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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第6章:しおさいブルー——月光の鱗と、錆びた風の行方

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第10話:与那国への旅立ち、小指の約束

 久高嶺臣は——短刀を振りかざしたまま、動かなくなった。


 違う。動けなくなったのだ。


 目の前で、人間の体が——崩壊していく。


 銀縁眼鏡の奥の瞳が濁った。白麻のスーツの下で、皮膚に皺が刻まれていく。みるみるうちに。髪が白くなり、抜け落ちる。背が縮む。手の甲に老斑が浮かび上がる。指が細くなり、関節が膨らむ。


 人魚の生き血の効力が——切れたのだ。


 三百年分の時が、一気に肉体に刻まれていく。


「馬鹿な……まだ、足りない……もっと、血を……」


 崩れ落ちる久高の手から、短刀が落ちた。かちん、と。岩に金属が当たる、硬く乾いた音。


 膝が折れた。腰が曲がった。顔の肉が削げ落ち、頬骨と顎の骨が浮き出る。歯が抜けた。眼窩が窪んだ。


 皮膚が紙みたいに薄くなって、その下の血管が透けて見えた。そして——血管すらも干からびていく。


 久高嶺臣は、三百年の時に追いつかれ、崖の上で——塵のように崩れていった。


 風が吹いた。


 白麻のスーツの中に、もう何も残っていなかった。灰のような、砂のような、乾いた粒子が風に散っていく。銀縁眼鏡だけが草の上に転がっている。


 他人の命を啜ってまで生に執着した男の——末路。


 怒りはもうなかった。あるのは、静かなやるせなさだけだ。


 残された私兵たちは、主を失い、散り散りに去っていった。スーツを脱ぎ捨て、武器を置き、島の闇に消えていく。


 赤嶺だけが残っていた。


 関節を極められた体勢から解放され、崖の上に座り込んでいる。久高の残骸——いや、もう骨すら風化しかけた跡を、無表情に見つめていた。


 俺は赤嶺に背を向けた。


「……行けよ。お前はまだ、やり直せる」


 赤嶺が何か言いかけた。口を開き——閉じた。結局、何も言わなかった。


 立ち上がる気配。背を向けたまま歩き去る足音。乾いた草を踏む音が遠ざかり——消えた。


 崖の上に、俺一人が残った。


 五匹の影狼が、傷だらけの主人の足元に寄り添っている。キバが大きな体を丸めて横たわっている。戦闘で消耗したのだろう。シロガネが辺りを見回して警戒を解かない。カゲはいつものように沈黙している。クロが俺の足首に鼻先を擦りつけた。


