第108話 恋の魔法
勇者の恋心。
それが少女自らの心により生み出された、自然的なものであるのか。
それとも吸血鬼の手により植え付けられた、人工的なものであるのか。
意見は割れ、疑心はうねり、会議は踊る。
同時刻。
別の場所でそんな話が進んでいるなどとはつゆ知らず、彼女は今日を迎えた。
幾多の試練を抱えながらも、周囲の力を頼ることで、ここに復活の兆しを見せる女。
そう、彼女こそが――
(――服装よし、前髪よし、リップよし……完璧! 今日も世界で一番美しい……はず!)
初恋に真宵わされし少女。
恋する――女である。
(行くわよ!!)
本日5度目の手鏡チェックを終えたルルワは、ようやく一歩を踏み出す――前に、もう一度鏡を確認する。そこには先ほどと全く変わらない自身の姿。一秒で化け物に代わっているはずもなく、そこには輝かんばかりの美があった。
健康的な白い肌。
白と言ってもパートナーとは異なり、その肌には確かな生命の輝きが宿る。
やや吊り目気味の大きな銀瞳。
長く鋭い睫毛に、重なる様な細い眉が、気の強さを演出する。
鼻筋は細く、高めで整い――唇は小ぶりで薄め、色は透き通るようなピンク。
全体的に小さくまとまっているパーツの中にあって、瞳だけが大きいため、生来の小生意気感がその顔立ちに現れる。それらが恐ろしく整い、調和を生み出すため、人形的な無機質美も醸し出していた。
ムメイが一度例えたことのある表現を借りれば、悪役令嬢風ツンデス系高貴白ギャル巨乳を添えて。
顔にまで出ている生来のプライドの高さと勝気。
ツンツンするだけで簡単に男を殺せそうなツンデス系。
高貴お姫様なのに高飛車ギャルっぽい唯一無二の雰囲気。
少女の可愛らしさと大人の美しさが同居する――鋭利な美。
彼女こそが世に名立たる世界一の美女――ルルワ・シェメシュ。絶賛恋する女である。
(化粧した方が良かったかしら……でも今日は訓練の日だし……)
ルルワは普段から、あまり化粧をしない。
するとしたら、王族や貴族などが立つ舞踏会などの特別な戦場に限られる。つまり彼女にとって、化粧はドレスなどの衣装に付属するものという扱いなのだ。しなくてはならない場所だからする。王前では帯剣できないなどのルールと認識はさほど変わりない。
だから普段勇者の役目に勤めている時は、各種スキンケアや日焼け止めに留める。あるとすればリップくらいのもの。
女のそういった部分に鈍いムメイであっても、流石に化粧の有無くらいは分かるだろう。なぜ今日に限って張り切っているのかとか思われたら、恥ずかしいことこの上なかった。そう――
昨夜のキスを、まだ引きずっているなどと。
(何オロオロしてるのよ! ママも自信を持てって言ってたでしょ!? 私は勇者なのよ!?)
いつまでも踊り、高鳴る己の心を叱咤、激励する。
お前本当に勇者の精神なのかと。キスくらいでいつまでドキドキしているのかと。
八つ当たりとも言えれば、責任転嫁とも言えた。
(そうよ……たかだかキス! ちょっと唇触れさせたくらいじゃない! 時間も短かったし! 緊張し過ぎて感触とかよく分からなかったし!)
正直、よく覚えていない。
顔が近づいてきただけで頭が真っ白になり、目を瞑っている間に気づけば終わっていた。
だが確かに、沸騰した顔面の中にあって、唇に何かが触れたような感触はあった気がする。いかに吸血鬼とはいえ、あのシチュエーション、あのタイミングで鼻先を押し当てるようなことをするとは思えない。意味がないし、何の儀式なのかという感じだ。
だからあれは、キスで間違いないはず。つまり、ルルワはキスをしたのだ。
(あれくらいみんなしてるわよ!! 動揺する方がおかしいわ!!)
