第015話 夢の世界
『よくここまで勇者を連れてきた。が、考えはあるのだろうな? 墓参りして帰って来るようでは笑えないぞ?』
『ぬかりなく準備を整えております。しかしながら、それにはお伝えしておいたものが――』
『よかろう、餞別だ』
『ありがとうございます。これで万に一つも、失敗はあり得ません』
『そうか。では後は手筈通り、大山沿いに東へと追い立てる。限界地点まで追い込んだら、私が出よう』
『ありがとうこざいます』
『それにしても……人とは恐ろしいな。我が身可愛さに、妹を売るとは。いや、この場合は心中というのだったか? いずれにせよ……救えない話だ』
『それは違います』
『……なに?』
『私はただ、妹を救いたいのです』
「――ようやく、二人きりになれたね」
「…………ようやく?」
突然雰囲気の変わった兄の姿に、ルルワは嫌な予感という言葉では収まらない不安を抱く。
それは生まれて初めて、彼女が本当の意味で抱いた――恐怖だったのかもしれない。
「ここまで本当に長かったよ。ようやく私は、ここへと辿り着いた」
「…………」
ルルワを見ていながら、ルルワを見ていないような姿。それでいて、まるで生涯を全うした者が、己の人生を振り返るかの様な気配。多大な充足感が伝わって来る。
それが、ルルワを何より不安にさせた。なぜなら、ここは生ある者の誰もが恐れる禁断の地――還らずの森なのだから。
ここは到着地ではなく、本来何としても避けるべき禁域。そのはずだから。
「さっきから、何を言っているのですか? 私の質問に答えてください」
「ならその前に、一つだけ質問をさせてくれ。質問に質問で返すなという文句はなしだよ?」
「……分かりました」
いつも通りの落ち着いた口調が、なおさらルルワを不安にさせる。
ただ、文句を言っても話しが進む気配ではない。
なおも静かな混乱状態の中にあるルルワにも、その程度の判断はできた。
「ルルワ……君は今の人生を、幸せだと思っているかな?」
「っ!?」
それは想像だにしていない質問だった。
唐突過ぎて、ルルワは言葉に詰まる。少なくともこんな状況、こんな場所でするような話ではない。
(…………離れている間に、一体何があったの!? 一体この森で、何が起きているの!?)
この森に入ってから、おかしなことばかりだ。理解不能な事態が、立て続けに起きている。
ここはやはり人が踏み込んではいけない場所なのだと、警告するかのように。
「人助けと言えば聞こえはいいが、その美しい手を、血に染め続ける人生。戦って、戦って、戦って……戦う日々。洗い流す暇もなく、次の血に染まる。君はきっと、永遠に戦い続けるのだろうね。染まった血が……己の血によって雪がれるその日まで」
「当然です。私は……勇者なのだから」
それが、ルルワの使命だ。
そして、ルルワのやりたいことでもある。
一人でも多くの、人を救う。そのためなら、自分の手の汚れなど今更気にはならない。気にしていられない。
「でも、ただの女の子でもある。君くらいの年なら、友達と遊んだり、学業に励んだり、誰かと恋をしたり……もっともっと楽しいことがあるはずなんだ。結婚し、子供を産み、温かい家庭を築く――君はそんな夢を見たことはないのかい?」
思い描いたことがないかと言われれば、嘘になる。
しかし、とっくに覚悟は固まっていた。戦いに、血に、己の人生を捧げる覚悟を。
ルルワは、いや勇者は、ただの女の子ではいられないのだから。
「それは……戦いが終わった後に、すればいいことです」
だからルルワは煙に巻いた。
真実を、その煙で隠すために。だが――
「本当に?」
「っ!」
「本当にそう思っているのか? 戦いが終わる時、自分はまだ生きていると」
「…………」
ルルワは、何も言い返せなかった。
それはルルワが内心でずっと思っていた――決して誰にも言えない、本音だったから。
「今から300年前、当時の勇者がルコスを野放しにしたことにより、世界は一変した。魔王は7人にまで増え、現在残っている勇者はただ一人。世界の命運、その全てが今、彼女一人の肩に重くのしかかっている。一人の少女には、あまりに重い宿命だ。これが運命だというのなら、端から人の命に救いなどないことの、何よりの証明じゃないか」
