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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第6章:しおさいブルー——月光の鱗と、錆びた風の行方

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第9話:泡沫の人魚、沖へ泳ぐ夜

 島の北端。人の来ない断崖の海岸。


 岩肌がむき出しの崖の下に、波が打ち寄せている。ざぱん、ざぱん、と。激しい音。南の穏やかな浜辺とは違う、荒い海。


 ここなら——海に直接降りられる。崖を降りれば、水際まで十メートル。


 月の出まであと二時間。月が出れば汐音は人魚に戻る。人魚の姿なら海に逃げられる。深い海に潜ってしまえば、人間の手は届かない。


 だが——俺の体が限界だった。


 銀の弾丸の破片が、まだ体の中にある。ツキがずっと治癒を続けているが、銀の侵食が深い。腕を上げると脇腹が裂けそうに痛む。立っているだけで膝が震える。


 カゲが報告を寄越した。


 久高の部隊が来る。近い。ドローンが三機。私兵が十数名。赤嶺が——新たな銀弾を装填して合流している。肩を外されたはずだが、もう動いている。応急処置をしたのだろう。プロだ。


 時間がない。


「汐音」


 名前を呼んだ。


「ここで待ってろ。月が出たら、海に入れ。そのまま沖に出て、絶対に振り返るな」


 汐音の顔が——凍った。


「嫌です」


「聞けよ」


「嫌です!」


 声が割れた。三百年分の感情が、一気に溢れ出したような声だった。


「一人で——三百年も待ったのに、やっと会えたのに——っ!」


 海色の瞳から涙が零れた。ぼろぼろと。止められない涙が、白い頬を伝って顎から落ちる。


 俺はその顔を見て——笑った。


 不器用に。ぎこちなく。口の端を上げるだけの、下手くそな笑い方。三百年で、こんなふうに笑ったのはたぶん——初めてだった。


「死なねぇよ。俺は面倒くせぇくらいしぶといんだ」


 ポケットからスマホを取り出した。汐音がくれた、あのスマホ。


「これ持ってろ」


 汐音の手にスマホを握らせた。


「……終わったら、連絡する」


 一拍、置いて。


「お前が俺に持たせた意味、ちゃんとわかってる」


 汐音の手が震えた。スマホを握りしめる指が白くなる。


「……知ってたんですか」


「最初からな。緊急用だの仕事用の予備だの、嘘が下手すぎるんだよ」


 汐音が——泣きながら、笑った。


 ぐしゃぐしゃの顔で。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら。でも——笑った。


「……ばか」


「うるせぇ」


 背を向けた。


 崖を登る。銀の傷が軋む。一歩ごとに脇腹が裂けるような痛みが走る。


 五匹の影狼が、主人の後に続く。


 崖の上に出た。


 夜風が強い。草が倒れるほどの風。空に雲が流れている。月はまだ出ていない。


 前方から——足音。


 いくつもの。


 懐中電灯の光が、闇の中で揺れている。ドローンのプロペラ音が頭上で唸っている。


 久高の部隊。


 先頭に——白麻のスーツの男が立っていた。崖の上の草原に、場違いな佇まい。銀縁眼鏡が月の出る前の薄明かりを反射している。


 久高嶺臣。


 その目は——やはり笑っていなかった。


「ようやく追い詰めたか。——人魚はどこだ」


「知らねぇな」


「嘘をつくな。下にいるだろう。崖の下に」


 久高が顎で合図すると、私兵たちが散開し始めた。崖の縁を取り囲もうとしている。


「通さねぇ」


 立ちはだかった。崖の縁と久高の間に。体が限界でも、壁にはなれる。


 キバが先陣を切った。私兵の前衛に突っ込み、三人をまとめて吹き飛ばす。クロが戦術を組み立てる。後方から回り込もうとする兵を、シロガネが先に見つけて進路を塞ぐ。カゲが闇に溶け込み、ドローンの制御装置を一つずつ潰していく。


 ドローンが一機、翼をもがれた虫みたいにきりきりと回転しながら落ちた。地面に激突する破砕音。二機目も。三機目は——カゲがプロペラに絡みつき、糸が巻きつくように墜落させた。