そうだ。あれくらい恋人同士なら普通のことだ。
これからだって何度でもすること。何度でもしたいこと。一々恥ずかしがっていたらきりがない。
ルルワは物陰から慎重に顔を出し、現場の状態を確認する。
広場で楽しそうに語り合うのは、ムメイとアワン。少し離れて赤き月の面々。もうルルワ以外全員集まっているようだ。
時間に遅れたというわけではないが、約束した時間にはあと10分程度。そろそろ行かなければ不審に思われる頃だろう。ムメイに昨日の件を恥ずかしがって出てこないとか勘違い(?)されても困る。
(あの唇と……)
だが、もう少しばかり伺う。慎重に越したことはないと。
物陰からジッと見つめるのは、笑みを浮かべるムメイの口元。
ルルワは自然に、自身の唇へと手を持って行く。
あの部分がルルワのここに触れたなど、よくよく現実味がない。触れるということは、それほど顔が近づいたということ。
鼻息もかかるような距離だ。パニックであまり覚えていないが、体の色んな所も触れあっていたことだろう。一つ確かなのは、口が臭かったら最悪ということだ。
(なんでよりにもよって、お酒飲んでる日に!)
言ってくれさえすれば、お酒は飲まなかった。
しっかり事前の歯磨きと口臭対策を施し、万全の状態で望んだものを。
ムメイもお酒を飲んでいたため相殺されただろう――などともう何度となく己を慰めているが、喉に刺さった小骨は中々抜けない。
ファーストキスが臭かったとか思われていたら、ルルワは生きていける気がしなかった。
(大丈夫……日頃からケアはしてる。私の身体はどこを取っても完璧のはず……でも緊張してたし……)
緊張すると息が臭くなる。
何度も頭をよぎるその情報を流しては拾い、拾っては流し、堂々巡り。
埒が明かないと、ルルワは現実に帰る。終わったことを考えても仕方がないという結論も、もう何度目の話だった。
(…………いつも通りね)
何の話をしているのか、アワンと楽しそうに会話するムメイの姿に、これといった異変はない。まさに普段通りだ。
だがルルワはここで、ある重大な異変に気が付く。
それは――
(モヤッとしない!)
モヤッ。
女性と喋ったり触れあったりしているムメイを目にすると必ず起こっていた、突発的な心臓の異変だ。
ルルワはその魔法のような不可思議な現象に、モヤッと名付けた。
一時は重度にまで進行していると思っていたその重大な疾患が、今は見る影もない。
これまではアワンと楽し気に喋っている光景を見るだけでも酷くざわついていた心が、穏やかなのだ。
無論優しい風に草花が揺らされるような心の動きは消えないが、花弁が飛ばされるほどではない。
これは大きな変化だった。
(これが、女として一段上に昇った感覚! これまでとは全くステージが違う!)
まさかキス一つで、こんなにも心が変わってしまうとは思ってもいなかった。
良くも悪くも、世界そのものが変わったような感覚だ。今なら空も飛べそうな気がする。
ニコニコと子犬のような笑みを浮かべるアワンの姿が、酷く幼く見える。まさに子犬だ。
彼女はキスをしたことがない。だが、ルルワはキスをしたことがある。
たったそれだけの事実で、これまでは嫉妬の対象だった彼女を優しく見ることができた。
昨日散々言ってきたアクレミアに対しても、自分とは思えないくらいに優しく対応できた気がする。言いたいことの数々を飲み込み、彼女の心に寄り添うことができたのだのだ。
きっとそれは、アクレミアもまだキスをしたことがないからだろう。対して、ルルワはキスをしたことがあった。だからメーロンと共に、彼女に優しくできたのだ。心に配慮できた。
メーロンもルルワと同じく、キス経験者だから。
これが余裕。これが成長。
ルルワは今、女としての高みに立った。真の、大人の女へと生まれ変わったのだ。
(行くわよ……行くわ! 行くったら!!)
