戦闘に関しても、最大限多く見積もって勝敗は五分。
現状を見た限りでは、押されているのはむしろアベルの方だった。
しかも、彼の相手は勇者だけに留まらない。
(だって、この森には――)
魔王を倒した、最強の吸血鬼がいる。
その結論を念頭に据えて考えると、アベルの行動は奇怪と言わざるを得ない。
このタイミングでルルワに真相を打ち明けることは、彼にとってデメリットにしかならないはず。
例えば吸血鬼とルルワが手を組んでしまうようなことになれば、アベルにはもうそれだけで、一切の勝ち目がない。
現状でさえ苦しい戦いのはずなのに、大局を見ても希望がないのだ。
ならばなぜ、ここまで落ち着いていられるのか。
アベルの様子が開き直りにも、考えなしの蛮勇にも見えないからこそ、ルルワは圧倒的有利な立場にいながら、例えようのない不安に襲われていた。
「不安そうだね?」
「っ!?」
それは、ルルワの心を見透かしたような表情だった。
兄が他者の考えを読み取ることにおいて、非凡な才能をもっていることは、ルルワもよく知るところ。
だからこそ、彼女は誤魔化さなかった。むしろ堂々と打ち明ける。
「あなたのことを心配してあげてたのよ。そんな調子で大丈夫なの? 私に苦戦しているようじゃ、この森にはいられないんじゃない?」
しかしそんなルルワの開き直りすらも、アベルは寛容に受け入れた。
「心配には及ばない。全て計画通りだ」
(…………計画通り? ありえない)
嘘だ。
この森に吸血鬼がいたことも、その吸血鬼が魔王を倒せるほど強いことも、ルルワはこの森に来て初めて知った。
アベルだけがその事実を知っていたはずがない。還らずの森の情報を、持ち帰れる者などいるはずがないのだから。
「ああ……もちろん彼については、私にとっても全くの計算外だったよ。こんな大陸隅の森に、あんな化け物がいるとは……本当に驚かされた」
ならばその時点で、計画通りとは言えないだろう。
その一点こそが、彼の作戦成功の是非を決める最大事項なのだから。
「それにしては余裕そうね。彼は魔王より強いのよ?」
魔王に心を折られたお前が、勝てるはずがない――言外にそう言って、鼻を鳴らす。返礼は、同じく鼻を鳴らすような答えだった。
「ああ……だが吸血鬼だ」
「っ!」
――吸血鬼。
それは、ルルワにとっても無関係ではない。いや、ルルワの血に深く関係していると言っても過言ではない言葉だった。
「君も知っているだろう? 私は吸血鬼に関しては一家言あると」
それは、ごく自然な動きだった。
言うや否や、アベルの指先がルルワへと向けられる。その動きに嫌なものを感じ取り、ルルワは反射的に身を躱した。瞬間――
「っ!?」
「流石は勇者。速度は光――とまでは言わずとも、中々避けられるものじゃないはずなんだが……」
指先から伸びたのは、まさに光。
それが通った痕を振り返る。この森を森たらしめる背後の木々は、枯れていた。それはルルワにも、見覚えのある光景だった。
「…………これは」
「太陽さ」
その単語が脳に届いた時、ルルワの中で点と線は繋がる。
「私が学究上がりであることは、いまさら説明の必要はないね? 私が表向き学んでいたのは、王家が代々引き継いできた太陽エネルギーの解明。最近実用化にこぎつけて、その成果が今回の遠征にも繋がっていることは、君も知っての通り」
確かに今回こちら側へやって来るまでのアルフレート大山超えには、この技術が無くてはならないものだった。その成果の程は、ルルワもしかとその目で確認している。しかし――
「半永久的なエネルギーの運用は、不可能だったはずじゃ……」
「この通りだ。私はそれを可能とした」
天才――
その言葉が、決して大げさではないほどの偉業。
だからこそ、なぜそれを正しいことに使ってくれなかったのか。その力があれば――
「それだけじゃない。私は太陽をこの身に宿すことに成功したんだ」
「っ!?」
アベルの体が、光に包まれる。
静かだが、眩い力の奔流。太陽を宿したという言葉が、決して大言壮語ではないと思わせる気配だった。
