第10話:与那国への旅立ち、小指の約束
久高嶺臣は——短刀を振りかざしたまま、動かなくなった。
違う。動けなくなったのだ。
目の前で、人間の体が——崩壊していく。
銀縁眼鏡の奥の瞳が濁った。白麻のスーツの下で、皮膚に皺が刻まれていく。みるみるうちに。髪が白くなり、抜け落ちる。背が縮む。手の甲に老斑が浮かび上がる。指が細くなり、関節が膨らむ。
人魚の生き血の効力が——切れたのだ。
三百年分の時が、一気に肉体に刻まれていく。
「馬鹿な……まだ、足りない……もっと、血を……」
崩れ落ちる久高の手から、短刀が落ちた。かちん、と。岩に金属が当たる、硬く乾いた音。
膝が折れた。腰が曲がった。顔の肉が削げ落ち、頬骨と顎の骨が浮き出る。歯が抜けた。眼窩が窪んだ。
皮膚が紙みたいに薄くなって、その下の血管が透けて見えた。そして——血管すらも干からびていく。
久高嶺臣は、三百年の時に追いつかれ、崖の上で——塵のように崩れていった。
風が吹いた。
白麻のスーツの中に、もう何も残っていなかった。灰のような、砂のような、乾いた粒子が風に散っていく。銀縁眼鏡だけが草の上に転がっている。
他人の命を啜ってまで生に執着した男の——末路。
怒りはもうなかった。あるのは、静かなやるせなさだけだ。
残された私兵たちは、主を失い、散り散りに去っていった。スーツを脱ぎ捨て、武器を置き、島の闇に消えていく。
赤嶺だけが残っていた。
関節を極められた体勢から解放され、崖の上に座り込んでいる。久高の残骸——いや、もう骨すら風化しかけた跡を、無表情に見つめていた。
俺は赤嶺に背を向けた。
「……行けよ。お前はまだ、やり直せる」
赤嶺が何か言いかけた。口を開き——閉じた。結局、何も言わなかった。
立ち上がる気配。背を向けたまま歩き去る足音。乾いた草を踏む音が遠ざかり——消えた。
崖の上に、俺一人が残った。
五匹の影狼が、傷だらけの主人の足元に寄り添っている。牙が大きな体を丸めて横たわっている。戦闘で消耗したのだろう。銀が辺りを見回して警戒を解かない。影はいつものように沈黙している。玄が俺の足首に鼻先を擦りつけた。
月が、傷口を舐め続けている。甘い鳴き声。銀弾の破片が、少しずつ——本当に少しずつ、体の外に押し出されていく。じくじくと。痛い。でも、生きている。
月が高い。
雲の切れ間から降り注ぐ月光が、海を銀色に染めている。
崖を降りた。一段ずつ。体が軋む。銀の傷が疼く。でも——降りなければならない。
波打ち際に立った。
スマホは——汐音に預けた。連絡の手段がない。
だから、ただ待つ。
波が足元を洗う。九月の海。沖縄の夜の海はまだ温い。足首を浸すと、砂が波に引かれてさらさらと流れていく。
星が見える。雲の切れ間に。
汐音の言葉を思い出した。星の位置は、少しずつ変わる。
空を見上げた。どの星がどれだけずれているのか、俺にはわからない。でも——今夜、この星空を見ていることは覚えておこうと思った。
どれくらい経っただろう。
一時間か。二時間か。
波の音に混じって——何かが聞こえた。
ざぱん。
水が割れる音。波とは違うリズム。生き物が水を蹴る音。
沖合の暗い海面に——光が見えた。
銀色の光。月光を受けて、群青から銀へと色が揺らぐ鱗。波間を縫うように、こちらに向かってくる。
汐音が——戻ってきた。
浅瀬まで泳いできた人魚の姿の汐音が、波打ち際で体を起こし、俺を見上げた。
月光の下で、鱗が息を呑むほど美しく光っている。群青と銀のグラデーション。尾鰭が水面をゆるやかに打ち、飛沫がきらきらと散る。
だが、俺の目が吸い寄せられたのは鱗じゃなかった。
海色の瞳。
赤く泣き腫らした、海色の瞳。
