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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第7章:月夜の人魚はハンドメイドアプリで生計を立てる ~人狼カミヤと海底遺跡に眠る蛇神ナーガの呪縛~

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第7話:裂け目の先に眠る空気——異空間神殿『水底の肺』

 二度目の潜航は、前回とは全く違うルートを取った。


 シーサーペントの縄張りを大きく迂回し、南西側から遺跡に接近する。汐音のナビゲーションで黒潮の枝流に乗り、体力の消耗を抑えながら深海を滑っていく。


 ツキの残り時間を、頭の中で計算し続ける。潜航開始から二十分。移動に使った時間。残り一時間四十分。


 遺跡の南西面は、正面よりも崩壊が進んでいた。巨石が折り重なるように崩れ、かつての壮麗な石壁は瓦礫の山と化している。だが汐音は、瓦礫の隙間から漏れ出る微かな水流を、人魚の感覚で正確に追っている。


「……あった」


 汐音の指が示した先に、人一人がかろうじて通れる幅の亀裂。岩と岩の隙間から温かい水が流れ出し、細い泡が立ち上っている。


 亀裂に手を突っ込んだ。岩の感触。水温が周囲より明らかに高い。そして——振動。シーサーペントの気配はない。


「行けそうだ。狭い。お前が先に行け」


「カミヤさんの肩幅、通るかな……」


「ねじ込む」


 汐音が先に亀裂に体を滑り込ませた。尾鰭が折れ曲がるほど狭いが、人魚の柔軟な体がするりと通り抜けていく。


 俺は後に続いた。肩が岩に挟まれ、押し込むたびに皮膚が裂ける。腹を削り、背中を削り、ほとんど自分を岩に押しつぶすようにして前へ進む。ツキが首筋で「いたい、いたい」と泣いている。


「もう少しだ、耐えろ」


「うぅ……がんばる……」


 歯を食いしばり、岩の隙間を抜けた——


 瞬間。


 水が、消えた。


 正確には、水面が現れたのだ。亀裂を抜けた先で、頭上にドーム状の天井があり、そこに空気が溜まっている。水面から頭を出した途端、ツキの加護を介さない本物の空気が肺を満たした。


 古い。数千年前の空気だ。鉱物の匂い。塩気。微かに甘い、朽ちた珊瑚の匂い。そして——


 嗅覚が、覚醒した。


 水中では封じられていた人狼の嗅覚が、空気と共に一気に目を覚ます。膨大な情報が鼻腔から押し寄せ、脳を圧迫する。


「——何だ、この匂い」


 甘い腐敗臭。蛇の脱皮した皮のような、粘液質の残り香。古い——途方もなく古い蛇の匂い。この神殿に、シーサーペントが、いや、それよりもっと古い「何か」が出入りしていた痕跡。


 天井を見上げた。ドーム状の天蓋に、淡い青白い光を放つ鉱石が無数に埋め込まれている。光が水面に反射し、空間全体がゆらゆらと揺らめいている。プラネタリウムの中にいるみたいだ。


 ドームの内部は広い。中央に浅瀬があり、白い砂浜が水際に薄く広がっている。砂浜の向こうに通路が続き、その先からさらに古い空気が流れ込んでくる。


 汐音が俺に続いて水面から顔を出した。尾鰭で水を掻き、浅瀬に体を引き寄せる。月光がなくても、この鉱石の光で汐音の鱗は発光している。青白い燐光が水面に揺れ、彼女自身が光源のように見える。