「色々と条件を調整する必要はあったけど、私は太陽のエネルギーを魔術で運用する技術の開発に成功した。無論その対象は私だけに限られるが、この力を吸血鬼に向けた時、結果がどうなるかは私でなくとも分かるはず」
「…………」
吸血鬼という存在にとって、太陽は最大の弱点にして、最高の武器。
彼が300年もの年月をこの森で過ごしているのに、これが関係していないはずがない。ならば逆説的に、彼にも太陽は有効だということ。
「君に身を持って効果を体験してもらおうと思ったけど、それはまたの機会としておこう。人間のデータは十分」
「まさか……」
それは、身の毛もよだつほどに悍ましい――予感だった。
「面白いよね。太陽に焼かれると、人間でもああなるみたいだ。変わり果てた姿が吸血鬼の食べかすにそっくりなのは、因果という奴なのかな?」
「……クズめ」
変死していた3人の騎士たち。その殺害方法が、ここに明るみとなる。
そして、彼の無実が完全に証明されたことにより、ルルワの胸はさらに痛んだ。
「光エネルギーだから、素早く、何より静かに殺せる。証拠も残らないし、まさに完全犯罪だね。吸血鬼の探知も躱せるのはありがたい誤算だったけど……やっぱり嫌いなものからは目を逸らしたくなるのかな?」
だから彼の警戒に引っかからなかった。
ということは、遠距離からの攻撃、操作も可能ということ。
(障害物も貫通する? 射的距離は……)
ルルワは攻撃の想定をし、今後の立ち回りを計算する。
あわよくばもう少し情報を引き抜きたかったが、流石にそこまで美味しい話はなかった。
「さて、これが私の余裕の理由。今や太陽そのものとも言える私の体には、吸血鬼といえど、いや吸血鬼だからこそ、おいそれとは触れられないはずだ」
「…………」
確かに、攻撃することができないのなら、かなり有利と言える。
しかしそれは、彼に限った話。ルルワにも効果がないとは言えないが、彼ほどの絶対的有利は取れないはず。
その疑問への答えは、すぐに本人の口から告げられた。
「だが君にとっては非常に不幸なことに……私はこれ以外にも、彼の致命的な弱点を一つ見つけている」
(吸血鬼の……致命的な? それも……太陽に並ぶほどの?)
吸血鬼に関して、一般の人間と比べ多くの知識を持つルルワであっても、その答えには辿り着けない。
なぜならその答えは、到底彼女の納得できない、理解したくもないようなものであったから。
「君だよ」
***
「わた……し……?」
「そう。君が戦えば、彼はきっと負けてくれる」
「…………」
本来アベルが望んでいたのは、その未来だった。
彼に犯人の罪を擦り付けたあのタイミングで、ルルワと共に討伐するのが一番の理想だった。そのためにシナリオを変更し、主役も急遽吸血鬼を抜擢したのだから。
あの時の彼ならば、まず間違いなく抵抗せずに殺されてくれたことだろう。それが最もルルワのためになると判断して。
しかしもう、そういうわけにはいかない。ヒロインが逃亡し、アベルとルルワがこうして敵対している現状では、まず間違いなく吸血鬼はルルワの方に付く。そうなれば、戦闘は必死。まともにやり合えばアベルが不利なことも目に見えている。だからこそ、アベルの取るべき選択は一つしかないのだ。
「馬鹿じゃないの? この状況で、私がなんで彼と戦うわけ?」
ルルワの疑問は、自分と戦った時、なぜ彼は負けてくれるのかに関してではなかった。その前に、そんな状況は想定できないというごく当たり前の否定。
当然の疑問だ。そしてその答えこそが、この物語の到達点。
「先ほど、表では――と言っただろう? 実は密かに裏で進めていた研究が、もう一つあるんだ」
それこそが、計画の肝。
遥か2000年前、アベルとルルワの祖国――ダソス王国で起きた、世界中に名を轟かせるほどの一大事件。その副産物。
「吸血鬼」
当時女性初の勇者となったダソスの王女――ミアが、魔王カインに敗北した歴史的事件。
その魔王は――吸血鬼だったのだ。
