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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第7章:月夜の人魚はハンドメイドアプリで生計を立てる ~人狼カミヤと海底遺跡に眠る蛇神ナーガの呪縛~

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第3話:Wi-Fiと風呂と、人魚の経営戦略

 五右衛門風呂の中で、汐音は目を覚ました。


 最初に感じたのは、水のぬるさだった。昨夜のうちに月が沈み、足は人間の形に戻っている。指先がふやけて、爪の端が白くなっている。うっかり風呂の中で寝てしまったのだ——何時間浸かっていたのだろう。窓の隙間から朝日が差し込み、水面にゆらゆらと光の模様を描いている。


 ぱた、ぱた、と水滴が蛇口から落ちる音。遠くで波が崖を叩く音。そして——隣の部屋から、小さな鳴き声。


「くぅん……くぅ……」


 ツキだ。カミヤさんの胸の上で丸くなって、寝ぼけた声を出している。甘えん坊の影狼は、夜の間にカミヤさんの懐に潜り込んだらしい。


 汐音は濡れた髪を絞りながら、風呂の縁に頬を載せた。隣の部屋は襖一枚で隔てられているだけで、その隙間からカミヤさんの横顔がわずかに見える。畳の上に敷いた布団で、仰向けに眠っている。黒髪が額にかかり、長い睫毛が頬に影を落としている。寝顔は、起きている時のぶっきらぼうさが全部消えて、年相応——いや、外見通りの二十歳くらいの青年に見える。三百年の重みなんて、どこにもない。


 胸の奥が、きゅうっと軋んだ。


 ——ここが、私たちの家なんだ。


 そう思った瞬間、涙が出そうになって、慌てて顔を水に沈めた。ぶくぶくと泡が上がる。水の中のほうが落ち着く。海の生き物だから。泣きたい時は、水に潜ればいい。


 三百年間、ずっと一人で海にいた。仲間は散り散りになり、人間に紛れて陸で暮らすようになってからも、本当の意味で「家」と呼べる場所はなかった。石垣島の借家は、一人で住むには広すぎた。テーブルの向かいに誰もいない食卓。夜になれば勝手に人魚に戻る体。月が昇るたびに、人間のふりが剥がれ落ちていく孤独。


 それが今、こうして——


 ぼろぼろの崖の上の家。錆びた屋根。割れた窓。でも、隣の部屋にはカミヤさんがいて、影狼たちが庭を走り回っていて、五右衛門風呂の湯船には、私がいる。


 ——ああ、だめだ。やっぱり泣きそう。


 ばしゃん、と顔を上げて深呼吸する。水滴が睫毛を伝い、光にきらきら反射する。


「よし」


 汐音は風呂から上がり、昨日のうちに干しておいたタオルで体を拭いた。冷蔵庫——はまだ空だ。昨日の残りの島豆腐を冷たいまま齧りながら、スマホで衛星インターネットの業者を調べる。


 与那国島。日本最西端。光回線は来ていない。モバイル回線は場所によっては台湾の電波を掴んでしまう。ハンドメイドアプリの受注管理、写真のアップロード、レビュー返信、入金確認——すべてにネット環境が必要な汐音にとって、Wi-Fiの開通は家の修繕より優先度が高い。


「衛星ネット回線……初期費用、うっ。でも月額はまあまあ……。速度は下り80Mbps見込み。これなら写真も動画もいける」


 すぐに申し込みの電話をかけた。工事業者は石垣島から来るらしい。最短で今日の午後——


「本日午後二時にお伺いします」


「ありがとうございます! よろしくお願いします!」


 電話を切り、ガッツポーズ。しかし汐音は、まだ「島時間」というものを知らなかった。


 午後二時。来ない。


 午後三時。来ない。


 午後四時。電話をかけると、「すみません、船が遅れまして。もう少々お待ちを」


 汐音はスマホのテザリングで何とかアプリを開き、溜まっていた通知を処理しながら、畳の上でじりじりと待つ。新着レビューが三件。星五つが二件、星四つが一件。星四つのコメントには「梱包がもう少し丁寧だと嬉しいです」とある。


「うう……あれは石垣島を出る直前でバタバタしてたからなぁ……。ごめんなさい、次から気をつけます、って返信しなきゃ」


 親指が画面を叩く。ぽちぽちぽち。


 カミヤさんは朝から庭で、影狼たちと何やら「訓練」をしていた。タライに水を張り、影狼を一匹ずつ水中に沈めて、力の維持時間を測っている。キバが水に突っ込まれ、影の密度が目に見えて薄まっていく。クロがそれを横で見守り、ぼそりと「弱ぇな」と漏らす。牙が「うるせぇ」と唸る。


