第9話:水流のブーストと獣の一撃——人魚の歌が導く、死闘の決着
晶石が爆発的に輝き、月光の奔流が広間を満たす。目を開けていられないほどの白い光。同時に、ナーガの半透明の体が光を吸い始めた。影だった輪郭が実体化していく。色が戻る。黒髪に艶が蘇り、肌が血色を取り戻し、鱗が黒曜石のような深い光沢を帯びていく。
「ぐ——」
ナーガの呻き声。力を取り込む苦痛か、歓喜か。
だがそれと同時に——外部から、凄まじい衝撃が神殿を揺さぶった。
天井が割れた。
海水が噴出する。柱が折れ、石壁が砕け、暗い水が滝のように広間に流れ込む。
「何——」
シーサーペントだ。
外から。巨大な蛇が神殿の壁を突き破ってきた。全長二十メートルの青黒い胴体が結界を粉砕しながら広間に突入し、天井を支える柱を薙ぎ倒す。
晶石の覚醒を感知したのだ。主のもとに戻ろうとしたのか、それとも晶石そのものに引き寄せられたのか。理由はどうでもいい。二十メートルの暴走する巨蛇が、この狭い広間で暴れている。それが現実だ。
「汐音、離れろ!」
汐音の腕を掴んで引き倒した。頭上をシーサーペントの尾が薙ぎ、風圧だけで体が吹き飛ぶ。壁に叩きつけられる前に、玄が影の壁を張ってくれた。衝撃は防いだが、広間の半分が水没しかけている。
「でもナーガが——!」
ナーガは晶石の力を取り込みかけている最中だった。半実体化した体でシーサーペントに手を伸ばし、「眷属よ、静まれ——!」と叫ぶが、暴走した巨蛇は主の声すら届いていない。黄色い瞳が狂気に光り、巨体が壁に体当たりする度に神殿が崩れていく。
「くそっ——」
獣化した腕でシーサーペントの頭部に飛びついた。顎の付け根に腕を回し、力任せに締め上げる。人狼の怪力をもってしても、この質量は異常だ。巨蛇が首を振り、俺の体が振り回される。天井にぶつかり、壁に叩きつけられ、視界が火花を散らす。
「キバ!」
牙が影の杭を放つ。水中より空気中のほうが影は濃い。黒い杭がシーサーペントの胴体に突き刺さり、鱗の隙間を貫いて石の床に縫い止める。蛇が悲鳴を上げ、体をくねらせて暴れる。杭が一本、二本と弾かれるが、三本目が深く刺さって動きが一瞬止まった。
その隙に。
汐音が水の中に飛び込んだ。広間に流れ込んだ海水の中へ。人の足が一瞬で鱗に変わり、尾鰭が水を蹴って旋回する。
口が開いた。声が——いや、歌が、響いた。
人魚の歌。
言葉ではない。メロディですらない。水そのものが共鳴するような、超低周波の振動。人間の耳には聞こえないかもしれないが、俺の人狼の聴覚は捉えた。海の底から響いてくるような、古くて深い波動。
汐音は水流を操っていた。歌声が海水に干渉し、広間内の水の流れを支配する。シーサーペントの巨体を包み込むように水流が渦を巻き、巨蛇の動きが目に見えて鈍くなる。水の抵抗が何倍にも増幅されている。
「カミヤさん——今!」
水流のブースト。
汐音が操る水が、俺の体を背後から押した。加速。圧倒的な推進力が、陸の獣の体を弾丸に変える。
シーサーペントの頭部が目の前に迫る。
拳を引いた。
獣化した右腕。黒い爪。人狼の筋力と骨格が生み出す、三百年分の暴力。
——叩き込んだ。
拳が蛇の頭頂部にめり込む感触。鱗が砕け、骨が軋み、衝撃波が広間を揺るがした。水が爆ぜ、石が飛び散り、鉱石の光が狂ったように明滅する。
シーサーペントの黄色い瞳が白く濁り——巨体が崩れ落ちた。脳震盪。二十メートルの蛇が、広間の床に横たわって動かなくなる。
同時に。
ナーガが晶石の吸収を完了した。
半透明だった体が、完全に実体化する。黒曜石のような鱗。艶のある黒髪。金色の瞳に、知性の光が戻る。上半身の人型と下半身の蛇が、美しい——と認めざるを得ない、完成された姿を取り戻していた。
「——眠れ」
一言。
ナーガの声が広間を貫いた。物理的な圧力すら伴う、主の命令。シーサーペントがびくりと震え——やがて、巨体がゆっくりと丸まり、静かに動かなくなった。呼吸だけが残り、深い眠りに落ちていく。
崩壊しかけた広間に、沈黙が戻った。天井の鉱石がいくつか落ちて光が薄れたが、ドームの構造はかろうじて保たれている。水が床を這い、足首まで浸している。
俺は獣化を解き、砕けた岩の上に座り込んだ。全身が痛い。右拳が裂けて血が滲んでいる。だが——致命傷はない。
「カミヤさん! 大丈夫!?」
汐音が水の中から浮上し、俺の元に駆け寄る。人の足に戻りかけている途中で、鱗がちらちらと残っている。
「問題ねぇ。——お前こそ」
「私は平気。でも、手……血が」
「治る。いつものことだ」
ナーガが完全な姿でとぐろを解き、台座の前に佇んでいた。晶石は消えている。ナーガの体内に吸収されたのだ。
金色の瞳が、二人を見下ろした。
「礼を言おう、"海の娘"。——そして、"陸の獣"。人狼がこの深海まで来るとは、よほどの物好きだな」
「……よく言われる」
ナーガの唇が微かに弧を描いた。それから表情が真剣になり、広間の奥壁を示した。
壁面に、一枚の石板が埋め込まれている。汐音が走り寄り、石板の文字を読み始めた。
「"黒潮の流れが変わりし年、水温の上昇に耐えかね、我らは北を目指すことを決めた。黒潮の分かれる場所、薩摩の海峡を越えた先に——冷たく清らかな水の聖地がある。残りし者よ、もしこの石板を読んでいるならば、北へ来たれ。我らはそこで、待っている"」
汐音の声が、途中で震えて止まった。
石板の前にしゃがみ込み、指先で文字をなぞる。涙が止まらない。指の隙間から、ぽたぽたと石板の上に落ちる。
「みんな……生きてたんだ。ここにはもう誰もいないけど……でも、絶滅したんじゃない。みんな、生きて——北へ行ったんだ」
ぐしゃぐしゃに泣いている。石板を抱きしめるようにして、声を上げて泣いている。
俺は汐音の隣に座った。何を言えばいいのか分からない。気の利いた言葉なんて、三百年生きても出てこない。
だから——頭を、撫でた。
ぐしゃぐしゃに泣く人魚の髪を、塩水と血で汚れた手で、不器用に。
「行くんだろ。北へ」
「……うん。うん……!」
「どこへでも付き合ってやるよ。——ったく、海の底まで来させやがって」
汐音が顔を上げた。涙でぐちゃぐちゃの顔。鼻が赤い。睫毛がくっついている。それでも——笑った。海色の瞳が涙越しに光って、世界中の宝石より綺麗だと思った。
思っただけだ。口には出さない。死んでも言わない。
ナーガが微かに笑った。
「人狼と人魚の旅路か。面白い時代になったものだ。"海の娘"——仲間に会えることを祈っている。そして」
金色の瞳が、俺を射抜いた。
「"陸の獣"。彼女を、頼んだぞ」
「……言われなくても」