「…………何が言いたいんですか?」
何が言いたいのか、ルルワにはなんとなく分かっていた。
ただ、ルルワはそれに気が付いたと、認めたくなかっただけだ。
「君はいずれ、その重みに耐えかねて潰れるだろう。そしてそれは、遠い未来のことではない。人の手に負えないものに触れれば、待ち受ける運命は破滅しかないのだから」
「やってみなければ……わからないでしょ……」
それは、アベルへ向けた言葉ではなかった。
「君も本当は分かっているんだろ? 勝てるわけがないと」
「だから!! 戦ってみなければ分からないでしょう!?」
それは――己へ言い続けてきた、言葉だった。
しかし――
「分かるよ。私は戦ったからね」
「……え?」
あっさりと、打ち崩される。 ルルワの、最後の砦が。
現実を目の当たりにしなければ、自分を誤魔化して前へ進める。そんな、盲目的希望が。
壁の高さに、ぶつかる時までは決して気が付いてはならない。そんな狂気的自己暗示が。
「覚えているか? 三年前、私が英雄と呼ばれるようになった日のことを」
「…………もちろんです」
忘れるはずがない。アベルが名実ともに最強の戦士と呼ばれるようになった日であり、人類に確かな希望の火が灯った日でもある。
そして、ルルワがより一層、兄を尊敬した日だ。
「私はあの日、本当は死んでいたんだ」
言葉遊び――ではないだろう。
それほどの死線をくぐったと、自然に受け取る。だが、アベルの答えはルルワの想像を超えた。
「私という人間は……あの日、魔王の手によって殺されたんだよ。だからこそ……もう二度と、死にたくないと思ってしまった。あの日、私は生まれ変わったんだ」
(そんな…………)
知らなかった。あの日、アベルが魔王と戦っていたなんて。
知らなかった。あの日、アベルが魔王に敗れていたなんて。
アベルほどの男でも、魔王に手も足も出せなかったなんて。
勝てるわけがない――目を逸らしていた、いや目を瞑っていた現実が、浮かび上がる。
「……でも!! その後も、ずっと戦い続けてきたではありませんか!? 今日まで変わらず、ずっと――!!」
そうだ。アベルは魔王に敗北したという三年前からずっと、今日まで戦い続けてきた。それは彼の心が折れていない、何よりの証明のはず。
魔王と相対し、敗れても尚、彼の心は折れなかった。ならば、ルルワだって――
「ああ……今日まではね」
先ほどアベルが見せた充足感。それは、解放感だったのでは。
やっと荷物を降ろすことができた人間の、喜びの姿だったのでは。
そんな予感は、アベルの表情で確信へと変わる。決して偽りではない人の狂気が、そこにはあった。
「地獄の日々は……今日までだ。私は今……夢の世界にいる」
一切の日の光が差さないような暗黒の森で、アベルは心からの晴れやかな笑みを見せる。
躁状態にも、狂っているようにも見えないその態度が、やはりルルワをこれ以上に無く不安にさせ、そして恐怖させた。
彼は森のせいでおかしくなったのではない。ここに来る前から、壊れていたのだ。
ルルワは――それに気が付かなかった。
「もう戦わなくていい。死の恐怖に怯えなくていい。誰にも脅かされることはない。何人たりとも、私達の邪魔はできない! ここには――誰も来ない!!」
「…………まさか」
熱が、広がっていく。
嫌な予感は、最悪の確信へと変わる。
「そう! この地こそが、私の求めた世界!! 私はここに来たかったんだ!!」
爛々と輝く瞳が、暗闇に光る。
恍惚の表情が、森を見上げた。
「還らずの森よ!! どうか私を――」
――還さないでくれ。
ルルワはその日、人間の狂気を見た。
***
「そろそろ……能天気な君でも、事情を飲み込めてきたかな?」
抑えきれない興奮を外へと吐き出した男は、途端に静かに落ち着く。
そんな気配の落差が、酷く気持ち悪かった。人間ではない、別の生き物のようにさえ見えてしまう。
ルルワは、これが《《人》》だとは、まだ知らなかったのだ。
「わざと……この森へ入ったのですか?」
「そうだ。君をここへ導いたのは、私だ」
流石のルルワも、ここまできてこれを冗談で片付けるほど、現実を見ていないわけではなかった。だからこそ、ルルワの心は深く傷つく。