「カミヤさん——この文字!」


 汐音の視線が壁面に釘づけになっている。内壁に刻まれた紋様。渦巻きと波の彫刻の間に、人魚の古い言葉。


「"陸から来る友への、休息の間"。この場所は——昔、人魚と陸の種族が一緒に過ごすために作られた場所なんだ」


 砂浜に上がった。ずぶ濡れの体を拭く布なんてない。塩水が乾いて肌がぴりぴりする。だが、久々に地面を踏む感覚に全身が安堵している。


 ツキを肩から降ろした。砂の上でぺたんと潰れたツキが、「ふぅ……つかれた……」と力尽きたように呟く。しばらく休ませなければ。


「陸の種族ってのは——人狼か」


「分からない。でも少なくとも人間じゃない。人間がこの深さまで素手で来られるわけがないもん」


 壁面を見渡す。紋様の中に、四足の獣の図が刻まれているのが見えた。狼か、犬か——風化して細部は判別できないが、陸の獣の象形であることは確かだ。


「人魚と人狼が、昔は共存してたってことか」


「もしかしたらね。だから"ナーガの鱗"の鉱石で陸の種族が呼吸できる空間を作った——」


「待て。"ナーガの鱗"?」


 汐音が壁面の別の箇所を指さした。鉱石の説明らしき文字列。読み上げる。


「この神殿は"ナーガの鱗"を核とした鉱石によって維持される。鉱石が海水を分解し、酸素を生成する。ナーガとは——」


「蛇の魔族」


「知ってるの?」


「伝承でだけな。人魚と共生関係にあった、とかいう話は聞いたことがある。——とっくに絶滅したはずだが」


 蛇の匂いが、鼻の奥にこびりついている。この神殿に残る古い残り香。シーサーペントの匂いとは微妙に異なる、もっと深い、もっと知性的な——ある種の"品格"を感じさせる匂い。


「カミヤさん、この先に何かあるよ。通路が続いてる」


 砂浜の向こうに、暗い通路が口を開けている。鉱石の光が通路の入り口まで届いているが、奥は闇に沈んでいる。そこから、微かな空気の流れ。そして——蛇の匂い。


「ツキが回復するまで休む。それからだ」


 砂浜に腰を下ろし、壁に背を預けた。岩の亀裂を抜けた時の裂傷が、すでに塞がりかけている。人狼の再生能力。ありがたい。


 汐音は浅瀬で尾鰭を揺らしながら、壁面の文字を読み解いていく。時折メモを取るようにスマホの画面を操作しようとして、「あ、電波ないや」と呟いて諦める。水深四十メートルの異空間神殿に5Gが届くわけがない。


「カミヤさん。ナーガについて、もう少し書いてある。かつて人魚とナーガは共生関係にあった。でも、ある時代を境にナーガは姿を消し、遺跡は放棄された——」


「姿を消した、ね」


「絶滅した、とは書いてない。姿を消した、としか」


 視線が通路の奥に向かう。暗闇の向こうに何がいる。分かっている。あの匂いが教えてくれている。


「まさか——あのシーサーペントの後ろに、本体がいるのか」


 汐音が息を呑んだ。


 沈黙が落ちた。鉱石の光がゆらゆらと揺れ、水面の反射が天井を這う。水滴が岩壁を伝い、ぽたん、と浅瀬に落ちる。その音だけが、静寂を刻む。


 ツキが砂の上で寝返りを打ち、「すぅ……すぅ……」と寝息を立てている。少しは回復しているようだ。


 三十分ほど経った頃、ツキの目がうっすらと開いた。


「……いける?」


「うん……もうすこしなら……」


「十分だ。奥まで行って、戻ってくる。それだけでいい」


 立ち上がった。汐音も浅瀬から砂浜に這い上がり、濡れた尾鰭が人の足に戻る。人魚化の制御。月光がなくても、水に浸かっていれば維持できるが、水から上がれば徐々に人の形に戻る。


「汐音。——俺の後ろにいろ」


「……うん」


 通路に足を踏み入れた。鉱石の光が壁面を幽玄に照らしている。足元は磨かれた石の床で、薄い水の膜が張っている。靴のない裸足が、ぴちゃ、ぴちゃ、と音を立てる。


 奥へ進むほど、蛇の匂いが濃くなる。空気の質が変わる。古い——途方もなく古い生命の気配。


 通路の壁には、さらに多くの紋様が刻まれていた。人魚の図。蛇の図。そして——両者が共に何かを守っている図。祭壇のような構造物の周りに、蛇と人魚が円を描いている。


「ねえ、これ——」


 汐音が壁に指を触れた瞬間、奥から音が響いた。


 ことん。


 石が落ちたような、微かな音。


 玄が身構えた。牙が低く唸る。影が壁に溶け込んで偵察体勢に入る。


「——いる」


 俺の琥珀の目が金色に光る。暗闘の中で、人狼の瞳が最大限に開く。


 通路の奥から——低い、低い、振動。呼吸のような。


 進んだ。


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