第5話:嵐の日、あなたの手は離れなかった
予報通り、与那国島は荒れた。
明け方から南風が強まり、昼前には暴風に変わった。崖の上の家は風の通り道にあるらしく、窓という窓がガタガタと鳴り、トタン屋根が地鳴りのように唸り続けている。庭の先の崖から吹き上がってくる潮風が、家中に塩の匂いを充満させる。
汐音は窓に張り付いて、荒れ狂う海を見つめていた。
白波が崖を叩き、飛沫が五十メートルの断崖を越えて庭まで飛んでくる。黒潮の本流が牙を剥き、海面全体が灰色の泡に覆われている。
「今日は絶対潜れないね……」
呟いて、唇を噛んだ。あの遺跡の中に、仲間の手がかりがあるかもしれないのに。あと一日——あと一日早く潮止まりが来れば。
でも、海は待ってくれない。潮の満ち引きも、黒潮の気まぐれも、人魚の都合なんか知ったことじゃない。三百年の海暮らしで、それは嫌というほど分かっている。
ため息をついて、作業台に向かった。昨日カミヤさんが崖下から引き揚げてきた化石サンゴの欠片を並べ、研磨の下準備を始める。ルーターの音が低く唸り、細かい粉が舞う。水をかけながら、ゆっくりと表面を削っていく。何万年も前のサンゴが、研磨剤に磨かれて少しずつ光を取り戻していく。
——これも、命だったんだ。
何万年も前に海の中で生きて、死んで、石になった。それを私が磨いて、光らせて、誰かの首元に届ける。人魚のジュエリーは、海の記憶を纏わせるもの。石垣島で始めた頃は見様見真似だったけど、最近は自分なりのスタイルが見えてきた。
窓の外で、カミヤさんが庭に出た。
上半身裸。雨粒が肌を叩いているのも気にせず、庭の端にタライを並べている。水を張り、影狼を一匹ずつ潜らせて、水中での力の持続時間を測る訓練。昨日の続きだ。
牙が水に沈む。黒い影の輪郭が、水の中で揺らいで薄まっていく。
「三十秒で形が崩れ始める。一分で攻撃力は半減。だが——影の杭としてなら、水中でも使える。むしろ水圧があるぶん、杭は安定するな」
カミヤさんの独り言が、風の合間に聞こえる。真剣な声だ。
玄が横で腕を組んでいる——影の狼なのに、人間みたいな仕草をする。
「水の中じゃ、お前の手札は"殴る"と"耐える"だけだ」
「知ってる。だが、それで十分だ。殴りどころさえ分かれば」
「……相変わらず脳筋だな」
「うるせぇ。三百年これでやってきたんだ」
汐音は研磨の手を止めて、窓越しにその背中を見つめた。雨に濡れた黒髪が額に張り付き、肩甲骨の間を水滴が伝っていく。左肩に、銀の弾痕の薄い傷跡。石垣島で受けた傷だ。もう治っているはずなのに、跡だけが残っている。銀は人狼にとって致命的な弱点で、その傷は完全には消えない。
——あの人は、私のために戦ってくれた。これからも、戦ってくれる。
だから私は、あの人が戦わなくて済むように、海の中で道を切り開かなきゃ。
研磨を再開する。ルーターの音が、嵐のうなりと重なって、不思議な二重奏になった。
昼過ぎ。嵐はさらに強まり、外に出るのも危険になった。カミヤさんがずぶ濡れで家に入ってきて、縁側に座る。汐音が古いタオルを投げ渡すと、乱暴に頭を拭いて、泡盛の瓶を手に取った。
「昼から飲むの?」
「体を温める」
「嘘だぁ」
「……じゃあ飲みたいから飲む」
湯呑みに泡盛を注ぎ、一口含む。汐音も作業を中断して、隣に座った。二人で縁側から、嵐に暴れる庭を眺める。影狼たちは影に引っ込んでいる。ツキだけがカミヤさんの膝の上で丸くなり、風の音に怯えて「ひぅ……」と鳴いている。カミヤさんがツキの頭を指先で撫でる。その手つきが——ぞんざいなのに、どこか優しくて。
「カミヤさん」
「あ?」
「ツキのこと、大事にしてるよね」
「……別に。こいつが勝手にくっついてくるだけだ」
「嘘」
「嘘じゃねぇよ」
「じゃあ今、ツキの頭撫でてるのは?」
カミヤさんの手が止まった。ツキが「もっと……」と甘えた声を出す。カミヤさんが舌打ちして、再び撫で始める。
汐音は笑いを噛み殺した。——この人は、自分の優しさを認めるのが世界で一番苦手なんだから。
午後。汐音は新商品の撮影に切り替えた。嵐で外に出られないなら、室内で撮るしかない。窓から差す曇天の柔らかい光が、ジュエリーの微妙な色合いを引き出すのに意外と向いている。
前日にカミヤさんが崖下から引き揚げた大きな流木を、作業台に立てかけてジュエリースタンド代わりにする。白く乾いた流木の表面に、研磨途中の化石サンゴのペンダントを掛ける。自然光、天然素材、手仕事の痕跡——ハンドメイドアプリで星五つをキープするには、こういう「世界観」が全てだ。
