第4話:崖下の偵察——潮止まりの17分間
目が覚めたのは、まだ星が残っている時刻だった。
スマホのアラームが鳴る前に、体が勝手に起き上がる。三百年の放浪で身についた習性——行動の前に、必ず夜明け前に覚醒する。暗闇の中で意識が冴え渡り、嗅覚と聴覚が周囲の気配を探る。
波の音。風の唸り。崖の下で海が呼吸するような低い轟き。そして——風呂場から、水の跳ねる微かな音。汐音がもう起きている。
布団から出て、上半身裸にハーフパンツという出で立ちで庭に出た。夜明け前の空は紫がかった紺色で、西の水平線に月が沈みかけている。足元の赤土は夜露に湿り、ひんやりと冷たい。
ツキが首筋にまとわりついてきた。半透明の影が体温のない冷たさで肌に触れる。
「こわい……」
「知ってる。でも行くぞ」
「うん……がんばる……」
小さな声。こいつは五匹の影狼の中で最も臆病で、最も甘えん坊で——そして今日、最も重要な役割を担う。水中の加護。俺が海の底で息をするための、唯一の命綱。
影の中から玄が現れ、無言で俺の横に並んだ。銀、牙、影の三匹も気配を鋭くしている。全員、俺の影に潜伏して待機する。水中では大幅に力が落ちるが、いざという時の切り札として連れていく。
「カミヤさん、おはよう」
振り返ると、汐音が裸足で庭に出てきた。月がほぼ沈んだため、足は人の形を保っている。だが目の色だけが——海の底みたいに暗い青に沈んでいる。
いつもの天然さが消えていた。代わりにあるのは、凪いだ水面のような静けさ。こいつが本気の時の顔だ。
「潮止まりは五時二十三分。あと四十分。——崖、降りるよ」
「ああ」
二人で崖の獣道を降りる。岩場は暗闇の中でも、人狼の夜目と人魚の感覚で足元は見える。波は穏やかだった。潮止まりが近づいている証拠だ。入り江の水面が、夜明け前の空を暗い鏡のように映している。
岩場の先端に立つ。足元の水は黒い。底が見えない。昼間の透き通った海とは別物だ。あの下に、何十メートルもの暗闇が沈んでいると思うと——
認めたくないが、心臓が速くなった。
陸の獣の本能が、全力で警告している。行くな。沈むな。お前は海の生き物じゃない。
「カミヤさん」
汐音の声で、意識が引き戻された。
彼女は水際に立ち、こちらを真っすぐに見ている。海色の瞳が、暗闇の中でもはっきりと見える。人魚の目は、暗い海でも光を捉える。
「今日は私だけが潜る約束だよ。崖の上で待ってて」
「……ああ」
喉の奥に、言葉が詰まった。行かせたくない。一人で、あの暗い水の中に。だが昨夜の約束がある。偵察は汐音だけ。それが二人で決めたことだ。
「だが十五分で戻れ。十七分過ぎたら俺が飛び込む」
「え、泳げるの?」
「——うるせぇ。沈めば届くだろ」
汐音が、ふっと笑った。いつもの「えへへ」じゃない。もっと柔らかくて、もっと切ない——大事なものを見つめる時の、あの笑い方。
「行ってきます」
白い足が、水に入った。足首、ふくらはぎ、膝。水面が彼女の体を迎え入れるように静かに揺れる。腰まで浸かった瞬間、足首から透明な鱗がさあっと走った。月の光を浴びなくても、水中では意志の力で部分的に人魚化できる。銀色の鱗が暗闇の中でほのかに光り——汐音の下半身が、音もなく人魚の尾に変わった。
最後に一度振り返り、琥珀の俺の目を見つめて。
それから——暗い水の中へ、すうっと消えた。
波紋が広がる。やがてそれも消え、水面はまた鏡に戻る。
一人になった。
岩場に座る。水面を凝視する。影狼の銀を水面ぎりぎりに放ち、汐音の気配を追わせた。銀が水面を滑るように移動し、汐音が沈んでいく方向を探る。しかし水深が増すにつれ、感知が曖昧になっていく。
「——深い。追えない」
銀の報告。
「もう少し粘れ」
「……これ以上は、俺の影が溶ける」
舌打ちして、銀を引き上げた。水中では影の力が薄まる。深海ではなおさらだ。
一分。
波が岩を洗う音だけが響く。空が、わずかに白み始めている。
三分。
東の水平線に、薄いオレンジ色の線が引かれた。夜明けが近い。
五分。
指先が、無意識に岩を掴んでいた。爪が石に食い込み、小さな破片が崩れ落ちる。
あいつは今、何を見ている。真っ暗な水の壁。冷たい海流。巨大な構造物の影。そして——汐音自身が「近づくな」と感じた、あの得体の知れない気配。
七分。
心臓の音が、波の音と重なって聞こえる。
十分。立ち上がった。
玄が影から声をかける。「まだだ」