起床から約二時間、立ち往生から一時間、ルルワはようやく心を決める。
最後の後押しとなったのは、昨夜ムメイからかけられた言葉だった。
『俺は未だに、君と話す時ドキドキしてるよ』
(ムメイだって同じなのよ!! きっと今だって、私のことを考えてドキドキしてるに違いないわ!! 夜も眠れなかったに違いない!!)
メーロンが言うには、ムメイはルルワのことが大好きで大好きで仕方がないらしい。
四六時中心の中で愛を叫んでいるだろうと言ってた(言ってない)。自分だけの世界に、もう一人のルルワを作り出している頃だろうと言っていた(言ってない)。
今も、どう贔屓目に見ても緊張しているようには見えないオトボケ顔だが、あれは嘘だ。全部偽りだ。
なぜなら、本人が言っていた。目が合うだけで照れくさくて、可愛すぎて直視できないと言ってた(言ってない)。叶うなら、抱きしめて永遠に二人重なっていたいと言ってた(言ってない)。
きっと昨日も、ドキドキし過ぎて一睡もできなかったに違いないのだ(デフォルト)。
(そうよ! 私はキスをした女!! これまでとは違う!!)
前に進まないことが弱さ。
弱くても、少しずつ前に進むことこそが強さだ。
正直、今まで情けない女だった。アクレミアに怒られるのも無理はない。
だから――
(彼の下へ!!)
ルルワはようやく、物陰から抜け出す。
そして――太陽の下へと、勇気ある一歩を踏み出したのだ。
「あっ! ルルワさん、やっと来た!」
「…………」
ルルワの姿が見えるなり、嬉しそうに飛び跳ねるのは――アワンだ。
ルルワの後輩であり、可愛い妹分。天に届かせんとばかりに手を掲げ、そして振ってくれる姿には、いつも感謝しかない。
こんなに温かく迎えてくれる存在には、中々巡り会えないだろう。ルルワは余裕の笑みを浮かべながら髪を払い、大人の女を演出する。
勿体なくも有難いことに、彼女はルルワに憧れてくれている。期待を裏切るわけにはいかない。ルルワはもう、キスもしたことのある女なのだから。
「おはようございます。今日はちょっと遅かったですね、珍しい」
「おはよう。待たせてごめんなさい。ちょっと髪がきまらなくて」
「髪が……」
にこやかに朝の挨拶を交わせば、ルルワの撒き餌に、アワンはさっそく食いつく。
呆然と見上げ、視線はすぐに隣へ。
そこに立つのは、吸血鬼――ムメイ・ヤレーアハ。
(流石はアワンね! なんてできる子なの!)
ルルワの髪型が普段とは違うことにいち早く気づき、自ら口を閉じた。
そして、視線はすぐにムメイへと。自分が指摘することではないと弁えている者の態度だ。彼女は本当によくできた妹だ。
(凄いわ……まだキスもしたことないのに)
人生でまだ一度もキスをしたことがないだろうに、なんという察しの良さ。なんという気配りの早さ。きっと彼女がキスできる日も近いだろう。ルルワはそう確信する。
(もう嫉妬なんてする気になれないわ……あなたも早く良い人を見つけなさい)
そうなれば、大人の女であるルルワは恋愛相談をされる日もやって来るだろう。
その時は、キスの仕方を教えてあげようと心に決める。
「おはようルルワ」
「ええ、おはよう」
続けて挨拶をしてきたムメイへと、ルルワは自然と向き直る。
動揺を悟られないようにするのが肝心だ。努めていつものを自分を演じる。胸下で重い荷物を支えるように腕を組むのはマスト。おっぱいを気持ち持ち上げながら、左手で横髪を耳に引っ掛ける。
当然目は見れなかったし、何なら目は伏せているが、そこまで不自然な態度ではないはずだ。顔は向かい合っているので、これで髪型もよく見えるだろう。
『ルルワって、案外可愛いよね』
可愛い。
たった数回で、もう癖になってしまった。
中々言われない言葉を、好きな人に言われたのだ。当然だ。
だから少しはしたないとは自覚しつつも、髪型を変えて分かりやすいアプローチを仕掛けてみた。これがきっかけに、キスの件の恥ずかしさも紛らわせられる。
(我ながらいい作戦だわ……これで私のペースに自然と持ち込めるはず)
話題振りにもなるし、どうあっても気まずくはならない。
そんなルルワの必勝の策は――
「…………」
「…………」
「…………」
(…………嘘でしょ?)