もう傷つきようのないほどに痛めつけられた心が、悲鳴をあげた。
「どう……して?」
「どうして? おかしなことを聞くな。還らずの森に人を連れてくる理由なんて、一つしかないだろう?」
ルルワの歪んでいく表情に、アベルも表情を歪ませる。
「還さないためさ」
答えているようで、答えになっていない。
とうとうルルワも、感情を抑え込むことができなかった。
「どうして!?」
どうして、ここまで変わってしまったのか。
どうして、何も打ち明けてくれなかったのか。
どうして、ルルワも一緒に連れて来たのか。
どうして――
「君を――救うために」
「っ!?」
身を切り裂くような少女の叫びに対する答えは、どこまでも静かな声だった。
それは、本心からそう思っていることが伺える気配。相対するルルワには、それが分かった。
「今一度問おう。ルルワ……君は今の人生を、幸せだと思っているかい?」
――救い。
その意味も、ようやく分かる。
見当違いのようで、どこまでも本質を捉えている――救いの意味が。
「このまま外の世界で戦い続けても、君は幸せにはなれないよ。終わらない生き地獄は、いっそ死んだ方が楽だと思うほどに、君を苦しめ続ける。君の死によってしか戦いが終わらない世界。それを地獄と言わずしてなんと言う?」
「…………」
あの世界は、確かに人間にとっては地獄だ。希望はあまりに儚く、絶望はあまりに深い。
そしてその人間の中でも、ルルワは特に過酷を強いられていた。なぜなら彼女は唯一、世界を救える者であり、世界を変えられる者だから。
世界中の誰もが――彼女の敵だった。それは本来味方であるはずの、人間でさえも。
「あの世界は君の……我々のいるべき場所じゃない。だから――」
「…………」
「私と一緒に生きよう。この森で」
救い――それは勇者の宿命からの、解放。
それは確かに、一人の少女にとって、これ以上に無い救いだった。
「最強と呼ばれた魔王でさえ、この森からは出られなかった。だからここにはもう、誰も来ない」
世界を手中に収めた存在でさえ、この森に呑まれたのだ。
どんな命知らずでも、この森だけは目指さない。それは確か。
「外の世界でひっそりと暮らすことも考えたけど、魔王と勇者は必ず導かれる運命なんだろう? だから、もうここしかないんだ」
それは、勇者という存在を生涯に渡って追い求める――魔王でさえも。
「ここは私たちにとって、唯一の夢の世界。私と共に、ここで永遠に暮らそう」
「…………」
兄の胸の内を、漠然とではあるが、ルルワが理解し始めた頃――彼女の中には、兄の誘いへの答えなんかではなく、ある一つのことだけが頭にあった。
その答えを求めるため、彼女は最初の質問へと立ち帰る。聞きなくない、それでも聞かなければならない――その問いを。
「あが……とすは?」
先ほど、アベルはアガトスが殺されたと口にしていた。
この森にやってきたことが、彼の計画通りだったのだとすれば――
「ああ……一応、ダメ元で彼も誘ってみたんだけどね。残念ながら共感は得られなかったよ。私と分かれた時は、ここに残ることに乗り気なように見えたけど……何が彼の考えを変えたんだろうね? まあ、彼は私よりも吸血鬼を信じる様な変わり者だったから……この結果も致し方ないのかな?」
「どこにいるの!?」
背を伝っていく汗と唇の震えが、やけに鋭敏に感じる。
口の中は、全ての水分が蒸発してしまったかのように、乾いていた。
「…………アガトスは、この世界にはいたくないようだったから、解放してあげたよ。彼が戻ろうとしていた、地獄から」
心臓そのものを掴まれてしまったような感覚に、ルルワは凍り付く。
そして、最も知りたく、同時に最も知りたくなかったその答えを――最後に求めた。
「騎士たちも……あなたが?」
「ああ、みんな私だ。この森で起きたことは、全て。分かり切ったことを聞くのは、何か理由があるのかな? 信じたくないのか? それとも信じたかったのか。どっちにしろ、傷つくことには変わりないのにね」
――気持ち悪い
己がこの世に吐きだした言葉が、呪いのように繰り返される。
その言葉を受け止めざるを得なった者の――表情も。
(私は……私は、なんてことを……!!)
