第2話:黒潮の咆哮、二人だけの家
おじいの目が俺と、後ろの汐音とを交互に見る。若い男女がスーパーカブ一台で最果ての島にやってきた。怪しいと思われても仕方ない。
だが、おじいはにやりと笑っただけだった。
「崖の上に、一軒あるさ。昔ダイビングショップやってた兄ちゃんが出て行って、誰も借り手がおらんのよ。ボロいけどな」
道を教えてもらい、カブでさらに坂を登る。舗装が途切れ、赤土の道になった先に——それはあった。
潮風に錆びたトタン屋根。割れかけた窓ガラス。壁のペンキは剥げて下地のコンクリートが見えている。庭には機材の残骸が転がり、ホースやウェットスーツの切れ端が風に揺れている。そして庭の先は——断崖。柵もなく、赤土の地面がそのまま空に落ちている。
崖下を覗き込む。紺碧の海が、五十メートル下で白く砕けている。黒潮の流れが岩壁にぶつかり、渦を巻いている。
「ここ最高! 庭から海にダイブできる!」
汐音がカブから飛び降り、目を輝かせて崖の縁まで走っていく。
「おい、落ちるぞ」
「大丈夫、私は落ちても泳げるもん」
「俺は泳げねぇんだよ」
「えへへ」
……何がえへへだ。
だが、立地は悪くない。集落から離れているから、人目がない。夜中に影狼を庭で遊ばせても、月光で汐音が人魚に戻っても、誰にも見られない。それに、崖の下にプライベートの入り江があるなら、そこから直接海に潜れる。ダイビングショップがここに店を構えたのも頷ける。
「カミヤさん、中見てみよ!」
汐音に手を引かれ、錆びたドアを開ける。蝶番が軋み、埃っぽい空気が鼻を突く。中は——ボロい。率直に言ってボロい。畳は日焼けし、天井の隅にクモの巣が張り、壁に前の住人が貼ったダイビングポイントの地図がそのまま残っている。キッチンは最低限の設備。風呂は——
「五右衛門風呂、生きてる! やった!」
汐音が奥の浴室から叫ぶ。大きな石造りの風呂桶が、塩害に強い頑丈な造りでどっしりと鎮座していた。蛇口を捻ると、錆びた色の水がしばらく出た後、透明な水に変わる。
「これなら、夜に人魚になっても大丈夫。お風呂に浸かってればいいもんね」
「……お前の基準は全部そこだな」
家賃はおじいの言う通り、笑ってしまうほど安かった。というか、「住んでくれるだけでありがたい」と言われた。過疎の島の、崖っぷちの廃墟同然の家。借り手がいないのも当然か。
その日のうちに、掃除を始めた。
俺が錆びた機材や朽ちた棚を怪力で運び出し、庭の端に積み上げる。汐音が水回りと窓を拭く。影狼たちも総動員——玄が天井裏に潜り込んでヤモリの群れを追い出し、銀が屋根に飛び上がって瓦の隙間を偵察する。牙が庭の背丈ほどに伸びた雑草を影の刃で薙ぎ払い、影が床下に潜って湿気とシロアリの状況を確認する。
ツキだけが、俺の肩の上で丸くなってヤモリから逃げていた。天井裏から玄に追われたヤモリが一匹、壁を走ってツキの目の前を横切った瞬間、「ひぃっ」と悲鳴を上げて俺の首筋に潜り込んだ。
「……お前なぁ」
「こわい……とかげこわい……」
「ヤモリだ。無害だっつの」
「でもぬるぬるする……」
人狼の使い魔が、体長十センチのヤモリに怯えている。世も末だ。
日が傾く頃には、なんとか住める状態になった。畳は日焼けしたままだが、埃は払った。窓は拭いて、割れかけたガラスにはガムテープを貼った。キッチンのガスは生きていた。水道も出る。電気も通っている。最低限のインフラは揃った。
夕暮れ。
港で汐音が漁師のおじいから刺身をもらい、俺が集落の唯一の商店で泡盛と島豆腐を買ってきた。畳の上に並べた粗末な夕食。皿は家に残っていた割れかけの食器。箸は割り箸。グラスの代わりに湯呑み。
汐音が島豆腐を一口食べて、ふにゃりと笑った。
「おいしい……。沖縄のお豆腐、大好き」
「……まあ、悪くねぇな」
刺身は新鮮だった。カジキマグロの赤身が舌の上で溶ける。泡盛を湯呑みに注ぎ、一口含む。きつい酒精が喉を焼き、胃に落ちて温かく広がる。
窓の外が、橙から紫に変わっていく。
そして——月が、顔を出した。
水平線の向こうから、白い光が海を渡ってくる。畳に差し込んだ月光が、汐音の足を照らした瞬間、彼女の顔色が変わった。
「あ、やば——カミヤさん、お風呂! お風呂入れて!」
足首から、透明な鱗がぞわぞわと広がっていく。膝、腿、腰——みるみるうちに人の脚が消え、滑らかな鱗に包まれた尾鰭に変わる。月光を浴びると強制的に人魚の姿に還る。何度見ても、不思議な光景だ。
「ったく、毎晩これかよ」
汐音を抱え上げる。いわゆるお姫様抱っこ。尾鰭がぱたぱたと跳ね、鱗が月光を反射してきらきらと光る。軽い。海の生き物は、見た目より遥かに軽い。
五右衛門風呂に運び、湯を張る。まだ沸かしていないから水だが、汐音は気にしない。尾鰭を水に浸して「ふぅ」と息をつき、すぐにスマホを取り出した。
「Wi-Fi……Wi-Fiどこ……。ああ、まだ繋がってないんだった。明日、業者に連絡しなきゃ」
風呂桶の中で尾鰭をぱしゃぱしゃさせながら、スマホでWi-Fi業者を検索する人魚。
「……なんだこの生活」
天井を仰いだ。
返事はない。ヤモリが一匹、天井の染みの横を横切っていった。
夜が深まる。汐音が風呂の中で寝落ちした気配を確認してから、俺は庭に出た。
崖の縁に腰を下ろす。足を投げ出した先は、五十メートルの虚空。その下で、黒潮が地鳴りのように轟いている。ごおう、ごおう、と、島ごと飲み込むような低い咆哮。月明かりに照らされた海面は銀色に光り、黒い潮の筋が蛇のようにうねっている。
影の中から、玄が現れた。黒い狼の姿で俺の隣に座り、同じように崖下の海を見下ろす。
「——深い、な」
玄がぼそりと呟いた。
「ああ」
「お前の領分じゃねぇ」
「……分かってる」
海は、俺にとって完全に専門外の領域だ。陸を駆ける獣にとって、足のつかない深い水は本能的な恐怖の対象。水中では身体能力が半減し、嗅覚も使えない。影狼の力も大幅に弱まる。俺は海の底では、ただの「少し頑丈な人間」に過ぎない。
それでも。
背後の家から、微かに聞こえてくる。汐音の寝息。風呂の水面が、彼女の呼吸に合わせてかすかに揺れる音。そして——鼻歌の残響。寝落ちする直前まで歌っていた、音程の微妙にずれたメロディの名残。
口元が、勝手に緩んだ。
「——付き合ってやるって言ったのは、俺だからな」
玄が何も言わなかった。黒い尾をゆっくり振っただけだった。
崖下で、波が岩を叩く。しぶきが風に乗って、かすかに頬を濡らした。