何の反応も返ってこない時間に、ルルワは耳引っ掛けポーズのまま固まる。数秒後、ゆっくりと目を開き、そろりと窺った。
きっと緊張しているのだ。好きすぎて目も合わせられなければ、好きすぎてまともにお喋りさえできない。彼はそういう男だから。
そう言っていた。そう思いたかった。
しかしそこには、いつもの能無し面。そして――
目が、合った。
「…………」
「…………」
「…………」
ルルワの髪型の変化としては、いつものサイドアップポニーテールから、ツインテールへ。
それも高い位置で結んで全体的に髪のボリューム感を増し、ヘアゴムもよく目立つものを選んでいる。
数個の真珠と、厚めの絹布がピンと上に飛び出すような仕様の髪留めは、二つ並ぶとまるでウサギの耳のようだ。これだけ分かりやすい変化に、気づかないはずがない。気づけないはずがない。それも――
(あなたの好きなやつでしょ!?)
この髪型は、ムメイのリクエストなのだ。
コイラスで、ルルワはムメイに体のサイズなどを詳細に測られたことがある。その際に試しにやってみてくれと言われた髪型が、このうさ耳ツインテールだ。
その時も変わらず澄ました顔をしていたが、細かい指示などからかなりのこだわりがあるものとルルワは推察した。
だからこそこれが、ムメイの好みなのだと。ルルワは密かに記憶し、いざという時に満を持して繰り出すことを決めていたのだ。そして、その時が今。しかし――
「ん? どうしたの?」
「…………」
(この鈍感吸血鬼が……鈍感属性はないって言ってたくせに……)
期待は、怒りへ。
もう鈍感とかいうレベルではない。怠慢だ。
これは彼女として怒ってもいい気がした。アワンなんか開いた口が塞がっていない。
つまりはキスをしたことがないアワンから見ても、これはあり得ないレベルということ。もちろんキスをしたことのあるルルワにしても、これは本当にあり得ない。
(嘘つき……)
怒りは、殺意へ。
今、ようやく分かった。
ルルワは遊ばれていたのだと。
森を出るのに都合が良かったから、ただそれだけのために恋人にされた。
緊張して目も合わせられないとか、お喋りが緊張するとか、ルルワだから森を出たとか――全部嘘だ。でたらめだ。
ルルワが欲しい言葉を、欲しい時に言っていただけに過ぎない。彼にはそれだけの恋愛経験があったのだ。ルルワは恋愛経験の無さから、手玉に取られていた。
そもそも常識で考えれば、300年も生きていて童貞なんてありえない。きっと童貞というのも嘘なのだ。その方がルルワが喜ぶと思ってそういう設定にした。きっとそうだ。
都合の良い女にされていた。
吸血鬼に踊らされる小娘の姿を見て、内心嘲笑っていたのだ。
(ここらで一度思い知らせてやった方がいいかも……私が甘いから、きっと舐められてるんだわ!)
メーロンも言っていた。
男は定期的に立場を分からせてやる必要があると。
ルルワはもっと自信を持っていいのだと。ルルワが一番偉いのだと。
『こいつが幸せなのは私のおかげなんだって、常に思ってていいわ』
そうだ。
言ってやればいいのだ。
この鈍感男。甲斐性なし。童貞。300年童貞。
もう全部言ってしまおう。言いたいことは、全部。
一度分からせてやればいいのだ。
(乙女の唇を奪っておいて……よくも……!)