「遥か2000年前のことにはなるが、我々には確かな歴史がある。そこから脈々と受け継いできた、吸血鬼に関する知識も。だから君も、彼をここから連れだせると踏んだんじゃないのかな?」
ダソスには吸血鬼の文献が多く残っている。
おそらくルルワもそれらに目を通し、彼を太陽から救い出す方法を知ったのだろう。それは皮肉なことに、勇者ミアが敗れるに至った直接の原因でもあった。
「で? 結局なに? さっさと結論を言ってくれる?」
逸る様子は、余裕からではなく、焦りから。
彼女は答えに辿り着いていなくとも、その答えが自分にとって望まないものであることには気が付いている。それが嫌な予感となって、彼女の不安を募らせるのだ。
アベルは全ての準備ができたことを悟ると、満を持して答えを告げた。
「私が研究していたのは、吸血鬼の代表的な能力の一つ。――精神支配」
「っ!?」
勇者の顔色が、変わる。
絶望は色濃く、表情に深い影を落とす。それは、最悪の想定に辿り着いた結果。
「太陽の方とは違って、こちらはあまり私の得意な系統ではなかったようでね。恥ずかしながら、魔術開発にかなりの時間を要したよ」
実際、ダソス王家の人間が一律で適性を持つ光属性とは異なり、吸血鬼の眷属化や魅了の要素を組み込んだ新たな魔術の開発、修得は、かなりの時間と手間を要した。
それはアベルほどの才能を持つ者でも、残りの才能の全てを詰め込んで、なんとか形となったというレベル。だが、それで十分だった。
「ここまで言えば、流石の君も分かるだろう?」
「私には効かない!! 同レベル帯では、私の精神抵抗を突破できないはず!!」
血相を変えた叫びは、彼女が答えに到達した何よりの証明。
最悪の未来を想定したことによる、悲痛な叫びだった。
「その通り。だからこそ、力不足は道具で補う。それが人の歴史だ」
アベルは懐から、それを取り出す。
それは羊の形を模した、金属製のインゴット。3年かけて信頼を築いたことにより授かった、とある魔王からの贈り物だ。
「魔術による精神支配を強化する特殊なアイテムだ。悪いお友達からの、ちょっとした餞別でね」
「悪い……」
本当に今日の彼女は察しが良い。
極限状態の人間は、予感をどこかから拾って来るのかもしれない。当人が望まないものに限って。
「ん? 君も遠目に見ただろう? 挨拶させるべきだったかな?」
失望は、もはや見られなかった。そこにあるのは、見ているだけで熱さを感じそうな、烈火のごとき怒りのみ。
「敵と手を組んだの!?」
そう言えばまだ言ってなかったなと、アベルは素で気が付く。
彼女が最も怒りそうなことだというのに、失念していた。
「今となっては仲間だよ。彼は勇者が邪魔だった。私は勇者が欲しかった。利害の一致さ」
「そんな……そんなことのために……!! あんたの勝手な都合で、何人死んだと思ってるのよ!!」
人を救うという強迫観念に囚われている彼女だからこそ、人の死をこれ以上になく嫌う。彼らを囮にこの森へと逃げ込んだことを、ずっと引きずっていたに違いない。だからこそ――
「また責任逃れか。あの時の撤退の選択は、君の力不足が招いた――っ!?」
アベルがさらなる挑発を言い切る前に、憤怒の勇者は、前へと踏み出した。
***
(――殺さなきゃ!!)
体中からかき集めたなけなしの殺意を胸に、勇者は踏み出す。
軽蔑するような事実を突き付けられたとしても、これまでの記憶がなくなるわけではない。過去は決して消えず、こういう時にほどその過去は重く圧し掛かる。
それも、裏切った方ではなく、裏切られた方に。
彼女という人間にとっては、これ以上に残酷な仕打ちはない。
だが――
(――私が!!)
ルルワは心の悲鳴に全力で耳を塞ぎ、駆ける。
兄の過ちによって死んだ多くの仲間たち、そして罪を押し付けてしまった彼のためにも、ここでケジメをつける。
そして手を下さなければならないのは、ルルワだ。
勇者である自分が、身内から悪魔を生み出した――その責任を取らなければならない。彼女は課された使命によって、本音を押し潰す。
(私の手で――!!)
