第9話:泡沫の人魚、沖へ泳ぐ夜
島の北端。人の来ない断崖の海岸。
岩肌がむき出しの崖の下に、波が打ち寄せている。ざぱん、ざぱん、と。激しい音。南の穏やかな浜辺とは違う、荒い海。
ここなら——海に直接降りられる。崖を降りれば、水際まで十メートル。
月の出まであと二時間。月が出れば汐音は人魚に戻る。人魚の姿なら海に逃げられる。深い海に潜ってしまえば、人間の手は届かない。
だが——俺の体が限界だった。
銀の弾丸の破片が、まだ体の中にある。月がずっと治癒を続けているが、銀の侵食が深い。腕を上げると脇腹が裂けそうに痛む。立っているだけで膝が震える。
影が報告を寄越した。
久高の部隊が来る。近い。ドローンが三機。私兵が十数名。赤嶺が——新たな銀弾を装填して合流している。肩を外されたはずだが、もう動いている。応急処置をしたのだろう。プロだ。
時間がない。
「汐音」
名前を呼んだ。
「ここで待ってろ。月が出たら、海に入れ。そのまま沖に出て、絶対に振り返るな」
汐音の顔が——凍った。
「嫌です」
「聞けよ」
「嫌です!」
声が割れた。三百年分の感情が、一気に溢れ出したような声だった。
「一人で——三百年も待ったのに、やっと会えたのに——っ!」
海色の瞳から涙が零れた。ぼろぼろと。止められない涙が、白い頬を伝って顎から落ちる。
俺はその顔を見て——笑った。
不器用に。ぎこちなく。口の端を上げるだけの、下手くそな笑い方。三百年で、こんなふうに笑ったのはたぶん——初めてだった。
「死なねぇよ。俺は面倒くせぇくらいしぶといんだ」
ポケットからスマホを取り出した。汐音がくれた、あのスマホ。
「これ持ってろ」
汐音の手にスマホを握らせた。
「……終わったら、連絡する」
一拍、置いて。
「お前が俺に持たせた意味、ちゃんとわかってる」
汐音の手が震えた。スマホを握りしめる指が白くなる。
「……知ってたんですか」
「最初からな。緊急用だの仕事用の予備だの、嘘が下手すぎるんだよ」
汐音が——泣きながら、笑った。
ぐしゃぐしゃの顔で。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになりながら。でも——笑った。
「……ばか」
「うるせぇ」
背を向けた。
崖を登る。銀の傷が軋む。一歩ごとに脇腹が裂けるような痛みが走る。
五匹の影狼が、主人の後に続く。
崖の上に出た。
夜風が強い。草が倒れるほどの風。空に雲が流れている。月はまだ出ていない。
前方から——足音。
いくつもの。
懐中電灯の光が、闇の中で揺れている。ドローンのプロペラ音が頭上で唸っている。
久高の部隊。
先頭に——白麻のスーツの男が立っていた。崖の上の草原に、場違いな佇まい。銀縁眼鏡が月の出る前の薄明かりを反射している。
久高嶺臣。
その目は——やはり笑っていなかった。
「ようやく追い詰めたか。——人魚はどこだ」
「知らねぇな」
「嘘をつくな。下にいるだろう。崖の下に」
久高が顎で合図すると、私兵たちが散開し始めた。崖の縁を取り囲もうとしている。
「通さねぇ」
立ちはだかった。崖の縁と久高の間に。体が限界でも、壁にはなれる。
牙が先陣を切った。私兵の前衛に突っ込み、三人をまとめて吹き飛ばす。玄が戦術を組み立てる。後方から回り込もうとする兵を、銀が先に見つけて進路を塞ぐ。影が闇に溶け込み、ドローンの制御装置を一つずつ潰していく。
ドローンが一機、翼をもがれた虫みたいにきりきりと回転しながら落ちた。地面に激突する破砕音。二機目も。三機目は——影がプロペラに絡みつき、糸が巻きつくように墜落させた。
空からの目が消えた。
だが地上には、まだ十人以上の私兵がいる。
そして——赤嶺。
利き腕を吊りながらも、銀の弾丸を装填した拳銃を左手で構えている。右手が使えないハンデを、左手の射撃で補おうとしている。