殺意は、断罪の予兆へ。
震える手は、今にもレイピアの持ち手へ。
ルルワの正真正銘、ファーストキス。
これを悪戯に奪った罪は、遊びで犯した罪は、唇に穴をあける程度では許されない。
背中を滅多刺しにし、穴だらけにする。そして太陽の下を市中引き回しにし、死にそうになったらルルワの血を飲ませ、終わらない生き地獄を味合わせる。
(思い知らせてやる!!)
彼女より身長が低いくせに。
顔も大して格好良くないくせに。
家も服もお金も、何一つ持っていないくせに。無職のくせに。
下賤な吸血鬼が、一体誰の唇を奪ったのか。
この私が誰だか、分かっているのか。
勇者を犯した悪しき吸血鬼。
世界最悪の犯罪者に、今、銀の弾丸を――
「――なんて反応したら、ルルワはどんな顔するかなって。その髪型、よく似合ってるね」
(好き!!)
瞬間――全ての思考は吹き飛ぶ。
もう全てがどうでも良かった。
彼しか目に入らないし、入れたいとも思わない。
先ほどまでの自分は、一体何を考えていたのか。何を血迷っていたのか。
きっと悪魔に心を乗っ取られていたに違いない。
「可愛い」
(好き!!)
好きでしかない。
ルルワよりちょっとだけ低い身長。
可愛くて好き。
子供のようにも大人のようにも見える平凡な顔立ち。
可愛くて好き。
無職、無一文。
可愛くて好き。
童貞。
可愛くて好き。
もう全てが可愛い。全てが好き。
守ってあげたい。甘やかしてあげたい。鬼治血をあげたい。
愛おしくて愛おしくて、仕方がなかった。
これが――恋の魔法。
少女を惑わす、甘い毒の正体だった。
「なんだか……釈然としません」
もうムメイのことしか目に入らないルルワではあったが、流石に声くらいは聞こえる。
不満げな気配に誘われるように目をやれば、そこには唇を尖らせるアワンの姿が。
ルルワは、柔らかく微笑む。
未だキスの一つもしたことのない娘の可愛らしい嫉妬に、大人の女としての笑みがこぼれたのだ。
「見たことのある髪型だったからでしょ? こういうのが好みなのよね?」
ファサッと髪をたなびかせ、これ見よがしにアピールする。ムメイが可愛いと褒めた髪を。
基本は謙遜の姿勢。そしてさりげなくアワンのフォローに回ることで、ここぞとばかりに大人力を見せつける。
作戦が見事成功し、最高の滑り出し。
念願の可愛いも手にし、全てがルルワの予定通り。思い通り。
しかし、ここまでだった。
それどころか、全く想定外の事件が起こる。
天上にまで上り詰めたルルワの精神が、一気に地へと叩き落とされるような――
青天の霹靂だった。
「ん? いやまあ、ルーニーがこの髪型だしね」
「…………ルーニー?」
あっ、やべ……。
そんな幻聴が、耳を掠めた気がした。
珍しく焦りの色を浮かべるムメイの表情に、再びルルワの思考の全ては吹き飛ばされる。
有り余る幸福は、今再び殺意へと――
「ぇ――」
これこそが、恋の魔法。
「女?」
「…………」
その光景を抽象的に言い表すならば――
疾きこと、風の如く。
落ちること、雷の如し。
そして具体的に説明するのならば――
男の上に乗り、マウントポジションを取る女と――女に組み伏せられる男。
大地に寝転がった男の顔横に、女の片膝が立つ。
突き付けられたレイピアの剣先は、逆の頬横へ。
左右を挟まれ、逃げ場のなくなった男の顔を、もう一つの刃物のように鋭い眼光が見下ろす。
まさに八歩塞がり。逃げ場はどこにも見当たらない。
「女?」
「…………」
見下ろす女と、見上げる男。
狩る女と、狩られる男。
瞬く間に展開されたその信じられざる光景を前に、周囲はどよめき、注目は集まる。
これまでのルルワの人生において、見たことのないほどに大きく見開かれた銀の瞳――まさにガン開き。
