第10話:北を指す風見鶏
帰り道は、来た時より穏やかだった。
ナーガの力で補修された結界が、俺たちを包むように導いてくれた。岩の亀裂を抜け、外海に出る。暗い深海を、汐音の手に引かれて浮上していく。
水深が浅くなるにつれ、世界の色が変わっていった。墨色が紺に。紺が群青に。群青が——朝焼けの光に染まった、燃えるようなオレンジ色に。
ツキが限界だった。首筋で「もう……むり……」と震える声。酸素の供給が途切れかけ、肺が焼けるように苦しい。口を閉じ、最後の空気を引き延ばす。
水面が——近い。
光が、目の前にある。
ぱしゃん。
水面を割って顔を出した瞬間、朝の空気が肺を叩いた。むせた。咳き込んだ。それでも吸い込んだ。ツキの濾過した酸素ではない、本物の——与那国島の朝の空気。潮と花と赤土の匂い。
「はっ……は……生きてる。空気ってこんなに美味かったか……」
「カミヤさん……! おつかれさま……!」
隣で汐音が水面から顔を出し、潮に濡れた顔で笑っている。朝日が彼女の鱗を照らし、虹色の光が水面に散っている。目元に涙の痕が残っているが——笑っている。世界一幸せそうに、笑っている。
入り江の岩場に這い上がった。二人とも仰向けに倒れ込む。岩は朝日に温められ始めていて、ほんのりと温かい。背中に伝わる岩の体温が、信じられないほど心地いい。地面がある。足がつく場所がある。陸だ。
空が高い。橙と水色のグラデーション。鳥が一羽、崖の上から海に向かって飛び立ち、甲高い声で鳴いた。遠くで波が崖を叩き、白い飛沫が朝日にきらめいている。
「薩摩……鹿児島の先、かな。もしかしたら屋久島とか、奄美とか——」
隣で汐音が、石板の内容を反芻している。尾鰭がまだ残っていて、岩の上でぱたぱたと跳ねている。
「まずは沖縄本島に戻って、そこからフェリーで北上だな」
「カブに乗って?」
「カブに乗って」
「人魚を後ろに乗せて日本縦断する人狼って、絶対私たちだけだよ」
「……もう何でもいいよ。人狼だろうが人魚だろうが、郵便局のおばちゃんにパシリ呼ばわりされようが——」
半身を起こした。汐音を見下ろす。朝日が真横から差し込んで、琥珀の瞳を金色に燃やしている。
「お前が行きたい場所に行く。お前が探したいものを探す。そんだけだ」
汐音の目が潤んだ。ああ、またか。この人魚はすぐ泣く。海水で散々しょっぱい思いをしたばかりだというのに。
「カミヤさん……」
「泣くなよ。海水で十分しょっぱいんだから、これ以上塩分足すな」
「ひどい……! でも……ありがとう。ありがとう、カミヤさん」
涙を拭い、鼻をすすり、それから——
「大好き」
朝の風がさらっていった。波の音。鳥の声。崖の上で草が揺れる、さわさわという音。そのすべてが一瞬だけ遠のいて、汐音の最後の二文字だけが、鼓膜の奥に残った。
顔を背けた。耳の先が熱い。塩焼けだ。たぶん。日焼けだ。きっと。
ツキが肩の上で「すき……」と寝ぼけた声で呟いた。こいつは俺の感情にリンクしている。俺が感じたことを、そのまま口に出す最悪の性質がある。
「寝てろ」
小突いた。ツキが「ふにゃ」と鳴いて、影の中に潜り込んだ。
崖を登る。裸足の足裏に赤土の感触。草の匂い。朝日の温もり。全部が、海の底から戻ってきた今は、途方もなく鮮やかに感じる。
陸だ。俺の場所だ。
だが——海の底も、悪くなかった。汐音がいる場所なら。
ボロい家に戻り、五右衛門風呂を沸かした。汐音を湯船に沈める。まだ鱗が引いていない。普通なら月が沈めば人の足に戻るのだが、感情の高ぶりで人魚化が長引くことがあるらしい。
「ゆっくり浸かってろ。飯作る」
「カミヤさんが料理……?」
「缶詰温めるだけだ」
「それ料理って言わない……」
「うるせぇ」
台所で缶詰のコンビーフを焦がしながら(致命的に料理が下手だ)、縁側から庭を眺める。影狼たちを解放する。玄が深呼吸するように影を広げ、朝の光の中で輪郭がくっきりと立つ。牙が庭石に爪を研ぎ、ごりごりという音が心地よく響く。銀が屋根に飛び上がって島全体を見渡す見張り態勢。影が床下に潜って休む。ツキだけが俺の膝の上で完全に寝落ちしていて、微かな寝息を立てている。