「——振り返るなって言っただろ」
声が掠れた。自分でも馬鹿みたいだと思った。
汐音が胸に抱えていた防水ケースを差し出した。中にスマホが入っている。カミヤの番号——いや、唯一の登録先・汐音の番号が画面に表示されている。
「……連絡、待ってました。でも全然来ないから……心配で……」
「スマホお前に渡しただろ。どうやって連絡すんだよ」
「あっ」
沈黙。
波の音。
ざざぁ……ざざぁ……。
汐音が——ぷっ、と吹き出した。
俺も、口の端が上がった。
ばかみたいだ。
こんなに血みどろで、こんなに満身創痍で、スマホの矛盾にこんなタイミングで気づく。
でも——生きてる。二人とも。
俺は波打ち際に膝をついた。汐音と目線を合わせる。月光が二人を照らしている。人狼と人魚。陸と海の境界線。波が二人の間を行ったり来たりしている。
「——俺は、お前みたいに三百年想い続けるとか、そういう器用なことはできねぇ」
汐音が息を飲んだ。海色の瞳が揺れている。
「でも」
言葉を探した。適切な言葉なんて三百年の語彙の中にもない。だから——一番正直な言葉を選んだ。
「お前が泡になって消えるのは——嫌だ。見たくねぇ。絶対に」
不器用だ。告白にすらなっていない。好きだとも愛してるとも言えていない。
でも——カミヤにとっては、これが精一杯だった。「お前を失いたくない」。それが、三百年の孤独を生きてきた男の、最大限の言葉。
汐音の海色の瞳から、また涙が零れた。
でも今度は——笑っている。ぐしゃぐしゃの泣き顔で、満面の笑みで。
「……それ、プロポーズですか?」
「違ぇよ」
「プロポーズです。三百年待ったので、そういうことにします」
「勝手にすんな」
「勝手にします」
波が二人の間を洗った。月が少し傾く。雲が流れてきて、月光を遮った。
汐音の鱗が消え始める。光の粒子になって溶けていく。きらきらと。尾鰭の輪郭がぼやけ、人間の脚が戻ってくる。白い素足。足首。膝。
人間の姿に戻った汐音が、浅瀬で立ち上がる。
俺は黙って上着を脱ぎ、汐音の肩にかけた。コンビニの夜に学習した。人魚から戻ると服が乱れる。
「ありがとう、ございます」
声が、まだ少し震えていた。
二人で波打ち際を歩いた。並んで。靴を濡らしながら。月が雲に隠れたり出たりするたびに、海面の色が変わる。
影狼たちが、少し離れたところをついてくる。牙が体を引きずるようにしながらも歩いている。銀が辺りを見回している。影は影に溶け込んで姿が見えない。月が汐音の影にそっと擦り寄って甘えている。
玄が——ぽつりと呟いた。影の中の声。俺にしか聞こえない。
『——よかったな』
うるせぇ。
——翌日。
汐音の家。
朝日が窓から差し込む。潮騒。波の音。いつもの朝。
台所からゴーヤチャンプルーの匂いがする。汐音が鼻歌を歌いながら料理をしている。流行りのJ-POPの、微妙に音程が外れた鼻歌。
俺は縁側で原付の整備をしている。チェーンに油を差す。ガソリンの残量を確認する。タイヤの空気圧を指で押して確かめる。
昨夜のことが嘘みたいに、穏やかな朝。
「カミヤさーん、ご飯できましたよー」
向かい合って、朝飯を食べる。
ゴーヤチャンプルー。アーサの味噌汁。白米。漬物。
うまい。いつも通り、うまい。
味噌汁を飲みながら、ぽつりと言った。
「——与那国島」
「え?」
「与那国島に、海底遺跡がある」
「知ってます。何回か泳いで見に行ったことあります」
「……お前、泳いで行ったのかよ」
「人魚ですから」
「……ああ、そうだったな」
味噌汁を飲み干した。椀を置く。ことん、と小さな音。
「あの遺跡のあたりなら——お前以外の人魚がいるかもしれねぇ。深い海は、人間の目が届かない。隠れて生きてる奴がいてもおかしくねぇ」