瞳孔までもが開き、眼球には微塵のブレも感じさせない。
スカートの中など両者気にもならない。互いの目から目が離せない。
それほどの眼圧と気迫。
尋常なる殺意を前に、男は――
「キィ?」
全力で、可愛い子ぶった。
「次誤魔化したら、まずは穴一つ」
「女です」
そして、失敗した。
「でも、あの……小さい女の子だよ?」
「私が大きいって言いたいの?」
「違います」
即座に否定する男。
それは本当に、即座だった。
「その……遊びっていうか。いや、本気ではあるんだけど……ほんとただの遊びで……」
「本命なのね?」
「違います」
ここまでの焦りを見せる《《ムメイ》》は、おそらく生涯でもあるかないかだろう。
どの歴史を振り返っても、男の天敵は女。
その男はまさに、女に狩られるだけの弱い男だった。
そして――
「そう……」
強い女が目を細めると同時、剣先が妖しい光を放つ。
正義の気配に、血の気を引く悪の吸血鬼。
男は、最期の言葉をこの世へと残した。
「ちっ、違う!! ルルワが思ってるよりも……もっとずっと小さい女の子! まだ一回しか会ったことないし! そもそも簡単に会えないし! ほんと、何もなかった!! あいつとはただの遊びだから!!」
女の視線と、断罪の光を放つレイピア――二重の鋭利な気配に、男の弁明も加速する。
嘘は何一つ言っていないどころか、その全てが真実。
しかしそれは、どう贔屓目に見えて浮気の言い訳だった。
女の目と、いつの間にか周囲を取り囲んでいたギャラリーの目が、これ以上に無い冷ややかさを放つ時――
ようやく男は、自身のこれ以上に無いほどの不利を、悟ったのだ。
「う、浮気じゃない!! 誓う!! 名前に誓う!! 俺は浮気が、世界で二番目に嫌いなんだ!!」
見栄も外聞もない。そこにはただ、愛を叫ぶ男。
男の無実の訴えに、女も最後の質問を問いかける。
「二番? 一番は?」
その答え如何で、全てが決まると分かっていた。
恋人の前で、全く知らない女の名前を出すという――極刑ものの大罪。
恋人関係に切っても切り離せない、男の不貞。浮気の疑い。
その、罪の行方は――
「…………寝取られ」
ここに、赦される。
***
「えっ、キモ……」
「きもすぎ」
「キモい」
女たちの軽蔑の視線と、罵声の声が入り乱れる。
ルルワは辛うじて、続きそうになったその言葉を飲み込んだ。このくらいで許してやるべきだろう。もうムメイのライフは、とっくにゼロなのだから。
「自分の能力で彼女そっくりの人形作って……自分だけの空間で着せ替え遊びって……。なんというか……凄いな」
ムメイの懺悔によって、ここに初めて明らかとなった、ルーニーの正体。
浮気の追求現場に偶然居合わせた赤き月の面々にも、大雑把な内容は知らされる。その反応は、一様にドン引きだった。
そんな中、孤立無援のムメイを庇う者こそが、彼の心強い仲間たち。
「ムメイさんになんてこと言うんですか! キモいとか、生理的に無理とか、それ以上近づくなとか! 本当のことでも、言っていいことがあります!!」
「そうよ!! 自作した美少女フィギュアでおままごとしてたからって何よ! 恋愛ゲームのキャラに本気になってたからって何よ! 本当に気持ち悪いけど、そんなのムメイの自由だわ!!」
「いや、そこまでは言ってない」
震えて蹲るムメイを、ルルワとアワンは二人がかりで左右から抱きしめる。
可哀想に、その体はプルプルと震えていた。彼らの心無い言葉に、きっと傷つけられたに違いない。
「大丈夫……私は分かってるから。ちょっと魔が差しただけよね? その子は遊びだもんね? 私が一番だもんね?」
「私の妖精はアツーにしますか? それともアニーがいいでしょうか?」
「お前らも大概凄いな」