 空からの目が消えた。


 だが地上には、まだ十人以上の私兵がいる。


 そして——赤嶺。


 利き腕を吊りながらも、銀の弾丸を装填した拳銃を左手で構えている。右手が使えないハンデを、左手の射撃で補おうとしている。


 俺と赤嶺の目が合った。


「……また会ったな」


「今度は仕留める」


 赤嶺が撃った。


 銀弾。


 避けた——が、腕を掠めた。焼ける。皮膚が灼けて、再生が追いつかない。


 キバが赤嶺に飛びかかる。赤嶺がナイフで応じる。影狼と元自衛官の一対一。


 俺は残りの私兵を片づけた。殴り、投げ、関節を決め、動けなくする。殺さない。一人も。


 それでも体が悲鳴を上げている。銀の侵食が止まらない。視界の端が暗くなっていく。


 ツキが俺の影に張りつき、治癒を送り続けている。小さな、甘い鳴き声。がんばれ、と言っているみたいな。


 赤嶺がキバを振り切り、俺に向かってきた。左手の銃を構えている。


 カゲが赤嶺の視界を奪った。影が目の前に広がり、一瞬の闇を作る。


 その隙にキバが銃を弾き飛ばした。


 赤嶺との肉弾戦。


 片腕しか使えない赤嶺。だが——それでも強い。左の拳が的確に急所を狙ってくる。


 俺は赤嶺を組み伏せた。関節を極め、動けなくする。


「俺はお前を殺さねぇ。だからお前も——あの女に手を出すな」


 赤嶺が歯を食いしばって俺を見上げている。


「……何のために、そこまでする」


「面倒くせぇからだよ」


 琥珀の瞳が赤嶺を見つめている。嘘じゃない。でもそれだけでもない。


 赤嶺は——目を閉じた。


「……もういい」


 力が抜けた。降りた。


 残るは久高嶺臣。


 白麻のスーツの男が、崖の上に立っている。部下は全員無力化された。ドローンも落ちた。赤嶺も降りた。


 一人きりの老人。


 久高が懐から短刀を取り出した。古い刃。三百年前の匂いがする。錆びた鉄と、微かに——塩の匂い。人魚を捕える際に使われた刃物。


「人魚の血を——もう一度」


 久高がカミヤに向かって歩いてくる。


 カミヤは動かなかった。立っている。壁になっている。銀弾に蝕まれた体で。


 久高の短刀がカミヤの腕を切った。浅い傷。銀の刃ではないから、すぐに塞がる。


 久高の顔が歪んだ。


「化け物め……化け物め……!」


 声に、初めて焦りが混じった。


 そして——月が、出た。


 雲の切れ間から、白い光が海を照らした。


 ---


 断崖の下。


 月光が海面に降り注いだ。白く、冷たく、絶対的な光。


 汐音の体に——変化が始まった。


 脚が融合する。骨が溶け、筋肉が変質し、皮膚の下で鱗が形成されていく。白い脚が水色に染まり、足首の輪郭が消え、つま先が尾鰭の先端へと伸びていく。


 人魚の姿。


 月光の下で、汐音の鱗が色を変えた。淡い水色から——群青へ。群青から銀へ。波打つように色が揺らぎ、光を散らす。


 美しかった。息を呑むほどに。


 だが汐音はそれどころではなかった。スマホを胸に抱きしめている。カミヤが「終わったら連絡する」と言った。信じている。信じなければ、この海に入れない。


 崖の上から、戦闘の音が聞こえる。金属がぶつかる音。人が倒れる音。影狼の咆哮。


 そして——カミヤの声。低く、強い。


 遠くて聞き取れない。でも——生きている。まだ、声が聞こえる。


 波打ち際まで這った。尾鰭でアスファルトを……ではなく、岩場を這う。ごつごつした岩が鱗に当たって痛い。でも構わない。


 海水が尾鰭に触れた。


 冷たい。でも——安心する冷たさ。海は、人魚にとって故郷だ。


 振り返った。崖の上は見えない。でも——影狼の遠吠えが聞こえた。クロの声だ。低くて、長い、遠吠え。


 その声に混じって——。


「——行け」


 聞こえるはずがない。崖の上と下。風と波の音に掻き消されるはずの声。


 でも——聞こえた。


 三百年、この人の声を待ち続けた耳が、聞き逃すはずがなかった。


 汐音は海に入った。


 尾鰭が水を蹴った。ざぱん、と水面が砕ける。月光を受けた鱗が、群青から銀へと波打つ。


 泳いだ。沖へ。沖へ。


 振り返らなかった。


 約束したから。


 でも——涙は、海水に溶けて見えなかった。




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