第7話:廃墟の夜、ツナ缶と人魚の涙
翌朝から、動き始めた。
まず影を監視に出した。久高の部下たちの行動パターンを掴むためだ。カゲは隠密に長けている。人間の影に潜り込み、気配を殺して情報を集めてくる。
結果はすぐに出た。
連中はドローンを三機運用していた。交代制で海岸線を飛ばし、映像をリアルタイムでホテルの部屋に送っている。特に、夜間の海岸を重点的に監視している。
理由はすぐに分かった。ドローンの映像の一つに、映り込んでしまったのだ。
月夜の海岸。水面すれすれで尾鰭を翻す——銀色の光。
連中は、それを見た。
「カミヤさん……ごめんなさい。先週の満月の夜、海で泳いでて……」
「……お前なぁ」
「だって、満月の夜の海が一番きれいなんです……反省してます」
反省しているようには見えなかったが、今はそれどころじゃない。
連中は、この島に人魚がいることを確信している。あとは——誰が人魚なのかを特定するだけだ。
時間がない。
「家を離れるぞ。荷物をまとめろ」
最低限の荷物だけ原付に積んだ。着替え。水。缶詰。救急セット。汐音のスマホの充電器。プリン——は、汐音が「これだけは置いていけません」と冷蔵庫から引っ張り出してきたので、仕方なくクーラーボックスに入れた。
「どこに行くんですか」
「島の裏側。観光客の来ないところだ」
夜を待った。日が沈み、月が出る前の黄昏の時間帯に、家を出た。
原付のエンジンをかける。排気音が夜の空気を震わせる。汐音が後ろに跨り、俺の腰に手を回す。
「しっかり掴まれ」
「はいっ」
小さな手が、俺のシャツの裾をぎゅっと握った。
月が出ないことを祈りながら、暗い道を走る。
島の北部へ。観光客の来ないサトウキビ畑の間を抜け、山道に入る。ヘッドライトの光が暗い路面を照らし、木々の影がぬるぬると動く。
虫の声がうるさい。りーん、りーん、じじじ。夏の名残の蝉と、秋の先触れの虫が入り混じっている。
三十分走って、目的地に着いた。
海辺の廃墟。かつてはダイビングショップか何かだったのだろう、コンクリートの建物が潮風に晒されて朽ちている。窓ガラスが割れ、壁に蔦が這い上がっている。屋根は——一応、残っている。雨と月光は凌げる。
中に入った。コンクリートの床に砂が積もっている。割れたガラスを避けて、奥の部屋に荷物を降ろす。
缶詰を開けた。ツナ缶。二人で分ける。冷たいツナ缶を無言で食べる。
「……キャンプみたいですね」
汐音がぽつりと言った。無理して笑っている。声が少し震えている。
「キャンプ行ったことあるのか」
「YouTubeで見ました」
「……見ただけか」
「三百年、どこにも行ったことないですから。この島の外は」
沈黙。
波の音。風。コンクリートの壁に反響する、低い空気の振動。遠くでフクロウが鳴いた。ほぅ、ほぅ、と。
「……逃げるだけなら、私一人で海に潜ればいい。カミヤさんまで巻き込むことない」
汐音の声。静かだ。いつもの弾けるような明るさが、嘘みたいに消えている。
「面倒くせぇ女だな。黙って飯食え」
缶詰の残りを汐音の方に押しやった。
汐音が——泣き笑いみたいな顔で、ツナ缶を口に運んだ。
翌日から、移動の日々が始まった。
廃墟から山中の廃校へ。廃校からトンネルを抜けて反対側の海岸へ。海岸沿いの洞窟から、さらに北の集落跡へ。
ドローンが空を飛んでいる。ぶぅぅん、と低い唸り。プロペラの音は遠くからでも聞こえる。影がドローンの死角を探り、銀を先行偵察に出す。
夜の移動が基本だ。ヘッドライトを消し、俺の夜目だけを頼りに暗い山道を走る。人狼の目は闇の中でも利く。
汐音が後ろで、小さな声で道案内をする。
「次の分岐、左です。二百メートル先にガジュマルの大木があって、そこを右」
「……詳しいな」
「三百年住んでますから。この島の道は全部覚えてます」
暗闇の中で、汐音の声だけが頼りだ。島の道を知り尽くした人魚のナビゲーション。三百年の孤独が——今、俺たちの逃走経路になっている。
廃校で一夜を明かした。
教室の窓にブルーシートを張って月光を遮る。月が出たら汐音が人魚に戻ってしまう。陸で尾鰭になったら、動けなくなる。
汐音は教室の奥に座っている。月光が入らない、最も暗い隅。
俺は窓際で見張りをしている。
静かな夜だった。フクロウが遠くで鳴いている。ほぅ、ほぅ。虫の声。風がブルーシートを揺らすばさばさという音。
汐音が、ぽつりと言った。
「……怖いのは、死ぬことじゃないんです」
振り返った。暗がりの中で、海色の瞳だけが微かに光っている。
「私が死んだら、泡になって消えちゃう。何も残らない。遺体もない。骨もない。お墓も作れない。——カミヤさんが泣く場所すら、残してあげられない」
声は穏やかだった。感情を押し殺しているのではなく——長い時間をかけて、この事実と向き合ってきたのだろう。
「だから——死ねないんです。あなたに、そんな思いをさせたくないから」
窓の外で、フクロウが鳴くのをやめた。
虫の声も、風の音も、遠くなった。
静寂が——二人の間に横たわった。
俺は、何も言えなかった。
この女を失うのが——怖い。
三百年生きてきて、「怖い」と思ったことはほとんどない。銀の弾丸も、吸血鬼の牙も、幽霊船の怨霊も——痛みはあったが、恐怖はなかった。死ぬかもしれないと思っても、「まあ死ぬなら死ぬか」くらいにしか思わなかった。
でも——この女が泡になって消えるのは。
何も残らないのは。
その想像だけで、腹の底が冷たくなる。
これが——恋なのだと。気づきたくなかった。
「……寝ろ」
それだけ言った。他に言える言葉がなかった。
汐音は——少しだけ笑って、目を閉じた。