トバルを筆頭に、赤き月の面々の視線は好意的ではない。理解できない女を見るようだった。
だが、ルルワは構わなかった。
愛する男のためなら、どんな不幸にも飛び込める。世界を不幸にできる。
母メーロンの言葉が、ようやく身に染みて分かった瞬間だった。
「兄弟……今どんな気持ちなんだ?」
「キィ……」
両手で顔を押さえ、プルプルと横に振る吸血鬼。
その姿、まさに震える子羊。
どこまでも世界から縮こまる男の後を、ルルワは追う。
いつでも、どんな時も一緒だ。決して離さない。
これこそが、恋する女の姿だと。
「これ同一人物か? いや人じゃないが……」
トバルの気持ちは分かるが、ムメイとはそういう男だ。
ほんの少しの環境的ストレスで怯えてしまう弱さは、ウサギもかくや。
ここから狼モードに変態するためには、こうして温めてやる必要がある。
鬼モードの時は、全力で甘やかすのがミソだ。周囲の手厚い介護が必要なのだ。
しばらくルルワは、アワンと共にウサギモード吸血鬼の面倒を見る。
やがて鳴き声が収まり、人の言葉を取り戻してきたあたりで、ルルワはようやく会話という手段を選んだ。
「それで? なんでルーニーのことだけ秘密にしてたのよ。月夜見のことは教えてくれたでしょ?」
「…………」
ルルワの問いに、まず動いたのはトバル達だった。
身内の話と思ったのか、進んで距離を取る。ルルワにそんなつもりはなかったが、ありがたい配慮だった。
(英雄級冒険者か……彼らについても調べないと……)
その背を、ルルワたちは見送る。
きな臭いとまでは言わないが、何らかの思惑があることは確かだろう。昨日までのルルワはそれどころではなかったが、余裕が出てくると様々なことが見えてくる。
(あとは進めている吸血鬼の過去について……ムメイと話すことは山積みね……)
ルーニーにキモいという感想だけを残し、ムメイを虐めるだけ虐めて帰っていく彼らを、視界の外へと追い払う。
今はそんなことはどうでもいい。
ルルワの関心は、やはりただ一人。
見下ろすは、膝を抱えて丸まる、一匹の吸血鬼だ。
「だって……怒られると思って……」
「怒る? 私が?」
揃えた膝の上に顎を乗せ、上目遣い。
可愛いと思いながらも、ルルワは努めて真剣な表情を作る。
「勝手にもう一人のルルワを作ったら……怒られるかなって。それに、引かれるのも怖かったし……嫌われたくなかったし……」
「…………」
『彼に相談したの?』
同じだ。
恥ずかしい。言いずらい。知られたくない。
否定されるのが怖い。
嫌われるのが――怖い。
ルルワと――同じ。
『その程度の我儘も言えねえ女が、恋だとか愛だとか抜かすんじゃねえよ』
瞬間、ルルワは目の前が大きく開けたような感覚を抱く。
今まで大きく映っていたムメイの姿が、どこまでもはっきりと見えた。
時に格好よく、時に格好悪く。
時に可愛く、時に勇ましく、時に情けない。
そんな――
ただの、男が。
「着てあげましょうか?」
「……え?」
なぜ、こんなにも悩んでいたのか。
なぜ、こんな簡単なことに気が付けなかったのか。
ずっと知っていたはずだ。
分かっていたはずだ。
ルルワとムメイは、同じなのだと。
「つまりそのルーニーは、もう一人の私ってことでしょ? 恋の試練の間だけ出現する私の分身。なら、今回は大目に見て上げる」
「浮気セーフ?」
「ギリセーフ」
明らかに安堵し、必要のないのに胸まで撫でおろす吸血鬼。
そんなムメイの姿は、やはりルルワと変わらなかった。
ただ、好きな人に嫌われたくない。ただの、恋する男だ。
「でも、今度からはちゃんと相談しなさい。全部よ? 恥ずかしくても言うの。勝手に作るのはメッ! 分かった?」
「分かった」
