第8話:蛇神の影——眠れるナーガ、覚醒
通路を抜けた先は、天井の高い円形の広間だった。
壁面を覆う鉱石の光が、ここでは一段と強い。青白い光が空間全体を満たし、幻想的な――いや、神殿と呼ぶに相応しい荘厳さを醸し出している。床は磨かれた石で、中央に向かって緩やかに傾斜している。
中央に、台座があった。
腰の高さほどの石の台座。彫刻が施された側面。その上に——拳大の結晶体が、浮いていた。
宙に浮かんでいる。台座の上、数センチの空間に、何の支えもなく静止している。乳白色の結晶。内部に脈打つ光は月光のようで、周囲の空気を微かに震わせている。
月結びの晶石。
そして——台座の周囲を、蛇の尾が何重にもとぐろを巻いていた。
暗い色の鱗。乾いてひび割れ、ところどころ剥がれかけている。だが胴の太さは俺の体幹ほどもある。とぐろの直径は五メートル。広間の床のかなりの面積を占めている。
匂いが最も濃い場所。ここだ。ここが、あの残り香の源。
玄が「来る」ではなく、「いる」と言った。最初から、ここにいたのだ。
とぐろの上に——上半身が浮かび上がった。
人の上半身だった。だが人間ではない。長い黒髪が水気を含んで頬に張り付き、肌は青白く、鱗が首筋から肩にかけて浮いている。目を閉じていた——それが、ゆっくりと開く。
金色の瞳。
人間の形をした上半身。そこから下は——巨大な蛇の胴体。半人半蛇。
ナーガ。
だが、その姿は不完全だった。上半身が半透明に揺らめいている。実体と幽体の間を行き来するように、輪郭がぶれ、ちらつき、霞む。かろうじて意識を保っている、という表現が最も正確だ。衰弱している。途方もなく。
金色の瞳が俺を捉え、それから背後の汐音を見た。
「"陸の獣"……と、"海の娘"か」
声は、空気を震わせて届いたのではなかった。頭蓋の内側に直接響く。水中で汐音と交わした思念に似ているが、それよりも遥かに重く、深い。数百年の時間が圧縮された重力のような声。
「久しいな。この場所に、生者が足を踏み入れるとは」
「お前が——あの蛇を操っていたのか」
「私の眷属だ。数百年の眠りの間、遺跡を守らせていた」
半透明の手が、疲れたように台座の縁に置かれる。
「だが、もう限界なのだ」
金色の目が、台座の上の晶石に向けられた。内部の月光が脈動し、ナーガの視線に呼応するように光が強まる。
「あの石を取り込めば、この朽ちゆく影の体を元に戻せる。だが、結界が私を拒む。"海の娘"の血で封を開かねば、取り出せぬ」
血の気が引いた。
汐音の血。こいつは——汐音の血を求めている。
「ふざけんな」
体が動いた。汐音の前に立ちはだかり、右腕を横に広げて壁を作る。影狼が四匹、一斉に顕現した。牙が地面に四肢を突き立てて低く唸り、玄が俺の右横に並び、銀が天井付近に展開し、影が壁際で消える。
ナーガの金色の瞳が、影狼たちを見渡した。半透明の唇が、微かに弧を描く。笑っているのか。
「臨戦態勢か。——三百年前の人狼と、変わらぬな。血気盛んで、短慮で」
「黙れ。こいつには指一本触れさせねぇ」
「カミヤさん、待って」
背後から、汐音の声。
振り返る気はなかった。背中を見せれば、汐音が俺の横に出てくる。そうさせたくない。だが——
汐音が俺の腕をすり抜けた。横に出て、ナーガの目を真っすぐに見つめている。
「あなたは、人魚と共生していた"ナーガ"なの?」
声は震えていた。だが、芯がある。折れそうで折れない、葦のような強さ。
「なら、私の仲間のことも知ってるはず。ここにいた人魚たちは——どこに行ったの?」
ナーガの金色の目が、汐音を射抜いた。
長い沈黙が落ちた。
鉱石の光がゆらゆらと揺れ、水滴が壁を伝って落ちる音だけが広間に響く。ぽたん。ぽたん。ぽたん。
やがて——ナーガの半透明の唇が、微かに開いた。
「……北へ行った」
汐音の肩が跳ねた。
「数百年前。海流が変わり、水温が上がった。人魚たちは冷たい水を求め、北の深海へと旅立った。私は——ここに残り、遺跡を守ると約束したのだ。だが、力が尽きかけている」
「北……」
汐音の声が、掠れた。
「やっぱり、生きてるんだ。みんな……」
涙がこぼれた。海色の瞳から透明な雫が落ち、石の床に弾ける。人魚の涙は、普通の涙とは違う。水面に落ちた雨粒のように、跳ねて、砕けて、微かに光る。
俺は——何も言えなかった。汐音の肩が震えているのを、ただ見ていた。
しかし。
ナーガの表情が、変わった。金色の瞳が鋭くなり、半透明の体が微かに緊張する。
「だが——"海の娘"よ。悠長に語っている場合ではない」
台座の上の晶石が、脈動を速めていた。先ほどまでゆっくりと明滅していた光が、心臓の鼓動のように——いや、それよりも速く、強く打ち始めている。
「お前たちが結界を揺らしたせいで、あの石が"目覚めかけている"。暴走すれば、この遺跡ごと崩壊する」
足元が、微かに震えた。天井の鉱石がぱらぱらと剥がれ落ち、青白い粉が雪のように舞い降りてくる。
「私に石を取り込ませるか、さもなくば——ここから逃げろ」
「汐音の血を使うってのは、どういう意味だ。どれだけ必要なんだ」
「指先の一滴で足りる。……だが、信じられぬか。当然だな」
奥歯を噛み締めた。
罠かもしれない。ナーガを信じる根拠はない。蛇の魔族。人魚と共生していた、という伝承がある。だが伝承は伝承だ。三百年の俺の経験則では、異種族の言葉を鵜呑みにするのは馬鹿のやることだ。
だが——遺跡が崩壊すれば、すべてが失われる。汐音の仲間の痕跡も。北への道標も。
「カミヤさん」
汐音の声。
振り返ると——覚悟を決めた目が、そこにあった。
「指先の一滴でいいんでしょ? それで遺跡が守れるなら」
「汐音——」
「この人は、人魚と一緒にこの場所を守ってきたんだよ。嘘をついてるようには……見えない」
海色の瞳が、揺れなかった。三百年前、密猟者の網の中で泣いていた少女は——もう、いない。
「……俺が横にいる。何かあったら、即引き剥がす」
「うん」
汐音が台座に近づいた。ナーガの巨大なとぐろの間を縫うように歩く。俺はすぐ後ろにつき、右手を獣化させた。指先が伸び、爪が黒く鋭くなる。いつでも斬れる準備。
汐音が立ち止まり、自分の人差し指の先を唇に当てた。軽く噛む。ぷつりと皮膚が裂け、真珠のような一滴の血が滲んだ。
晶石に向けて、指を差し出す。
血の一滴が、宙に浮かぶ結晶体の表面に落ちた。
——瞬間。
世界が、白く弾けた。