これまでルルワが攻勢を仕掛けられなかった確かな理由の一つに、情があった。それは情でしかなかったというレベルで、大きい。
まだ17歳の少女にとって、家族を手にかけるという判断はことさら重く――
何よりルルワという少女は――優しかった。
しかし全ての事情を知ってしまった今、もうアベルを野放しにすることはできない。ここでルルワが手に堕ちれば、世界が終わる。
賢い彼女には、ここで自身が敗北した時にもたらされる、未来で生じる犠牲までもがはっきりと見えていた。
だからこそ世界のために、人類のために――少女は自身の心に嘘をつき、傷ついた心で覚悟を決める他なかったのだ。
(殺す!!)
全力で大地を蹴り、最速で駆け――懐に飛び込む。
レイピアを弓のように引き絞り、速度と体重を乗せた渾身の一撃を放つ。
瞬間、森は光に照らされた。
「<銀の弾丸>!!」
手加減も遊びもない、勇者の本気の一撃。
刺突の狙いは、心臓。彼女の腕なら、まず外さない距離だった。
必殺の一撃を手に、勇者は敵と定めた存在へと肉薄する。
しかし――
「ルル」
「っ!?」
名前を呼ばれた瞬間、張りぼての心は砕けた。
譲れない覚悟で形成された心は、薄氷のように、いとも簡単に砕け散る。
それは肉体にも表れ、瞬く間に全身は硬直した。
精神支配でもないただの言葉が、確かにルルワの心を一時的に支配したのだ。
「お前は……やっぱり優しいね」
時間にして一秒にも満たない肉体硬直。しかしそれは、このレベルの戦いでは命取りの時間。
刺突が空を切り、空気に穴をあける。爆風と共に、ルルワの体が、意識が、流れていく。
掌握された心は、脳にも害を及ぼした。一瞬にして思い起こされる、兄との数々の記憶。悲しいかな、勇者である彼女には数えるほどの――幸せな想い出。
ルルワは確かに、アベルを家族として――愛していたのだ。
「<羊>」
空ぶった一撃への返礼は、悍ましいものに精神が汚されていくような感覚だった。
それが形として完成する前に、ルルワは地に落ちる。それは勇者が、成すすべなく人の手に堕ちた瞬間でもあった。
「まあ……これで言いたいことはおおよそ伝わったかな? 別に最初から、君の意志なんて関係ないんだ。だから包み隠さず、全てを喋った。人形が心の中でどう思っていようとも、興味がないからね」
地に伏す、敗者。
その傍らに立つ、勝者。
ルルワは思い通りに動かない体の力を振り絞り、見上げる。
見下ろす男は薄い笑みを湛え、その結果を当然の如く受け止めていた。それはルルワが殺せないと、分かっていた者の表情だった。
「戦士の精神抵抗力は、その時の心のありように大きく作用される。だから君の心が一番傷つく方法を考え、少しずつ、丁寧に、下ごしらえしていった。そういった面では、あの吸血鬼の存在は嬉しい誤算だったね」
(う、動かない……これが――)
――精神支配。
常なら簡単に抵抗することができる精神への作用が、全く思い通りにならない。こうしている今も、少しずつ、着実に蝕まれていく。
アベルの説明で、計画通りという言葉の本当の意味を、ルルワは遅れて理解した。軍を捨て駒にしてこの森へと逃げ込んだこと、殺人の罪を吸血鬼に擦り付けたこと、そして真犯人の打ち明けを経て、最愛の兄の変貌の事実。
これら全ては、ルルワの精神を着実に弱らせるために仕組まれていたこと。最後の精神支配という条件を完遂させるために、計画されていたのだ。
「かなりショックを受けていたようだったけど、そんなに彼のことが気に入ってたのかい? もしかして、好みのタイプだったのかな?」
アベルは、最初からルルワの同意や共感など求めていなかったのだ。
最初から、物言わぬ人形と化したルルワと共に、この森で暮らすつもりだった。
「っ……!」
――歪んだ愛。
その対象となったことに怖気を感じながら、ルルワは必死に己の精神を鼓舞する。敵を睨みつけることで敵意を奮い立てようとしたルルワの視界に、アベルの顔が映った。
彼は何かに気が付いたように、森を見ていた。
「…………彼が気がついたようだ。まだ多少の時間稼ぎはできるだろうが、急がないとな」
アベルが手に持つアイテムが、妖しい光を放ったのを最後に、ルルワの視界はその機能を無くす。
「くっ……うぅ……」
ここにきて、ルルワの心は本当の意味で決壊したのだ。
なんとか押さえていた激情が、涙となって溢れ出る。
(なんで……!! なんでよ!? どうして……!!)
