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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第7章:月夜の人魚はハンドメイドアプリで生計を立てる ~人狼カミヤと海底遺跡に眠る蛇神ナーガの呪縛~

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第1話:西の果て、帰れない海

同族の痕跡を追うカミヤと汐音を待っていたのは、荒れる黒潮と危険な深海でした。

水を苦手とするカミヤにとって、かつてない過酷な探索が始まります。


深海に眠る秘密と、少しずつ変わっていく二人の関係を、ぜひお楽しみください。


 フェリーの甲板に、潮の匂いが濃い。


 石垣島を出て三時間。外洋のうねり、重油の混じった風、そして胃の底を削るようなエンジンの重低音。人狼としての鋭すぎる五感は、大型フェリー特有の騒々しさに、とっくに限界を迎えていた。手すりに両肘をついて水平線を睨む。ただ睨む。


 酔っているわけではない。三日間揺られた貨物船でも平気だったし、漁師として網を引くこともできる。だが、この「逃げ場のない鉄の箱に閉じ込められて揺られる」という不自然な感覚は、陸の獣である俺にとって、本能的な不快感でしかなかった。早くこの箱を降りて、硬い土を踏みたい――その一心で、俺は不機嫌に水平線を睨み続けていた。


「カミヤさんカミヤさん、大変! スマホが台湾の電波掴んじゃった! ローミングってどうやって切るの? え、待って、これ国際通話料かかるやつ? やばい!」


 隣で、能天気な声が風に飛ぶ。


 振り返ると、汐音が甲板の上でスマホを高く掲げたり低く構えたりと忙しない。潮風に吹かれた青みがかった黒髪が、お団子から何本もほつれて頬に張り付いている。海色の瞳が画面に釘づけで、足元のデッキが大きく傾いても平然としている。こいつは揺れに強い。当たり前だ。海の生き物なんだから。


「……こっちに聞くな。数日前に教えてもらったばかりだろうが」


「あ、そっか。えーと、設定、設定……あ、これかな?」


 汐音が指先を忙しく動かし、自力で画面を切り替えていく。俺は自分のポケットに入っている、彼女から持たされた「板切れ」の重みを感じた。いまだに電源を入れるのすら、少しだけ躊躇う代物だ。


 やっと設定を直したらしい汐音の画面には、ハンドメイドアプリの通知が山ほど溜まっていた。新着レビュー、購入通知、フォロワーからのメッセージ。この人魚は、命懸けの逃避行の直後ですら商売の手を緩めない。


「ありがとー! あ、見て見て。石垣島で最後に出品した夜光貝のブローチ、もう売れてる。星五つ! "まるで本物の海を閉じ込めたみたい"だって。嬉しいなぁ」


「……お前な、」


 言いかけて、やめた。

 こいつのこの逞しさが、今の俺たちの旅費を支えている。文句を言える立場じゃない。俺はスーパーカブのガソリン代すら、半分は汐音の売上に頼っている。三百年生きてきた化け物が、二十歳そこそこに見える人魚のネットショップに食わせてもらっている。笑えない冗談だ。


 船が大きく揺れ、遠くで子どもの悲鳴と笑い声が混じる。


 俺は再び水平線に目を戻した。


 南西の空の下、断崖に縁取られた島影がゆっくりと大きくなっていく。与那国島。日本最西端。この国の、端っこの端っこ。石垣の戦いの後、汐音が遺跡の石壁から読み取った手がかり——「西の果ての海底に、帰還の道標あり」。それを追って、俺たちはここまで来た。


 汐音の仲間。同族の人魚。生きているのか、もうこの海にはいないのか。それすら分からないまま、ただ一枚の石壁の文字を信じて。


 ——まあ、いつものことだ。


 あてのない旅は慣れている。三百年、ずっとそうやって生きてきた。ただ今は、隣に道連れがいるだけの話で。


「カミヤさん、島が見えてきたよ! うわぁ、崖すごい……。あの岩、顔に見えない?」


「見えねぇよ」


「えー、目と鼻があるじゃん。ほら、あのへこみが口で——」


 フェリーの汽笛が鳴った。低く、長く、腹の底に響く音。カモメが甲板の上を旋回し、甲高い声で鳴き交わしている。


 久部良港が近づいてくる。小さな港だった。漁船が数隻、テトラポッドの内側に係留されているだけ。桟橋にはおじいが一人、帽子を目深に被って釣り糸を垂らしている。それ以外に人影はない。


 静かだ。石垣島の離島ターミナルの喧騒が嘘みたいに、波の音とエンジンの振動だけが世界を満たしている。


 フェリーが接岸し、タラップが降りる。俺は船倉からスーパーカブを押して降ろした。錆びたフレーム、凹んだタンク、何度も巻き直したグリップテープ。こいつも俺と同じで、どこもかしこもガタが来ているが、まだ走る。まだ動く。それで十分だ。


 汐音が俺の後ろに降り立ち、港の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。


「……この海、深いよ。すごく深い」


 ふざけた口調が消えていた。海色の瞳が、港の外に広がる紺碧の海を見つめている。水面の下に、何かを感じ取っている目。人魚の感覚——俺には分からない海の記憶を、読み取っている。


「黒潮の本流が、島のすぐそばを通ってる。水温が違う。匂いも。それに——」


「それに?」


「古い。この海は、すごく古い。何千年も前から、何かがずっと沈んでる」


 風が吹いた。南風。湿った、重たい風。テトラポッドに砕ける波が白い飛沫を上げ、コンクリートの桟橋を濡らす。


 俺はカブに跨がり、エンジンをかけた。パタパタパタ、と間の抜けた音が港に響く。


「乗れ。まず寝る場所を探す」


「はーい」


 汐音が後ろに飛び乗り、俺の腰に手を回す。冷たい指先。海の生き物特有の、人間よりも低い体温。だが最近は、この冷たさが当たり前になった。


 カブが走り出す。港から集落への一本道。左手に海、右手に断崖。アスファルトのひび割れから雑草が伸び、道端に与那国馬が二頭、草を食んでいる。俺たちを見ても動じない。この島では、カブのエンジン音より馬の咀嚼音のほうが日常なのかもしれない。


 久部良の集落は、想像以上に小さかった。


 商店が一軒、食堂が一軒、簡易郵便局が一軒。それだけだ。信号機もコンビニもない。自販機が一台、錆びた軒先でぶうんと唸っているのが、かろうじて「現代」を主張している。


 集落の外れで、道端に腰掛けていたおじいに声をかけた。日焼けした顔に深い皺、麦わら帽子、手には釣り竿のパーツ。


「すみません、この辺で貸し家とか、空いてる部屋って——」


「あんたら、内地から?」


「まあ、そんなところです」


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