「海の中じゃ、影の力は三割がいいとこか」


 カミヤさんの独り言が、開けた窓越しに聞こえる。


「カミヤさーん、お昼どうする?」


「適当でいい」


「適当って何! 冷蔵庫空っぽだよ!」


「……商店で何か買ってくる」


 カブのエンジン音がパタパタと遠ざかっていく。汐音はスマホを膝に置いて、窓の外を眺めた。カミヤさんの背中が、崖沿いの細い道を走って集落へ消えていく。


 一人になった部屋に、波の音だけが響く。


 ——あの人は、私のために海に潜ってくれる。


 陸の獣なのに。水が怖いはずなのに。泳ぐのも得意じゃないのに。「どこへでも付き合ってやる」って、あの人はそう言った。


 だからせめて、旅費くらいは私が稼がなきゃ。


 汐音はスマホを握り直し、新商品の構想をメモ帳に打ち始めた。


 午後五時。ようやく業者が到着し、屋根にアンテナを設置。速度テストを実行すると、下り82Mbps。与那国島の崖の上で、この数字。


「やった! 5G——は流石に無理だけど、これなら十分! カミヤさん、Wi-Fi繋がったよ!」


 集落から戻ったカミヤさんが、缶詰とパンの入った袋を抱えて縁側に座っている。


「……その数字の意味が、俺には分からねぇ」


「動画がサクサク見れるってこと!」


「お前は海底神殿を探しに来たのか、動画を見に来たのかどっちだ」


「両方! 旅費は私のハンドメイド売上なんだから、しっかり稼がないと」


 翌日から、汐音は作業スペースの構築に取りかかった。元ダイビングショップの機材洗い場は、大量の水を使える設計になっている。排水溝がしっかりしていて、壁にはホースを掛けるフックが並んでいる。ここを、ジュエリー工房に改造する。


「カミヤさん、この作業台、窓際に動かしたいんだけど」


「……重ぇぞ、これ」


「だからカミヤさんにお願いしてるんだよ」


 カミヤさんが片手で作業台を持ち上げ、窓際に移動させる。人狼の怪力をこういう場面で使うのは贅沢だなぁ、と思いながら、汐音は石垣島から持ってきた研磨道具を並べていく。ルーター、サンドペーパー、シルバーワイヤー、ペンチ。そして、新しい素材の候補——与那国島の化石サンゴ。


「与那国って、星砂じゃなくて化石サンゴが採れるんだよ。何万年も前のサンゴが石化したやつ。これを磨いてペンダントにしたら——」


「商売の話は一人でやれ。俺は郵便局の場所を見てくる」


 カミヤさんがカブで久部良の簡易郵便局を偵察に行き、戻ってきた時には微妙に不機嫌だった。


「どうしたの?」


「……郵便局のおばちゃんに、『彼女のパシリ?』って聞かれた」


「あはは! で、何て答えたの?」


「仕事だ、と」


「嘘じゃないもんね。カミヤさんは『sionne's shell』の専属スタッフだもん」


「……その肩書き、やめろ」


 夕方。汐音はカミヤさんを連れて崖を降りた。断崖の中腹に獣道のような細い段差があり、それを辿ると——小さな岩場に出た。両側を崖に囲まれた天然の入り江。観光客はおろか、島の人間も滅多に来ないだろう。水は嘘のように透き通っていて、岩場の足元から海底の白い砂が見える。


 汐音は裸足で水際に立ち、足首まで海に浸けた。目を閉じる。


 波の音が遠のいていく。汐音の意識が水の中に沈んでいく。海の記憶を読む——人魚だけに許された感覚。水温、塩分濃度、海流の向き、そして——


「……カミヤさん」


 目を開けた。海色の瞳が夕陽に照らされ、光と影が揺れている。


「この下、すごく古い匂いがする。石の、珊瑚の、それから——同族の、かすかな残り香」


 心臓が跳ねた。期待と不安が同時に押し寄せて、胸が苦しい。——仲間がいたんだ。この海の底に、確かに人魚が暮らしていた痕跡がある。


「どれくらい前だ」


「分からない。百年か、二百年か……。でも、確かにここにいた。私と同じ種族の誰かが」


 夕日が海に沈んでいく。空が橙から紫に変わり、最初の星が瞬く。入り江の水面が鏡のように凪いで、空の色をそっくり映している。


「行こう、カミヤさん。あの海の底に、答えがある」


「……ああ」


 夜。月が昇り、汐音が人魚に戻る。カミヤさんにお姫様抱っこで五右衛門風呂に運ばれ、湯船に浸かりながら、二人で作戦を練った。


 汐音が海中で感じた情報を整理する。崖下の入り江から真下に潜ると、水深三十五メートル付近に巨大な人工構造物の気配。ただし黒潮の本流が遺跡の上を横切っており、流れは極めて速い。潜れるタイミングは潮止まりの数十分間だけ。


 そして——遺跡の周辺に、何か大きな生き物がいる。正体は不明。汐音の本能が「近づくな」と叫んでいる。


「まず偵察として、私が単独で遺跡の外観を確認して、安全なルートを見つけてから——」


「お前を一人で行かせるわけねぇだろ」


「私は海の中なら死なないよ。カミヤさんこそ、無理して溺れたらどうするの」


 湯気の中で、視線がぶつかった。カミヤさんの琥珀の目が、真剣な光を湛えている。汐音は目を逸らさなかった。これだけは譲れない。カミヤさんを危険に晒すくらいなら、自分が先に行く。海は私の領域だ。


 長い沈黙の後、カミヤさんが先に目を逸らした。


「……一回だけだ。偵察だけ。何かあったら即戻れ」


「うん。約束する」


 尾鰭で湯をぱしゃん、と跳ね上げた。カミヤさんの頬にお湯がかかる。


「——おい」


「えへへ」


 カミヤさんが乱暴に顔を拭いて、「……寝る」と立ち上がった。襖の向こうに消えていく背中。汐音は湯船の中で、その背中をずっと目で追っていた。


 ——ねえ、カミヤさん。


 あなたが海に潜ってくれるなら、私は絶対にあなたを守るから。


 月の光が窓から射し込み、湯船の中の尾鰭を青白く照らす。鱗の一枚一枚が月光を吸い込んで、暗い浴室の中でほのかに輝いている。汐音はその光を見つめながら、静かに目を閉じた。


 遠くで、黒潮が崖を叩いている。


 ごおう、ごおう、と。


 眠りの底から世界を揺さぶるような、深い、深い海の音。



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