複雑な感情が何重にも渦巻き、絶えず形を変える。その中でも突出した色を放ったのは――自身の運命を定めた存在への、怨言だった。
(これが……私の迎える結末なの!? 私が辿るべき運命なの!? なら私は!! 私はこれまでなんのために――!!)
文句も不平も言わず、ただ世界のために、人類のためにその身と人生を捧げてきた少女。
勝てるわけがない――そんな真実にも目を瞑り、必死に目を逸らし、ひたすらに、がむしゃらに前へと進んできた。
なのに、この結果はどういうことなのか。
なぜ自分にばかり、試練を課すのか。
なぜこんなにも、残酷な仕打ちばかりを用意するのか。
自分が何か悪いことをしたのか――。何が駄目だったというのか――。
こんなにも、こんなにも――
世界のために、頑張っているというのに――。
(悔しい……!! 悔しい!!)
ルルワは歯を食いしばり、涙を流し続ける。
なぜこんなにも、神はルルワに対し、残酷なのか。
彼女はここにきて、自身の不甲斐なさではなく――生まれて初めて、神を恨んだ。
「ああ……君は優しいからね。彼と一緒さ」
「っ!?」
悪魔が傍らに膝をついたのが、気配で分かった。
その姿は、零れる涙で塞がれてしまったルルワの視界には、もう映らない。
しかし、己という存在の終わりが確かに近づいていることだけは、ルルワにも分かった。
「だから負ける。大切な者を、殺すことができないから。それが君たちの敗因であり――この森の勝者が、私となる要因だ」
悪魔の手が、勇者へと伸びる。
最後にルルワが思い描いたのは、つい先日会ったばかりの吸血鬼の姿。
荒んだルルワの心に温もりと癒しを与えてくれた、そんな存在だった。
(私を…………助けて)
それはルルワという少女がこれまで誰にも言う事ができなかった、彼女の本当の願いだった。
勇者たる彼女は、生涯信じ続けていた神に唾を吐き、最後に――化け物に救いを求める。
しかし彼女は、すぐに虫が良すぎると、自嘲の笑みを浮かべた。
「お休みルルワ。私が君を――救ってやる」
***
「――奴は最初から、人類を救うつもりなどなかった!! 姫様をこの森に!! 永遠に閉じ込める気なんだ!!」
「…………」
吸血鬼である俺が痛みを感じるほどに腕を掴み、アガトスは最後の力を振り絞って――叫ぶ。
俺はそれを、静かに聞いていた。彼と同じだけの痛みを、心に感じながら。
「頼む……頼む……!!」
大の男が涙を流し、鼻水を垂らし、唾を飛ばし、懇願する。それは忠義を尽くす主人のため。そしてその相手は、人外の魔物。
その表情は、無念を物語っていた。どれだけ悔しく、どれだけの自責の念に駆られているのか、俺にも想像がつかない。
だが彼の願いだけは、俺にも分かっていた。
だからこそ俺は、静かに瞳を閉じる。そして、ゆっくりと見開いた。
「俺に……友達を見捨てろって?」
それは、反論でもなければ否定でもなかった。
決断したからこその、言葉。一時とはいえ、確かに心を通じ合わせた友は、それを間違わなかった。
「…………嬉しいよ」
剥き出しの腕を掴んでいたその手が、ようやく離れる。それは、俺のことを心から信じたが故の、解放だった。
俺は捲った腕部分を隠すと、即座に立ち上がる。
「約束するよ……アガトス。俺が必ず――ルルワを救ってやる」
まだ助かる友を見捨て、俺は友の意を組むことを選んだ。
そして背中を向けた――その瞬間だった。
「っ!?」
突然変化した気配に、俺はその場から飛びのく。
見れば、動けないほどの重傷を負っていたはずのアガトスが、動き出していた。
それはまるで、糸で操られる人形のように、本人の意志を感じさせない不自然な動き。不気味な気配を携えながら、アガトスは立ち上がり、剣を抜く。
(…………なんだ?)