「分かってる」
分かっている。まだ十分だ。約束は十五分。でも——足が、勝手に水際に向かう。
十二分。ツキが首筋で震えている。こいつは俺の感情に敏感だ。俺が怖いと感じれば、ツキも怖がる。
「だいじょうぶ……?」
「ああ。——大丈夫だ」
嘘だ。全然大丈夫じゃない。
十四分。足首まで水に入っていた。冷たい。潮の匂いが鼻を突く。水面は依然として暗く、何も見えない。
十五分。
約束の時間だ。戻ってこない。
十六分——
飛び込もうとした、その瞬間。
水面が割れた。
ぱしゃん、と白い飛沫が跳ね、汐音の顔が浮かび上がった。濡れた髪が顔に張り付き、口を大きく開けて息を吸い込む。海色の瞳が朝焼けの光を反射して、きらきらと光る。
「ただいま!」
手を伸ばした。汐音の腕を掴み、一気に引き上げる。加減を間違えた。汐音の体が岩場に飛び出し、そのまま俺の胸にぶつかった。冷たい水と、鱗の感触。海藻の匂い。潮の味。
「——十六分二十秒。遅ぇ」
「ごめんごめん、つい夢中になっちゃって」
「つい、じゃねぇよ。あと四十秒で飛び込むとこだった」
「え、本当に来る気だったの? 泳げないのに?」
「沈めば届くっつったろ」
「それ泳ぐとは言わないよ……」
汐音が俺の胸に額を押しつけたまま、くすくす笑う。鱗が俺の腹に当たって、ひやりとした。心臓が跳ねる。——潮のせいだ。水が冷たいから。
「……で。何が見えた」
汐音が体を起こし、目の色を変えた。
「カミヤさん、すごいよ。本当に、すごい」
水深三十五メートルに、階段状の巨大な石造構造物。自然物じゃない。明らかに誰かが切り出し、積み上げた石。表面には渦巻きと波を模した紋様が彫られている。苔と貝に覆われて、けれど数千年の時を耐え抜いた造形がはっきりと分かる。
構造物の中央に、トンネル状の開口部。そこから温かい水が流れ出している。中に空間がある証拠。
「人魚の文字もあった。壁に刻まれてた。まだ全部は読めなかったけど——」
「全部は読めなかった、ってことは、中に入ったのか」
「入ってない。入り口の外壁に刻まれてた文字だけ。でもね、カミヤさん」
汐音の声が低くなった。
「遺跡の東側に、すごく大きな擦過痕があった。岩に何かの鱗の欠片が食い込んでて——少なくとも全長十五メートル以上の海棲生物が、何度も体を擦りつけた跡」
「……十五メートル」
「それから、遺跡に近づいた瞬間に——海流が不自然にうねった。何かがこっちを見てる感覚。本能が『逃げろ』って叫んだから、深追いしないで帰ってきた」
風が吹いた。朝の、湿った風。汐音の髪が靡き、岩場に水滴が散る。
「入り口をあいつが守ってる」
「……そう思う」
俺は腕を組み、考えた。
岩に座り、膝に肘をついて、琥珀の目を細める。水中では身体能力が半減する。影狼の力も大幅に弱まる。ツキの潜水限界は二時間。移動時間を除けば、探索に使える時間は一時間もない。正面からあの化け物とやり合うのは——無謀だ。
「汐音。遺跡に、トンネル以外の入り口があるかどうか分かるか」
「ううん。でも、トンネルから温かい水が出てたってことは、中に大きな空間がある。空間があるなら、どこかに別の裂け目や亀裂があってもおかしくない」
「なら、次はあのデカブツを避けて、裏口を探す。——次の潮止まりは」
「明後日。明日は黒潮が荒れるから、潜れない」
「二日ある。準備する。明後日、一緒に潜る」
汐音が目を見開いた。それから、ふわりと——朝日みたいに、笑った。
「うん。——一緒に、行こう」
崖を登る。背中の肌に塩水が乾いて突っ張る。朝日が完全に昇り、島全体が金色の光に包まれている。与那国馬が遠くの草原で首を上げ、こちらを見ている。
振り返ると、崖の下で海が光っている。さっきまで真っ黒だった水面が、朝日に照らされて翡翠色に輝いている。その下に、遺跡がある。汐音の仲間の手がかりがある。
そして——何かが、いる。
玄が影の中からぼそりと呟いた。
「お前、本当に行くのか」
「ああ」
「物好きだな。三百年経っても」
「うるせぇよ」
背後で汐音が叫ぶ。
「カミヤさーん、朝ごはん何がいい? 島のお豆腐、まだ残ってるよー!」
海を背にして、彼女のもとへ歩き出す。赤土の道を、裸足で。
たぶん、ずっとこうだ。
あいつの声がする方に、俺は歩いていく。海の底だろうが、崖の上だろうが。
——面倒くせぇ話だ。
口元が緩んでいるのを、自分で分かっていた。