 ツキが、傷口を舐め続けている。甘い鳴き声。銀弾の破片が、少しずつ——本当に少しずつ、体の外に押し出されていく。じくじくと。痛い。でも、生きている。


 月が高い。


 雲の切れ間から降り注ぐ月光が、海を銀色に染めている。


 崖を降りた。一段ずつ。体が軋む。銀の傷が疼く。でも——降りなければならない。


 波打ち際に立った。


 スマホは——汐音に預けた。連絡の手段がない。


 だから、ただ待つ。


 波が足元を洗う。九月の海。沖縄の夜の海はまだ温い。足首を浸すと、砂が波に引かれてさらさらと流れていく。


 星が見える。雲の切れ間に。


 汐音の言葉を思い出した。星の位置は、少しずつ変わる。


 空を見上げた。どの星がどれだけずれているのか、俺にはわからない。でも——今夜、この星空を見ていることは覚えておこうと思った。


 どれくらい経っただろう。


 一時間か。二時間か。


 波の音に混じって——何かが聞こえた。


 ざぱん。


 水が割れる音。波とは違うリズム。生き物が水を蹴る音。


 沖合の暗い海面に——光が見えた。


 銀色の光。月光を受けて、群青から銀へと色が揺らぐ鱗。波間を縫うように、こちらに向かってくる。


 汐音が——戻ってきた。


 浅瀬まで泳いできた人魚の姿の汐音が、波打ち際で体を起こし、俺を見上げた。


 月光の下で、鱗が息を呑むほど美しく光っている。群青と銀のグラデーション。尾鰭が水面をゆるやかに打ち、飛沫がきらきらと散る。


 だが、俺の目が吸い寄せられたのは鱗じゃなかった。


 海色の瞳。


 赤く泣き腫らした、海色の瞳。


「——振り返るなって言っただろ」


 声が掠れた。自分でも馬鹿みたいだと思った。


 汐音が胸に抱えていた防水ケースを差し出した。中にスマホが入っている。カミヤの番号——いや、唯一の登録先・汐音の番号が画面に表示されている。


「……連絡、待ってました。でも全然来ないから……心配で……」


「スマホお前に渡しただろ。どうやって連絡すんだよ」


「あっ」


 沈黙。


 波の音。


 ざざぁ……ざざぁ……。


 汐音が——ぷっ、と吹き出した。


 俺も、口の端が上がった。


 ばかみたいだ。


 こんなに血みどろで、こんなに満身創痍で、スマホの矛盾にこんなタイミングで気づく。


 でも——生きてる。二人とも。


 俺は波打ち際に膝をついた。汐音と目線を合わせる。月光が二人を照らしている。人狼と人魚。陸と海の境界線。波が二人の間を行ったり来たりしている。


「——俺は、お前みたいに三百年想い続けるとか、そういう器用なことはできねぇ」


 汐音が息を飲んだ。海色の瞳が揺れている。


「でも」


 言葉を探した。適切な言葉なんて三百年の語彙の中にもない。だから——一番正直な言葉を選んだ。


「お前が泡になって消えるのは——嫌だ。見たくねぇ。絶対に」


 不器用だ。告白にすらなっていない。好きだとも愛してるとも言えていない。


 でも——カミヤにとっては、これが精一杯だった。「お前を失いたくない」。それが、三百年の孤独を生きてきた男の、最大限の言葉。


 汐音の海色の瞳から、また涙が零れた。


 でも今度は——笑っている。ぐしゃぐしゃの泣き顔で、満面の笑みで。


「……それ、プロポーズですか?」


「違ぇよ」


「プロポーズです。三百年待ったので、そういうことにします」


「勝手にすんな」


「勝手にします」


 波が二人の間を洗った。月が少し傾く。雲が流れてきて、月光を遮った。


 汐音の鱗が消え始める。光の粒子になって溶けていく。きらきらと。尾鰭の輪郭がぼやけ、人間の脚が戻ってくる。白い素足。足首。膝。


 人間の姿に戻った汐音が、浅瀬で立ち上がる。


 俺は黙って上着を脱ぎ、汐音の肩にかけた。コンビニの夜に学習した。人魚から戻ると服が乱れる。


「ありがとう、ございます」


 声が、まだ少し震えていた。


 二人で波打ち際を歩いた。並んで。靴を濡らしながら。月が雲に隠れたり出たりするたびに、海面の色が変わる。


 影狼たちが、少し離れたところをついてくる。キバが体を引きずるようにしながらも歩いている。シロガネが辺りを見回している。カゲは影に溶け込んで姿が見えない。ツキが汐音の影にそっと擦り寄って甘えている。


