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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第6章:しおさいブルー——月光の鱗と、錆びた風の行方

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第8話:トンネルに響く、銀の弾丸音

 翌日。


 海岸沿いのトンネルに潜んでいた。


 コンクリートのトンネル。車一台がやっと通れる幅。照明は切れている。暗い。水の匂い。壁面に苔が生えている。


 シロガネが警報を寄越した。ドローンが上空に来ている。


 遅かったか。


 トンネルの向こう側から——足音。


 複数。整然とした足取り。軍隊か、それに近い訓練を受けた者の歩き方。


「汐音、奥に隠れろ」

「でも——」

「いいから行け」


 汐音がトンネルの最奥部に走る。サンダルがコンクリートを叩く音がぱたぱたと響く。


 俺はトンネルの入り口に立った。


 五人。スーツ姿の男が二人。その後ろに——坊主頭の巨漢が一人。鍛え上げられた体。左頬に古い刀傷。元自衛官。


 赤嶺剛。


 その名前はまだ知らなかったが、こいつが「使える」人間だということは——立ち方を見ればわかる。重心が低い。両手はリラックスしているように見えて、いつでも懐に手を入れられる位置にある。


 赤嶺が口を開いた。


「そこの兄ちゃん。悪いが、そのトンネルの奥にいる女を引き渡してもらおうか」


「……誰のことだ」


「とぼけるな。ドローンの映像で確認済みだ。——あんたがどこの誰かは知らないが、邪魔をするなら容赦しない」


 赤嶺の手が懐に入った。


 銃。拳銃。黒い金属の光。


 ——一度目の戦闘。


 赤嶺は速かった。抜き撃ちの技術が異常に高い。元自衛官の肩書きは伊達じゃない。


 一発目が胸を貫いた。


 鈍い衝撃。肺に穴が開く感覚。血が口の中に広がる。鉄の味。


 二発目。腹。内臓を抉る痛み。


 三発目。肩。


 トンネルの壁に背中を叩きつけられた。コンクリートにひびが入る。


 だが——俺は立っていた。


 胸の傷口が塞がっていく。弾丸が肉体に押し出され、床にちん、と金属音を立てて落ちる。腹の穴が縮み、皮膚が再生する。肩も同じ。


 五秒で、三つの傷が消えた。


 赤嶺の目が——見開かれた。


「……化け物か」


「よく言われる」


 スーツの二人を先に無力化した。影狼は使わない。人間の範疇に見える身体能力で——と言っても、人間離れしているのは隠しようがなかったが。一人の脚を払い、もう一人の腕を極めて地面に叩きつけた。