明らかに、普通ではない。
それはもはや人ではない。人の形をしているだけの――何か。
どう対処すべきか――そんなことを考えてしまっていた俺の頭に、アガトスへ贈った最期の言葉が反芻する。
「…………」
俺はやはり瞳を閉じると、もう一度見開いた目で、アガトスの最期を目に焼き付けた。
意志も、忠義も、友情さえ無くしてしまった男。最後には人ですらなくなってしまった悲しき友に、こうして俺は――別れを告げたのだった。
「…………分かってるよ。約束だもんな」
***
「長かった……」
ここに辿り着くまで。
魔王に出会い、目標を変え、そのために準備してきた。
「長かった……」
ここに辿り着いてから。
吸血鬼に出会い、作戦を変え、そのために立ち回ってきた。
本来行うはずだった作戦に、吸血鬼という異物が入り込んだ。
それも、強すぎる吸血鬼。この軌道修正を余儀なくされ、ここまで巧くことを運べたのは、まさしくアベルという男の才能によるところだろう。
吸血鬼という存在を、ルルワの心を傷つけるための材料として利用し、そしてルルワという存在を支配下に置くことで、吸血鬼と戦える準備を整えた。
先も言ったように、ルルワと共に無抵抗状態の吸血鬼を殺してから、アベルは真相を教え、精神の弱ったルルワを支配下に置くつもりだった。その方が圧倒的に楽だったから。
しかしルルワが逃げ出したことで、予定を変更。先にルルワと戦い、彼女を下した上で、最強の吸血鬼との戦闘を余儀なくされたのだ。
だが――
「ここに揃った。太陽の力と、勇者の力が……」
吸血鬼が触れられない太陽と、吸血鬼が傷つけられない女。
それらが今――アベルの手にはある。
「相手は魔王を超える程の強さを有する存在。そういう意味では、私は確かに運が悪かった。だがその存在は、吸血鬼でもあった。本当に運が良かった……こういうのを、人は運命と呼ぶのだろうな」
アベルが辿り着くべき夢の地に、吸血鬼がいた。
偶然とは思えない。これこそが――運命。
「ここから始まる。ここからが、私の本当の人生……」
2000年の時を経て、王家の血を引く者と、吸血鬼は再び巡り合う。
まるで全てが、最初から決められていたかのように――
「この森は私のものだ!!」
アベルが高揚を叫びに変えた時――それは、やってきた。
「っ!!」
森が――揺れる。
木々がざわめき、化け物の唸り声のような重低音が木霊する。
風も吹いていないというのに、森そのものが震えているかのようだった。
「来るぞ……最強の吸血鬼が」
アベルは興奮と緊張に、胸を高鳴らせる。
これは、アベルという男が本当の幸せを掴むための――試練。
そして――洗礼だ。
「ルルワ……共に夢の世界を勝ち獲ろう。ここは――私達の森だ」
その時、アベルの前の空間が歪む。
そんな気がした――そう思った時には、もうその存在はそこにいた。
一切の音無く、まるで気配も悟らせず、吸血鬼はアベルの前へと易々と辿り着く。
地に膝を付き、顔を伏せる血濡れの男。その男が、ゆっくりと顔を上げ――
赤き瞳が今、森を荒らす侵入者を射抜いた。
「――なっ!?」
瞬間、アベルの全身を鬼気が襲う。
その気配は、目の前に台風が顕現したかのように空間を荒らし――
小さなブラックホールが顕現したかのように、爆発的な引力を世界へともたらした。
これまでは決して見られなかった、吸血鬼の真の姿。彼が人ならざる化け物であると確信させるだけの気配が、その姿には現れていた。
森の支配者は、人を挑戦者にすらさせない。
アベル・シェメシュはその日、実に三年ぶりの恐怖を知る。
彼は決して触れてはならないものに――触れてしまったのだ。
次回、吸血鬼vs吸血鬼ハンター
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