与那国馬が遠くの草原で草を食んでいるのが見える。海は穏やかに凪いで、水平線が空と溶け合っている。トタン屋根の上をヤモリが走り、カナカナカナと、どこかで蝉が鳴き始めた。夏が、まだ終わっていない。
風呂場から汐音の声が飛んでくる。
「カミヤさーん。次はもっと可愛いジュエリー、たくさん作らなきゃね。『深海神殿の欠片ペンダント』とか、めっちゃ売れると思わない?」
「……お前、神殿から石持って帰ったのか」
「えへへ。鉱石のかけら、いくつかポケットに入れてきちゃった。月の光みたいに光るんだよ、これ。暗い場所でほんのり青白く発光するの。絶対映える」
「……命懸けの冒険のお土産が、ハンドメイドの素材かよ」
「ビジネスチャンスはどこにでもあるんだよ、カミヤさん。これ磨いてシルバーワイヤーで巻いたら——うん、一万二千八百円はいけるね」
「具体的だな」
「『与那国の深海から——月光鉱石のしずくペンダント』。暗い場所でほんのり青白く光ります。世界でたった一つの、深海からの贈り物。——どう?」
「知るかよ」
だが、口元が緩んでいた。隠す気もなかった。
風呂場でスマホを操作する水音。ぽちぽちぽち、と画面をタップする音。出品しているのだ。ついさっき命懸けで潜った海底神殿の鉱石を、ハンドメイドアプリに。
三十秒後。
「あ、もう『いいね』が三つついた!」
「……早ぇな」
「でしょー? 『最西端のマーメイド・ジュエリー』の新作だからね。ファンがいるの、私」
「ファンね」
「ほんとだよ! リピーターさんもいるし。——あ、カミヤさん。値段、一万五千円にしようかな。送料込みで」
「お前、あの命懸けの冒険を、一万五千円で売るのか」
「安い? もっと高くする?」
「そういう問題じゃねぇよ……」
二人の声が、朝の風に溶けていく。
庭の端にスーパーカブが停まっている。錆びたフレーム。凹んだタンク。何度も修理した相棒。沖縄の強い日差しに灼かれて、塗装がさらに褪せている。
こいつに乗って、また走る。後ろに人魚を乗せて。与那国島から沖縄本島へ。そこからフェリーで北上。鹿児島。屋久島。奄美。もしかしたら、もっと先。
次の目的地は——北だ。
薩摩の海峡を越えた先。冷たく清らかな水の聖地。汐音の仲間が待っている場所。
崖の下で、黒潮が轟いている。ごおう、ごおう、と。だがもう、その音は恐怖ではなかった。あの黒い水の底に潜って、生きて戻ってきた。汐音と一緒に。
——怖くないとは言わない。海は、今でも怖い。
だが、あいつがいる場所なら。あいつが「こっちだよ」と手を引いてくれる場所なら。
「次は、北だな」
呟きは、誰にも聞こえなかったはずだ。
だが風呂場から、汐音の声が返ってきた。まるで聞こえていたかのように。
「うん。——北へ行こう、カミヤさん」
空に、鳥が舞い上がる。崖の上の草が風に揺れ、遠くで与那国馬がいななく。トタン屋根の錆びた風見鶏がきいきいと回り、北を指す。
何でもない朝だ。ぼろぼろの崖の上の家。焦げた缶詰の匂い。風呂場から響く鼻歌。膝の上で眠る影狼。
だけど。
三百年の孤独の果てにやっと手に入れた、かけがえのない朝。
庭の端で、庭石の上に銀が座り、北の空を見ている。牙が伸びをし、影が床下からこそりと顔を出す。玄が俺の隣に来て、黙って同じ方向——北——を見た。
「行くのか」
「ああ」
「次は、もう少しマシな道があるといいな」
「……さあな。でもまあ——」
縁側に寄りかかり、朝日を浴びた。
「——悪くねぇ旅だろ」
玄は何も言わなかった。ただ尾を一度だけ振った。それで十分だった。
人狼と人魚の放浪旅は、続く。
(完)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
第7章をもちまして、本作は第一部完結となります。
カミヤと汐音の旅はまだ終わりません。二人が目指す「北の聖地」、そしてカミヤの過去に待つものは――また別の物語で描ければと思っています。
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これまで応援してくださった皆様、本当にありがとうございました。