こんなにも、己の愚かさを呪ったことはない。
あふれ出る涙は血の色をしているのではと思うほどに、重く、暗く、ルルワの感情を示す。
体の震えが止まらない。己という存在への嫌悪感が、留まることを知らなかった。
「彼のことなら、気に病むことはないんじゃないか?」
瞬間、ルルワの怒りは一気に沸点を超える。
まるで他人事のような口調が、癇に障るなどという言葉では収まらないほどの憤怒を彼女の中に生み出した。
「どの口が――!!」
「どの口? 気持ち悪いとか言ったのは、私の口じゃないだろ?」
「っ!?」
――気持ち悪い
何度でも繰り返される、呪いの言葉。胸が痛み、吐きそうなほどに気分も悪くなる。
そんな言葉を生み出したのはルルワであり、それを受けたのは、全くの無実の者だった。だからこそ、ルルワは必死に吐き気をこらえる。
事ここに至って、被害者面をしようなどと虫が良すぎると思って。加害者が苦しむなど、笑えない冗談だ。もっと苦しく、もっと辛かった者が、この世にはいるのだから。
「君が彼を犯人だと決めつけたことに関しても、責任転嫁はやめて欲しいな。私は自分が犯人じゃないとは一言も言っていないし、なんなら自分が犯人だとちゃんと言っているよ?」
「…………」
「その場に君が立ち会わなかったのは、君の問題だろ? 彼と戦いたくなくて逃げ出した、君の過失だ。何か間違ったこと言ってるかな?」
「…………」
多大な罪悪感は――強烈な憎悪に。
責任転嫁をするつもりはない。だが、罪を償わなければならないのは、ルルワだけではないはず。それだけは確かだった。
涙で顔を汚した勇者は、敵を殺意の眼光で睨み上げる。
「それで……結局あなたは何が言いたかったの? 何がしたかったの?」
「…………」
今度は、敵を間違えなかった。
今度は、敵から逃げなかった。
「『この森で永遠に一緒に暮らそう』。そんな気色の悪い誘い文句で、女の心が動くとでも思ってたわけ? それも実の妹相手に、気持ち悪いんだけど」
「…………」
アベルの言うように、この森にやってきたことは、救いだったのかもしれない。ルルワはここで、救われるのかもしれない。
だが――それは今じゃない。
少なくとも、この男であってはならない。
この男だけには、絶対に救われてはならない。
「まあ、一筋縄ではいかないとは思ってたよ。君は頑固者だからね。でも、妹を助けてやるのが兄の務めだろ? そのためなら……反抗期の妹との、多少の兄妹喧嘩も覚悟の上さ」
「…………気持ち悪い」
ルルワは今度こそ、相手を間違えなかった。
「死ね、クズ野郎!! そんなに帰りたくないなら、望み通りにしてあげる!!」
「還ろうルルワ。私が君を、救ってやる」
それは、決して歴史に語られぬ闘い。
還らずの森で起きた、勇者と英雄の一騎討ち。
この森最強の吸血鬼がその気配を察知するのは、勝敗が決する頃だった。