「カミヤさん、ちょっとこの流木持ってて。——ああ、もうちょっと右。そう、角度をこうして……そのまま動かないで」
「……俺は今、流木の台座か」
「最高のモデルさんだよ。はい、シャッター切るよ。——あ、その不機嫌な顔、いい味出てる」
「撮るな」
「商品写真だよ、カミヤさんは写ってないから安心して。……あ、でも手だけ写ってるかも。指が綺麗だから、これはこれで」
「消せ」
「えー」
何枚か撮影した後、汐音はスマホで画像を確認しながら、心の中で思った。——この何気ない時間が、遺跡調査よりもずっと大切に感じる。カミヤさんが隣にいて、不機嫌そうな顔をしながら、全部付き合ってくれるこの日常。こうやって文句を言いながら流木を支えてくれて、郵便局まで荷物を運んでくれて、崖下から重い素材を担いで上がってくれる。
これが、三百年間ずっと夢見ていたものだ。
——もし、明後日の海で、カミヤさんに何かあったら。
その思考を、振り払った。暗い水の底に沈む想像が、一瞬だけ胸を掠める。
夕方。嵐は少し弱まったが、まだ外は荒れている。月が昇る前に風呂を沸かし、汐音が先に入った。ぬるめの湯に浸かりながら、自分の足を見つめる。人間の、白い足。月が出れば消える足。
——明後日、カミヤさんをあの海の底に連れていく。
あの人は陸の生き物だ。どんなに強くても、水の中では息ができない。ツキの力が切れたら、溺れる。嗅覚も使えない。影狼の力も三割まで落ちる。遺跡には、全長十五メートルを超える何かがいる。
もし——もし、カミヤさんに何かあったら。
喉の奥が、きつく締まった。
風呂から上がり、着替えて縁側に出ると、カミヤさんが泡盛の残りを舐めながら座っていた。嵐の風が髪を揺らし、遠くで雷が低く唸っている。
隣に座った。カミヤさんが無言で湯呑みを差し出す。汐音は一口もらい、むせた。
「……ねえ、カミヤさん」
「あ?」
「明後日、もし海の中で何かあったら——私のこと、置いて逃げてね」
時間が止まった気がした。
風の音が遠くなる。波の音も消える。世界が、カミヤさんの琥珀の瞳だけになる。
「——は?」
低い声。怒りではない。もっと深い、もっと重たい感情が、その一音に詰まっている。
「私は海の中なら逃げられる。でもカミヤさんは——」
「馬鹿言ってんじゃねぇよ」
カミヤさんの手が伸びて、汐音の頭をぐしゃりと掴んだ。乱暴に、だが壊さないように。指の腹が頭皮に触れ、髪の間に入り込む。引き寄せるでもなく、押しのけるでもなく。ただ、そこにある。
「お前を置いて逃げるくらいなら、海の底で化け物に食われたほうがマシだ」
声が震えている。怒っているのか、怯えているのか——たぶん、両方。
「——二度とそういうこと言うな」
汐音の目から、涙がこぼれた。止められなかった。ぽたり、ぽたりと、縁側の板に落ちて染みを作る。
「……うん。ごめんなさい。ごめん」
風が唸った。嵐の最後のひと暴れのように、家全体を揺さぶる突風。波が崖を叩く音が、世界中のあらゆる音を飲み込んでいく。
その中で——汐音の唇が、かすかに動いた。
「——ありがとう」
カミヤさんの手が、少しだけ優しくなった。ぐしゃぐしゃに掴んでいた力が緩み、指先が髪を梳くように滑る。
それだけだった。
それだけで、十分だった。
夜。月が雲間から顔を出し、汐音の足が変わる。カミヤさんに五右衛門風呂まで運ばれ、湯船に浸かる。尾鰭をゆっくり揺らしながら、天井の染みを数える。隣の部屋で、カミヤさんが影狼たちと低い声で話している。作戦の最終確認。明後日のシミュレーション。
汐音は目を閉じ、水の中に指先を沈めた。
三百年前の夜を思い出す。
暗い海の底で、網に絡まって身動きが取れなくなっていた。密猟者の仕掛けた罠。鱗が千切れ、血が水に溶けて、意識が遠のいていった。死ぬのだと思った。泡になって消えるのだと。
そこに——あの手が来た。
暗闇を裂いて伸びてきた手。温かくて、力強くて、乱暴で。網を素手で引き裂いて、私を掴んで、水面に引き揚げて。
あの時の手と、今日の手は同じだ。三百年経っても変わらない。ぐしゃぐしゃに掴んで、乱暴に引き寄せて、絶対に離さない手。
「——明後日は、私が守る番だよ」
小さく呟いた声は、嵐の残響にかき消される。
湯船の水面が、呼吸に合わせて微かに揺れる。天井の染みが、三つ。風呂場の壁に這うヤモリが、一匹。蛇口から落ちる水滴の音が、ぽた、ぽた、と、まるで時計の秒針のように正確に時を刻んでいる。
その音を数えながら、汐音はゆっくりと目を閉じた。