 赤嶺と対峙する。


 殺す気はない。倒す必要もない。汐音を連れて離脱できればいい。


 赤嶺が再び銃を構える。四発目。五発目。俺は避けずに受けた。急所を外せば再生できる。


 赤嶺の射撃の間に距離を詰め、銃を持つ手を掴んだ。手首をひねり、銃を弾き飛ばす。がしゃん、とコンクリートの上を滑っていく。


 赤嶺が拳で応じた。元自衛官の格闘術。的確で重い拳。顎に一発もらった。さすがに効く——が、人間のパンチで人狼は倒れない。


 一瞬の隙を作った。赤嶺の視界を体で塞ぎ、トンネルの奥に走る。汐音の手を掴み、反対側の出口へ。原付に跨って、全力で走り出す。


 排気音が山道に響く。バックミラーに、トンネルの入り口で立ち尽くす赤嶺の姿が映っている。


 あの目。あの目は——追ってくる目だ。


 間違いない。


 ***


 ——撤退後。


 赤嶺は久高に報告した。


「あの男は人間ではありません。胸と腹に三発撃ち込みましたが、傷が数秒で塞がりました」


 ホテルの一室。白麻のスーツの男——久高嶺臣が、銀縁眼鏡の奥で薄く笑った。


「人魚を守る人外、か。面白い」


 久高が書庫から古い文献を引き出させた。和綴じの、黄ばんだ紙の本。三百年前の記録。


 人狼。


 不死身に近い再生力。驚異的な身体能力。月夜に獣化する。


 そして——弱点。


「銀、ですか」


 赤嶺が文献を読み上げた。


「銀の弾丸は人狼の再生を阻害する。銀の武器による傷は、通常の十倍以上の時間を要して治癒するか、あるいは——致命傷となる」


 久高が頷いた。「用意しろ」


 赤嶺は——特注の銀の弾丸を発注した。


 ——数日後。


 逃避行は続いていた。


 島の東から西へ、山を越え、集落を避け、ドローンの死角を縫って移動する。原付と、俺の夜目と、汐音の三百年分の土地勘。それだけが武器だった。


 汐音が後ろで俺の背中にしがみつきながら、暗闇の中で道を教えてくれる。


「この先、左に旧道があります。地図には載ってないけど、サトウキビ畑の裏を抜けられます」

「ドローンから見えるか」

「木が繁ってるから、上からは見えないはず」


 三百年の地図が、頭の中にある女。


 俺一人なら、とっくに島を出ている。原付で港に行って、船に乗って——それで終わりだ。


 でも、汐音は月が出ると動けなくなる。船に乗っている間に月光を浴びたら、甲板の上で人魚に戻ってしまう。人目につく。


 だから——月のない時間帯に、海に出られる場所まで辿り着く必要がある。


 トンネルに潜んでいた。


 二本目のトンネル。島の北東部。コンクリートではなく、岩盤をくり抜いた古いトンネル。中は暗く、水滴がぽたり、ぽたりと落ちている。


 カゲが報告を持ってきた。


 久高の部隊が迫っている。ドローン三機。武装した私兵十数名。


 そして——赤嶺が合流している。


 嫌な予感がした。


 予感は——当たった。


 トンネルの入り口に、足音。


 赤嶺が現れた。一人。部下は外で待機しているのだろう。


 銃を構えている。


 だが——引き金には、まだ指をかけない。


 赤嶺は右手で銃を下げたまま、左手で何かを軽く放り投げた。


 ちゃりん。


 澄んだ、硬い音が岩肌に響き、俺の足元へ転がってくる。


 それは、一発の銃弾だった。


 外から差し込むかすかな月光を弾いて、鈍く光る。


 鉛でも、銅でもない。


 銀色だ。


「調べたぞ。お前が何なのか」


 赤嶺の声は落ち着いていた。前回の戦闘で抱いた恐怖を、数日かけて分析と確信に変えてきた声だった。プロだ。


「人狼。月夜に獣化し、不死身じみた再生力を持つ。——だが、銀は別だ」


 そう言って、赤嶺は口元だけで薄く笑った。


「効くんだろう?」


 嫌な予感が、背骨をなぞった。


 一発目。


 肩を貫いた。


 ——焼ける。


 通常弾とはまるで違う。弾丸が肉体に入った瞬間、銀が灼熱のように溶けて血管を焼いた。再生しようとする細胞を、銀の成分が片端から阻害していく。


 傷が——塞がらない。


「……銀か」


 声が掠れた。


 二発目。脇腹。


 激痛。膝をついた。トンネルの床に血が広がる。暗い水たまりに、赤が混じっていく。


 血が止まらない。


 赤嶺が距離を詰めてくる。三発目を構える。


 トンネルの奥から——汐音の悲鳴。


「カミヤさんっ!」


 もう隠している場合じゃない。


 影が——爆ぜた。


 俺の足元から、黒い奔流が噴き出した。闇が渦を巻き、形を成す。


 五つの獣が、一斉に実体化した。


 キバが先陣を切った。赤嶺の銃を弾き飛ばす。銃が岩壁に当たって火花を散らした。クロが部下たちがトンネルに入ってくるのを阻止する。カゲが赤嶺の足元の影に潜り込み、動きを一瞬だけ封じる。シロガネが外の敵の配置を探る。ツキが俺の傷口に張りつき、治癒を送り込む。


 だが銀の傷は——ツキの治癒でも簡単には塞がらない。


 赤嶺は銃を失っても怯まなかった。懐から予備のナイフを抜き、キバと対峙する。影狼の牙をナイフで受け、体を回転させて距離を取る。人間として、異常なほど強い。


 俺は立ち上がった。


 脇腹から血が流れ続けている。だが——立てる。まだ立てる。


 倒れたら、この女が連れていかれる。


 それだけは——許さない。


 半人狼化。


 腕に黒い毛が走る。爪が伸びる。犬歯が牙になる。肩が膨れ、骨格が変形し始める。完全な獣化はしない。銀のダメージが深くて、体が保たない。


 赤嶺が振り返った。影狼と半人狼化した男を前にして——初めて、顔に恐怖が浮かんだ。


 だが、すぐに目が変わった。俺の脇腹から流れ続ける血を見ている。


「……銀が効いているな」


 冷静な分析。恐怖を飲み込んで、思考に切り替えた。


 こいつは——ただの兵士じゃない。


 俺は赤嶺に飛びかかった。キバと挟み撃ちにする。赤嶺のナイフを払い、腕を取り、関節を極めた。


 殺さない。


 殺せる。この距離なら、首を折ることもできる。だが——殺さない。


「……なぜ殺さない」


 赤嶺が、極められた体勢のまま呻いた。


「面倒くせぇからだ」


 嘘だ。面倒だからじゃない。殺したくないのだ。人を。


 こいつは命令で動いているだけだ。こいつ自身が汐音を憎んでいるわけじゃない。


 赤嶺の利き腕の肩を外した。ごきっ、と嫌な音。赤嶺が呻く。


「……てめぇら、あの女に手を出すな」


 赤嶺に背を向け、汐音を抱えてトンネルを抜けた。反対側の出口。原付。エンジン。


 走り出す。


 背中に回した汐音の手が——血で濡れていた。


「カミヤさん、血が……」

「止まる。すぐ止まる」

「嘘です。止まってないです」

「……うるせぇ」


 夜の山道を走る。ふらつく。視界がぼやける。銀の弾丸の破片が体内に残っている。ツキが必死に治癒を送り続けているが、追いつかない。


 汐音が俺の背中を支えている。小さな手で、必死に。


「カミヤさん、お願い、死なないで」


「死なねぇよ……しぶとさだけが取り柄だ」


 原付が暗い山道を走る。


 エンジンが苦しそうに唸っている。


 夜の虫が鳴いている。


 汐音の手が——震えている。


 俺の手がハンドルを握りながら——ほんの一瞬だけ、汐音の手に触れた。


 偶然のふりをした。


 たぶん——お互いに、気づいていた。



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