 クロが——ぽつりと呟いた。影の中の声。俺にしか聞こえない。


『——よかったな』


 うるせぇ。


 ——翌日。


 汐音の家。


 朝日が窓から差し込む。潮騒。波の音。いつもの朝。


 台所からゴーヤチャンプルーの匂いがする。汐音が鼻歌を歌いながら料理をしている。流行りのJ-POPの、微妙に音程が外れた鼻歌。


 俺は縁側で原付の整備をしている。チェーンに油を差す。ガソリンの残量を確認する。タイヤの空気圧を指で押して確かめる。


 昨夜のことが嘘みたいに、穏やかな朝。


「カミヤさーん、ご飯できましたよー」


 向かい合って、朝飯を食べる。


 ゴーヤチャンプルー。アーサの味噌汁。白米。漬物。


 うまい。いつも通り、うまい。


 味噌汁を飲みながら、ぽつりと言った。


「——与那国島」


「え?」


「与那国島に、海底遺跡がある」


「知ってます。何回か泳いで見に行ったことあります」


「……お前、泳いで行ったのかよ」


「人魚ですから」


「……ああ、そうだったな」


 味噌汁を飲み干した。椀を置く。ことん、と小さな音。


「あの遺跡のあたりなら——お前以外の人魚がいるかもしれねぇ。深い海は、人間の目が届かない。隠れて生きてる奴がいてもおかしくねぇ」


 汐音の箸が止まった。


 海色の瞳が、まっすぐに俺を見ている。


「……仲間、探しに行くんですか?」


「お前の仲間だ。俺は関係ねぇ」


「カミヤさんの仲間でもあります」


「俺は犬だぞ」


「犬じゃないです、狼です。かっこいいほうです」


「……どっちでもいい」


 汐音が笑った。朝日が海色の瞳を照らして、万華鏡みたいに光を散らす。


「行きましょう。与那国島」


 頷いた。


 午後。石垣島のフェリーターミナル。


 与那国島行きのフェリーに、原付を積み込む。チェーンで固定する。がちゃん、がちゃん。この音にも、もう慣れた。


 甲板に出た。


 汐音がフェリーの手すりに凭れている。風がお団子ヘアを解きかけて、青みがかった黒髪が潮風になびいている。手にはコンビニで買ったプリンと、二人分のさんぴん茶。


 俺が隣に立った。


 出港の汽笛が鳴った。ぼおぉぉ、と。低く、長い音が海面に響いて溶けていく。


 フェリーが岸を離れる。


 石垣島が——遠ざかっていく。港。市街地。赤瓦の屋根。ガジュマルの緑。海辺の古い家。波の音。


 三百年暮らした島を離れる汐音は——不思議と、寂しそうではなかった。


「初めてです」


「何が」


「誰かと一緒に、どこかへ行くの。三百年で、初めて」


 俺は答えなかった。


 だが——ポケットの中で、指が触れた。海音の絵。淡いピンクの巻貝。そして、汐音がくれたスマホ。


 過去の旅の記憶と、今この瞬間が、胸の中で重なる。


 孤独は——まだ消えない。きっと完全には消えない。三百年染みついたものは、そう簡単に洗い流せない。


 でも。


 隣に、同じ速さで時を刻む誰かがいる。


 それだけで——世界の音が、少し優しくなった気がした。


 エンジンの低い振動。波が船体を叩く音。風が甲板を渡る音。カモメの鳴き声。


 汐音がプリンの蓋を開けながら、何気なく言った。


「カミヤさん」


「あ?」


「……ありがとう。三百年前、助けてくれて」


 前を向いたまま、ぶっきらぼうに答えた。


「……覚えてねぇよ、そんな昔のこと」


 嘘だ。


 全部思い出した。海色の瞳。波打ち際の飛沫。名乗りもせずに背を向けた、十五歳の自分。


 汐音は——何も言わなかった。


 ただ、笑った。


 この人が嘘をつく時の、声の微かな震えを。三百年待ち続けた耳は、聞き逃さない。


 でも——それでいい。


 言葉にしなくても、分かっている。


 フェリーが沖へ向かっていく。


 水平線の向こうに、与那国島がある。海底遺跡がある。もしかしたら、仲間がいるかもしれない。


 いなくても、いい。


 二人と五匹で、また次の場所へ行く。それだけのことだ。


 甲板の影の中で、クロが小さく欠伸をした。シロガネが海を眺めている。キバが丸くなって寝ている。カゲはどこかに消えた——たぶん、もう偵察を始めている。ツキが、汐音の足元の影にそっと潜り込んで甘えている。


 風が鳴っている。


 波の音。エンジン音。汐音のかすかな鼻歌。何の曲かはわからない。たぶん流行りのJ-POP。相変わらず微妙に音程が外れている。


 汐音がそっと——カミヤの小指に、自分の小指を絡めた。


 カミヤは——振り払わなかった。


 どこに向かっているのか。何が待っているのか。わからない。


 でも。


 悪くない。


 海が、どこまでも青かった。




(了)



ここまで読んでいただき、本当にありがとうございました。


三百年という長い孤独を抱えた二人が、ようやく辿り着いた答えが、この物語です。

少しでも心に残るものがあれば、とても嬉しく思います。


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