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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第6章:しおさいブルー——月光の鱗と、錆びた風の行方

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第7話:廃墟の夜、ツナ缶と人魚の涙

 翌朝から、動き始めた。


 まずカゲを監視に出した。久高の部下たちの行動パターンを掴むためだ。カゲは隠密に長けている。人間の影に潜り込み、気配を殺して情報を集めてくる。


 結果はすぐに出た。


 連中はドローンを三機運用していた。交代制で海岸線を飛ばし、映像をリアルタイムでホテルの部屋に送っている。特に、夜間の海岸を重点的に監視している。


 理由はすぐに分かった。ドローンの映像の一つに、映り込んでしまったのだ。


 月夜の海岸。水面すれすれで尾鰭を翻す——銀色の光。


 連中は、それを見た。


「カミヤさん……ごめんなさい。先週の満月の夜、海で泳いでて……」

「……お前なぁ」

「だって、満月の夜の海が一番きれいなんです……反省してます」


 反省しているようには見えなかったが、今はそれどころじゃない。


 連中は、この島に人魚がいることを確信している。あとは——誰が人魚なのかを特定するだけだ。


 時間がない。


「家を離れるぞ。荷物をまとめろ」


 最低限の荷物だけ原付に積んだ。着替え。水。缶詰。救急セット。汐音のスマホの充電器。プリン——は、汐音が「これだけは置いていけません」と冷蔵庫から引っ張り出してきたので、仕方なくクーラーボックスに入れた。


「どこに行くんですか」

「島の裏側。観光客の来ないところだ」


 夜を待った。日が沈み、月が出る前の黄昏の時間帯に、家を出た。


 原付のエンジンをかける。排気音が夜の空気を震わせる。汐音が後ろに跨り、俺の腰に手を回す。


「しっかり掴まれ」

「はいっ」


 小さな手が、俺のシャツの裾をぎゅっと握った。


 月が出ないことを祈りながら、暗い道を走る。


 島の北部へ。観光客の来ないサトウキビ畑の間を抜け、山道に入る。ヘッドライトの光が暗い路面を照らし、木々の影がぬるぬると動く。


 虫の声がうるさい。りーん、りーん、じじじ。夏の名残の蝉と、秋の先触れの虫が入り混じっている。


 三十分走って、目的地に着いた。


 海辺の廃墟。かつてはダイビングショップか何かだったのだろう、コンクリートの建物が潮風に晒されて朽ちている。窓ガラスが割れ、壁に蔦が這い上がっている。屋根は——一応、残っている。雨と月光は凌げる。


 中に入った。コンクリートの床に砂が積もっている。割れたガラスを避けて、奥の部屋に荷物を降ろす。


 缶詰を開けた。ツナ缶。二人で分ける。冷たいツナ缶を無言で食べる。


「……キャンプみたいですね」


 汐音がぽつりと言った。無理して笑っている。声が少し震えている。


「キャンプ行ったことあるのか」

「YouTubeで見ました」

「……見ただけか」

「三百年、どこにも行ったことないですから。この島の外は」


 沈黙。


 波の音。風。コンクリートの壁に反響する、低い空気の振動。遠くでフクロウが鳴いた。ほぅ、ほぅ、と。


「……逃げるだけなら、私一人で海に潜ればいい。カミヤさんまで巻き込むことない」


 汐音の声。静かだ。いつもの弾けるような明るさが、嘘みたいに消えている。


「面倒くせぇ女だな。黙って飯食え」


 缶詰の残りを汐音の方に押しやった。


 汐音が——泣き笑いみたいな顔で、ツナ缶を口に運んだ。


 翌日から、移動の日々が始まった。


 廃墟から山中の廃校へ。廃校からトンネルを抜けて反対側の海岸へ。海岸沿いの洞窟から、さらに北の集落跡へ。


 ドローンが空を飛んでいる。ぶぅぅん、と低い唸り。プロペラの音は遠くからでも聞こえる。カゲがドローンの死角を探り、シロガネを先行偵察に出す。


 夜の移動が基本だ。ヘッドライトを消し、俺の夜目だけを頼りに暗い山道を走る。人狼の目は闇の中でも利く。


 汐音が後ろで、小さな声で道案内をする。


「次の分岐、左です。二百メートル先にガジュマルの大木があって、そこを右」


「……詳しいな」


「三百年住んでますから。この島の道は全部覚えてます」


 暗闇の中で、汐音の声だけが頼りだ。島の道を知り尽くした人魚のナビゲーション。三百年の孤独が——今、俺たちの逃走経路になっている。


 廃校で一夜を明かした。


 教室の窓にブルーシートを張って月光を遮る。月が出たら汐音が人魚に戻ってしまう。陸で尾鰭になったら、動けなくなる。


 汐音は教室の奥に座っている。月光が入らない、最も暗い隅。


 俺は窓際で見張りをしている。


 静かな夜だった。フクロウが遠くで鳴いている。ほぅ、ほぅ。虫の声。風がブルーシートを揺らすばさばさという音。


 汐音が、ぽつりと言った。


「……怖いのは、死ぬことじゃないんです」


 振り返った。暗がりの中で、海色の瞳だけが微かに光っている。


「私が死んだら、泡になって消えちゃう。何も残らない。遺体もない。骨もない。お墓も作れない。——カミヤさんが泣く場所すら、残してあげられない」


 声は穏やかだった。感情を押し殺しているのではなく——長い時間をかけて、この事実と向き合ってきたのだろう。


「だから——死ねないんです。あなたに、そんな思いをさせたくないから」


 窓の外で、フクロウが鳴くのをやめた。


 虫の声も、風の音も、遠くなった。


 静寂が——二人の間に横たわった。


 俺は、何も言えなかった。


 この女を失うのが——怖い。


 三百年生きてきて、「怖い」と思ったことはほとんどない。銀の弾丸も、吸血鬼の牙も、幽霊船の怨霊も——痛みはあったが、恐怖はなかった。死ぬかもしれないと思っても、「まあ死ぬなら死ぬか」くらいにしか思わなかった。


 でも——この女が泡になって消えるのは。


 何も残らないのは。


 その想像だけで、腹の底が冷たくなる。


 これが——恋なのだと。気づきたくなかった。


「……寝ろ」


 それだけ言った。他に言える言葉がなかった。


 汐音は——少しだけ笑って、目を閉じた。


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