相場は人差し指などを立てて忠告するところだが、ルルワはレイピアで代用する。なんとなくだ。特に他意はない。
「よろしい。じゃあご褒美に、今度あなたが着てほしいやつ着てあげるわ」
「ルーニーと同じやつ?」
「ええ」
どんな服なのかは知らないが、ムメイが着てほしいというのなら考える。
能力の仕様とはいえ、もう一人ルルワを生み出して着せるくらいなのだから、相当好きなのだろう。
彼氏の頼みを聞いてあげるのも、彼女としての務めだ。ルルワはもうキスもしたことのある女なのだから、この程度の彼氏の我儘は聞いてあげなければ。
だから――
「それって本当は私に着てほしかったんでしょ? 言ってくれれば、それくらいやってあげるわよ」
己の関知せぬ場所で着せ替え人形にされていたことも、広い心で許してあげる。
見方を変えれば、命懸けのゲームをルルワに見守って欲しいという彼の欲望でもあるのだ。最期までルルワに見ていて欲しいと。
だからルーニーに関しては、そう目くじらを立てることでもないだろう。
もう一人のルルワと思えばいいのだ。
「アワン、メモ」
「はい!」
そんなルルワの言葉に、ムメイは即座に立ち上がると、メモを要求する。
そしてここ一番の流れるような指示で文章を起こす。
もちろんムメイは字が書けないので、それはアワンの仕事だ。
「これを復唱して、サインしてくれる? 指印も」
「現金ね……」
ルルワはその本気の気配に少し気圧されながらも、受け取る。
そこにはこう書かれていた。
ルルワ・シェメシュは、妖精ルーニーに関し、ムメイ・ヤレーアハからのいかなる要求にも喜んで応じます。
「いくら欲しいの?」
「違うわよ。そもそもあなた、お金もってないでしょ?」
ルルワは特に考えることもなく、用紙にサインする。
指印については、自身の指を切ったムメイから血を借りた。彼はこの程度の傷はすぐに治せるので、特に問題ない。
「うん、だからルルワのパパに借りようかなって」
「絶対にやめて」
そして――押す。
こうして、悪魔の契約は結ばれた。
後日、己の分身ルーニーがどういう女であるかを知り、ルルワはこの日を深く後悔することになる。だが――
「なら代わりに、少しあなたの時間をくれる?」
「ん?」
もう一つの後悔は、ここで終わった。
「話したいことがあるの」
「…………」
契約書を丁寧に、それはもう丁寧に懐にしまったムメイが、顔をあげる。
そして、ルルワと目が合うと――
心から嬉しそうに、笑った。
「もちろん、カロスに聞いてみるね。お昼か夕食の時間なら、今日でもオッケー出ると思うけど?」
「いえ、腰を据えて話したいわ。今日すぐとかじゃなくてもいいから、あなたの都合を優先して?」
男女は、笑い合う。
勇気を出せるパートナーの存在に、自分を助けてくれるパートナーの存在に、笑った。
「分かった。でもできる限り早めに時間を作ってもらうよ。カロスには悪いけどね」
「そうね。彼には迷惑をかけるわ」
なぜだろう。全く焦りがない。
まだ何も話していないというのに、もう達成感がある。
もしかしたら、その話し合いでどんな未来になるかなど、何が決まるかなど、大した問題ではないのかもしれない。
お互いが話をしたいと思っている。前に進もうとしている。
それこそが、一番大事なこと。
ルルワはようやく、それが分かった。
「それにしても……もう次のデート? ルルワ、肉食系にもほどがあるよ」
「ええ、彼氏が無食系だから」
これが――女。
「ああ……草食系ですらないんだ……」
「童貞だから」
これが――恋。
世界一の美女、ルルワ・シェメシュ。17歳。
勇者という肩書を与えられただけの、ただの少女。
そんな彼女は、紆余曲折、様々な回り道と寄り道を経て――
3日目の今日、完全復活を遂げた。




