第6話:シーサーペントの縄張り、握った手
嵐が去った朝の空は、洗い流されたように清廉だった。
東の水平線が薄紫から橙へと燃え上がり、一番星がその光の中に消えていく。崖下の入り江に降りると、海は嘘みたいに穏やかだった。岩場に砕ける波は囁き声ほどの大きさしかなく、水面は朝焼けの空をそっくり映して、液体のオパールみたいに光っている。
潮止まりが近い。
俺は岩場の先端に立ち、足元の海を見下ろした。上半身裸、ハーフパンツ。裸足。水着もウェットスーツもなし。生身で、海の底に潜る。正気の沙汰じゃない。
ツキが首筋にまとわりつき、半透明の影が肌を撫でる。
「じゅんびできた。……こわいけど」
「ああ。頼むぞ」
指先でツキの輪郭を撫でた。震えている。それは——たぶん、俺の心臓の振動が伝わっているからだ。
影の中で、玄、銀、牙、影の四匹が待機している。水中では大幅に弱まるが、いざという時の切り札。腹の中に四枚の手札を忍ばせておく。
汐音が隣に立った。裸足で、白いワンピース一枚。水に入れば人魚化するから、服は意味がないのだが、「一応、マナーとして」とか言って着ている。目はもう海を見ている。あの静かな目。凪いだ深海の色。
「カミヤさん」
「ああ」
「私の手、離さないで」
白い手が差し出された。
握った。小さい。ひんやりしている。だが——確かな力で、握り返してくる。
「離すわけねぇだろ」
汐音が微笑んだ。それから水に向き直り、一歩を踏み出す。足首が水に触れた瞬間、さあっと鱗が走る。水面が彼女を迎え入れるように揺れ、膝、腰、胸——汐音の体が水に沈んでいく。俺の手を引きながら。
俺も足を踏み出した。
冷たい。
水が足首を掴み、ふくらはぎを這い上がり、腿を締めつける。陸の獣の本能が最後の警告を発する。引き返せ。ここはお前の場所じゃない。
構わず進んだ。腰まで浸かり、胸まで浸かり——頭が水面を超えた瞬間、ツキの加護が発動した。
肺に酸素が流れ込む。ツキの影の体を通じて、海中の水分から直接酸素を抽出し、俺の肺に送り込む。同時に、薄い力場が全身を覆い、水圧から内臓と鼓膜を守る。
呼吸ができる。水の中なのに、息ができる。だが、肺に入る空気は微かにぬるく、金属的な味がする。地上の空気とは違う。ツキの命を濾過した酸素だ。
視界が暗転した。水中に入ると、人狼の夜目でも暗闇は暗闘だ。何も見えない——いや。
汐音の手が、光っている。
彼女の鱗が、水深が増すにつれてほのかに発光し始めていた。青白い光が二人の周囲を照らし、暗い水の中に小さな宇宙を作っている。
「息、苦しくない?」
汐音の声は音としては聞こえない。水中では声帯は機能しないが、ツキを介した思念が脳に直接届く。
「問題ねぇ。続けろ」
汐音が頷き——加速した。
片手で俺の手を引き、もう片方の手と尾鰭で水を蹴る。その推進力は、信じられないほど凄まじかった。水の抵抗が消えたかのように、二人の体が暗い海を矢のように滑っていく。サンゴの群生が流星のように過ぎ去り、色とりどりの熱帯魚が二人の軌跡を避けて散る。
「——速ぇな、お前」
「ふふ、ここは私の庭だから。もっと深く行くよ」
水深十メートル。まだ朝日の光が水中に差し込み、青い水が金色の筋で満たされている。浅い海は明るい。美しいとさえ思う。光の柱がゆらゆらと揺れ、白い砂地にサンゴの影が踊っている。
水深二十メートル。光が急速に薄れ始めた。青が紺に変わる。水温が下がる。肌が粟立つ。
水深二十五メートル。太陽の光が、消えた。
世界が紺から墨に沈み、汐音の鱗の発光だけが唯一の光源になった。青白い燐光が二人の周囲を薄く照らし、それ以外はすべて、闇。
「汐音、光ってるぞ」
「ああ、これ、深く潜ると勝手に光るの。人魚の生体発光。便利でしょ?」
「……陸でこんなに光ったら一発でバレるな」
「だから夜は外に出ないようにしてるんだよー。カミヤさんが運んでくれるし」
軽口を叩きながらも、俺の全感覚は周囲の異変を探っていた。水の流れ。温度の変化。微かな振動。何かが——この海域を、見ている。
水深三十メートルを過ぎた頃、汐音の手がわずかに強張った。
「……近い」
水深三十五メートル。
それは、唐突に姿を現した。
暗闇の中に、巨大な壁が立ちはだかる。階段状に積み上げられた石。自然の岩盤とは明らかに異なる、精密な切り出しと組み上げ。表面には渦巻きと波を模した彫刻が刻まれ、苔と貝に覆われながらも、数千年の意志が確かに残っている。
スケール感が狂う。壁の上端も下端も見えない。俺の視界の端から端まで、石の壁が続いている。
「これが——与那国の海底遺跡」
「観光客が知ってる場所とは違う。ここはもっと深くて、もっと古い。私たちの——本当の遺跡」
汐音の目が、石壁の紋様を読んでいる。指先で文字をなぞる動作。人魚の古い言葉。俺には読めないが、汐音の表情が変わるのが分かる。畏怖。郷愁。そして——期待。
「何て書いてある」
「"帰還する者に、道を示す"。入り口は——あの先」