汐音の箸が止まった。
海色の瞳が、まっすぐに俺を見ている。
「……仲間、探しに行くんですか?」
「お前の仲間だ。俺は関係ねぇ」
「カミヤさんの仲間でもあります」
「俺は犬だぞ」
「犬じゃないです、狼です。かっこいいほうです」
「……どっちでもいい」
汐音が笑った。朝日が海色の瞳を照らして、万華鏡みたいに光を散らす。
「行きましょう。与那国島」
頷いた。
午後。石垣島のフェリーターミナル。
与那国島行きのフェリーに、原付を積み込む。チェーンで固定する。がちゃん、がちゃん。この音にも、もう慣れた。
甲板に出た。
汐音がフェリーの手すりに凭れている。風がお団子ヘアを解きかけて、青みがかった黒髪が潮風になびいている。手にはコンビニで買ったプリンと、二人分のさんぴん茶。
俺が隣に立った。
出港の汽笛が鳴った。ぼおぉぉ、と。低く、長い音が海面に響いて溶けていく。
フェリーが岸を離れる。
石垣島が——遠ざかっていく。港。市街地。赤瓦の屋根。ガジュマルの緑。海辺の古い家。波の音。
三百年暮らした島を離れる汐音は——不思議と、寂しそうではなかった。
「初めてです」
「何が」
「誰かと一緒に、どこかへ行くの。三百年で、初めて」
俺は答えなかった。
だが——ポケットの中で、指が触れた。海音の絵。淡いピンクの巻貝。そして、汐音がくれたスマホ。
過去の旅の記憶と、今この瞬間が、胸の中で重なる。
孤独は——まだ消えない。きっと完全には消えない。三百年染みついたものは、そう簡単に洗い流せない。
でも。
隣に、同じ速さで時を刻む誰かがいる。
それだけで——世界の音が、少し優しくなった気がした。
エンジンの低い振動。波が船体を叩く音。風が甲板を渡る音。カモメの鳴き声。
汐音がプリンの蓋を開けながら、何気なく言った。
「カミヤさん」
「あ?」
「……ありがとう。三百年前、助けてくれて」
前を向いたまま、ぶっきらぼうに答えた。
「……覚えてねぇよ、そんな昔のこと」
嘘だ。
全部思い出した。海色の瞳。波打ち際の飛沫。名乗りもせずに背を向けた、十五歳の自分。
汐音は——何も言わなかった。
ただ、笑った。
この人が嘘をつく時の、声の微かな震えを。三百年待ち続けた耳は、聞き逃さない。
でも——それでいい。
言葉にしなくても、分かっている。
フェリーが沖へ向かっていく。
水平線の向こうに、与那国島がある。海底遺跡がある。もしかしたら、仲間がいるかもしれない。
いなくても、いい。
二人と五匹で、また次の場所へ行く。それだけのことだ。
甲板の影の中で、玄が小さく欠伸をした。銀が海を眺めている。牙が丸くなって寝ている。影はどこかに消えた——たぶん、もう偵察を始めている。月が、汐音の足元の影にそっと潜り込んで甘えている。
風が鳴っている。
波の音。エンジン音。汐音のかすかな鼻歌。何の曲かはわからない。たぶん流行りのJ-POP。相変わらず微妙に音程が外れている。
汐音がそっと——カミヤの小指に、自分の小指を絡めた。
カミヤは——振り払わなかった。
どこに向かっているのか。何が待っているのか。わからない。
でも。
悪くない。
海が、どこまでも青かった。
(了)
ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。
三百年という長い孤独を抱えた二人が、ようやく辿り着いた答えが、この物語です。
少しでも心に残るものがあれば、とても嬉しく思います。
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