俺と赤嶺の目が合った。
「……また会ったな」
「今度は仕留める」
赤嶺が撃った。
銀弾。
避けた——が、腕を掠めた。焼ける。皮膚が灼けて、再生が追いつかない。
牙が赤嶺に飛びかかる。赤嶺がナイフで応じる。影狼と元自衛官の一対一。
俺は残りの私兵を片づけた。殴り、投げ、関節を決め、動けなくする。殺さない。一人も。
それでも体が悲鳴を上げている。銀の侵食が止まらない。視界の端が暗くなっていく。
月が俺の影に張りつき、治癒を送り続けている。小さな、甘い鳴き声。がんばれ、と言っているみたいな。
赤嶺が牙を振り切り、俺に向かってきた。左手の銃を構えている。
影が赤嶺の視界を奪った。影が目の前に広がり、一瞬の闇を作る。
その隙に牙が銃を弾き飛ばした。
赤嶺との肉弾戦。
片腕しか使えない赤嶺。だが——それでも強い。左の拳が的確に急所を狙ってくる。
俺は赤嶺を組み伏せた。関節を極め、動けなくする。
「俺はお前を殺さねぇ。だからお前も——あの女に手を出すな」
赤嶺が歯を食いしばって俺を見上げている。
「……何のために、そこまでする」
「面倒くせぇからだよ」
琥珀の瞳が赤嶺を見つめている。嘘じゃない。でもそれだけでもない。
赤嶺は——目を閉じた。
「……もういい」
力が抜けた。降りた。
残るは久高嶺臣。
白麻のスーツの男が、崖の上に立っている。部下は全員無力化された。ドローンも落ちた。赤嶺も降りた。
一人きりの老人。
久高が懐から短刀を取り出した。古い刃。三百年前の匂いがする。錆びた鉄と、微かに——塩の匂い。人魚を捕える際に使われた刃物。
「人魚の血を——もう一度」
久高がカミヤに向かって歩いてくる。
カミヤは動かなかった。立っている。壁になっている。銀弾に蝕まれた体で。
久高の短刀がカミヤの腕を切った。浅い傷。銀の刃ではないから、すぐに塞がる。
久高の顔が歪んだ。
「化け物め……化け物め……!」
声に、初めて焦りが混じった。
そして——月が、出た。
雲の切れ間から、白い光が海を照らした。
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断崖の下。
月光が海面に降り注いだ。白く、冷たく、絶対的な光。
汐音の体に——変化が始まった。
脚が融合する。骨が溶け、筋肉が変質し、皮膚の下で鱗が形成されていく。白い脚が水色に染まり、足首の輪郭が消え、つま先が尾鰭の先端へと伸びていく。
人魚の姿。
月光の下で、汐音の鱗が色を変えた。淡い水色から——群青へ。群青から銀へ。波打つように色が揺らぎ、光を散らす。
美しかった。息を呑むほどに。
だが汐音はそれどころではなかった。スマホを胸に抱きしめている。カミヤが「終わったら連絡する」と言った。信じている。信じなければ、この海に入れない。
崖の上から、戦闘の音が聞こえる。金属がぶつかる音。人が倒れる音。影狼の咆哮。
そして——カミヤの声。低く、強い。
遠くて聞き取れない。でも——生きている。まだ、声が聞こえる。
波打ち際まで這った。尾鰭でアスファルトを……ではなく、岩場を這う。ごつごつした岩が鱗に当たって痛い。でも構わない。
海水が尾鰭に触れた。
冷たい。でも——安心する冷たさ。海は、人魚にとって故郷だ。
振り返った。崖の上は見えない。でも——影狼の遠吠えが聞こえた。玄の声だ。低くて、長い、遠吠え。
その声に混じって——。
「——行け」
聞こえるはずがない。崖の上と下。風と波の音に掻き消されるはずの声。
でも——聞こえた。
三百年、この人の声を待ち続けた耳が、聞き逃すはずがなかった。
汐音は海に入った。
尾鰭が水を蹴った。ざぱん、と水面が砕ける。月光を受けた鱗が、群青から銀へと波打つ。
泳いだ。沖へ。沖へ。
振り返らなかった。
約束したから。
でも——涙は、海水に溶けて見えなかった。