汐音が指さした方向に、トンネル状の開口部が暗闇の中にぽっかりと口を開けていた。そこから微かに温かい水が流れ出ている。内部に空間がある証拠。仲間の手がかりが、あの中に——
その瞬間。
全身の産毛が逆立った。
影の中で玄が低く唸る。「——来る」
水が、震えた。
音ではない。振動だ。遺跡の東側、岩棚の向こうから——途方もなく巨大な質量が、こちらに向かって移動してくる。水流が渦を巻き始め、二人の体がぐんと引っ張られた。
闇の中に、二つの光が灯った。
黄色い。爬虫類の瞳。横に長い瞳孔が、こちらを捉えている。二つの目の間隔が——広い。途方もなく、広い。頭部だけで直径二メートル以上あるということだ。
そして、闇の中から——ゆっくりと、それが浮かび上がった。
全長は二十メートルを優に超えていた。蛇のような胴体。青黒い鱗が水中でぬめりと光り、ところどころに古い傷跡が白い線となって走っている。巨大な顎が開き、無数の牙が並んでいるのが見えた。牙の一本一本が、俺の前腕ほどある。
シーサーペント。
遺跡の番人のように、入り口の前に横たわっていたそいつが、侵入者の気配に目覚めたのだ。
汐音の手が震えている。指先が痙攣するように俺の手を握り締め、爪が食い込む。
「逃げるぞ」
「でも、遺跡が——」
「生きてなきゃ意味がねぇ。今日は退く。次がある」
シーサーペントの黄色い瞳が、ゆっくりと二人を追尾する。品定めするように。——そして、旋回した。
二十メートルの胴体がうねる。尾が遺跡の岩壁を薙ぎ、ごりっという重い衝撃音が水中を震わせた。砕けた石の破片が弾丸のように飛散する。
汐音を引き寄せ、背中で庇った。岩の破片が背中に叩きつけられる。ツキの防御膜がなければ肋骨が粉砕されていた衝撃。それでも痛い。背骨を鈍器で殴られたような激痛が走り、視界が白く飛ぶ。
「カミヤさんっ!」
「問題ねぇ——泳げ! 全速で!」
汐音が俺の腰を抱え、一瞬で加速した。水が破裂するような推進力。二人の体が遺跡から弾き出され、暗い海を矢のように飛ぶ。
後ろ。振り返る。黄色い二つの目が、闇の中で追ってくる。二十メートルの巨体がうねるたびに、水流が暴風のように吹き荒れ、視界がめちゃくちゃになる。速い。あのサイズで信じられないほど速い。
「右!」
汐音が叫び、岩礁の間をすり抜ける。俺の体が岩に擦れ、皮膚が裂ける。構うな。背後でシーサーペントの頭部が岩に激突し、海底が震える轟音。だがダメージを受けた様子はない。巨大な顎が岩を噛み砕き、破片を吐き出しながら体勢を立て直す。
「くそ——頑丈すぎんだろ」
牙を召喚した。水中で弱体化しているが、影の杭を一本——シーサーペントの尾の付け根に打ち込む。黒い杭が鱗の隙間に突き刺さり、蛇の動きが一瞬だけ鈍る。ぎしり、と巨体が軋む音。
その隙に汐音がさらに加速する。二人の体が弾丸のように海を貫き、遺跡から百メートル——二百メートル——
追撃が、止まった。
振り返ると、シーサーペントは遺跡の上空を悠然と旋回している。こちらを見ているが、追ってこない。
縄張りの境界だ。
「……止まった」
岩陰に身を隠し、荒い呼吸を整える。ツキ経由の酸素が肺に流れ込むが、全力で泳いだ——正確には汐音に引きずられた——ために心拍が跳ね上がっている。背中の裂傷がじくじくと痛む。
シーサーペントはしばらく旋回した後、ゆっくりと遺跡の闇に沈んでいった。黄色い瞳が、最後にこちらを一瞥して——消えた。
「……化け物め」
汐音が俺の顔を覗き込む。海色の瞳が、暗い水中でも鮮明に見える。心配と、悔しさと、罪悪感が入り混じった目。
「カミヤさん、背中——血が」
「治る」
「でも——」
「それより、お前は。怪我してねぇか」
「私は……平気。でも——どうしよう。あのデカブツがいたら、正面からは入れない」
「分かってる。最初から正面突破なんて考えてねぇよ」
汐音が目を瞬かせる。
「お前、遺跡にトンネル以外の入り口があるかもしれないって言ったよな。裂け目とか亀裂とか。——あのデカブツの縄張りの外を回って、裏側から探る」
「……できる? ツキの限界は」
「二時間。往復の移動を差し引けば、探索に使えるのは一時間程度。厳しいが——やる」
浮上する。水面を割って朝日の光を浴びた瞬間、肺が叫ぶように空気を求めた。ツキの酸素じゃない、本物の空気。甘い。温かい。
入り江の岩場に這い上がった。仰向けに倒れ、朝日を浴びる。背中の傷に塩水が沁みて顔が歪む。隣で汐音が人の足に戻り、濡れた膝を抱えて座っている。
「……ごめんね。私がもっとちゃんと偵察してれば」
「お前のせいじゃねぇ。——次の潮止まりはいつだ」
「明後日」
「二日あるな。——行くぞ、汐音」
立ち上がり、手を差し出す。汐音がその手を取り、引き上げられる。潮水で濡れた指先が、朝日の中でからまった。
「うん。——一緒に行こう」
崖を登る。背中の傷がじりじりと痛むが、汐音の手は離さなかった。




