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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第6章:しおさいブルー——月光の鱗と、錆びた風の行方

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第6話:人魚の血を求める影、迫る

 同じ時間を生きられる——と分かってからの日々は、前より少しだけ温度が変わった。


 汐音は相変わらず弁当を作り、俺は相変わらず漁に出て、家の修繕をした。何も変わっていないように見える。でも——小さなことが変わっていた。


 夕飯のとき、汐音が窓辺に座る位置が少し近くなった。味噌汁の椀を渡すとき、指が触れても弾かなくなった。代わりに耳だけが赤くなる。


 俺のほうも——変わりつつあった。自覚したくはなかったが。


 汐音が夕日を見ながら、ぽつりと言うことがある。


「……海の色は、ずっと変わらないんですよ。三百年前も今日も、同じ青。でも——星の位置は、少しずつ変わるんです。夜の海に浮いて空を見上げると、覚えていた星座が微妙にずれてて。ああ、時間って本当に流れてるんだなって」


 何気ない口調だった。でも——その横顔に、途方もない時間の重みが滲んでいた。


 この女は、長い時間を本当に独りで生きてきたのだ。


 星の位置のズレで時間の経過を実感するような——そんな、気の遠くなるほどの孤独の中を。


 俺は——三百年、同じ空を見上げていたはずなのに、星の位置が変わったことなんて一度も気づかなかった。


 汐音がこちらを見る。「カミヤさんは、気づいてましたか? 星が動いてること」


「……いや」


「じゃあ、今度一緒に見ましょう。夜の海に浮いて——あ、カミヤさん泳げます?」


「普通に泳げるが」


「よかった。カミヤさんには浮き輪を持ってきますね」


「いらねぇ」


「犬かきでもいいですよ」


「……犬じゃねぇ、狼だ」


 汐音が笑う。俺も——たぶん、口の端がほんの少し上がった。


 夕日が海を赤く染めている。ハイビスカスが風に揺れて、影が畳の上を歩く。


 穏やかな時間だった。終わらなければいいと——思いかけて、やめた。


 こういう時間には、必ず終わりが来ることを、俺は知っている。


 そして——終わりは、唐突にやってきた。


 ある日。漁から帰ると、港に見慣れない連中がいた。


 スーツ姿の男が三人。こんな暑い島でスーツ。明らかに島の人間じゃない。名刺を配って、漁師たちや港湾の事務員に愛想を振りまいている。


「リゾート開発の調査で参りまして——」


 声だけは柔らかい。笑顔も悪くない。だが——目が笑っていない。


 俺の嗅覚が反応した。


 人間にはわからない微かな匂い。火薬の残滓。機械油。金属。一人は脇の下に何か硬いものを挟んでいる。ホルスターだ。リゾート開発の調査員が、銃を隠し持つか。


 何も言わずに通り過ぎた。視線だけ確認して、顔を覚えた。


 夕方、汐音が帰ってくるなり言った。


「カミヤさん、今日ちょっと変なことがあって」


 いつも素潜りをしている海域に、見慣れない小型のドローンが飛んでいたという。水面近くを低空で旋回し、何かを探すように。


「ドローンの形は?」

「えっと……黒くて、プロペラが四つで、カメラみたいなのがついてて……」


 商用のものじゃない。あの大きさなら軍事仕様に近い。観光客が飛ばすようなおもちゃとは別物だ。


 嫌な予感がした。


 夜。汐音が寝静まってから、シロガネを偵察に出した。


 影の中を滑るようにして、シロガネが港方面へ消えていく。街灯の影から影へ。音もなく。


 一時間後、シロガネが戻った。


 影の中で報告される情報を、俺は読み取る。影狼は言葉を喋らない。代わりに、見たものを——光景として、匂いとして、影の密度として伝えてくる。


 スーツの男たちは、港近くのリゾートホテルの上階に滞在している。窓からの光が深夜でも消えない。部屋の中には大型のモニターと通信機器。壁に貼られた島の地図。海岸線に赤いマークが複数。


 そして——一枚の写真。


 白麻のスーツの男。銀縁眼鏡。五十代の外見。穏やかな笑みを浮かべているが、目だけが笑っていない。


 名前は知らない。顔も初めて見る。だが——


 本能が、告げている。


 こいつは危険だ。獲物を狩る側の匂いがする。


 翌日、汐音に言った。


「最近、変なやつが島をうろついてる。夜は絶対に一人で出るな」


 汐音の顔色が変わった。


 いつものはしゃいだ表情がすっと引いて、水面が凪いだみたいに静かになった。海色の瞳に、ほんの一瞬——底知れない暗さが覗いた。


 三百年を生きた者にしか出せない、深い色。


「……来たんだ」


 その声は——震えていた。恐怖ではない。もっと古い。もっと深い。三百年分の覚悟が滲んだ、諦観に近い震え。


「知ってるのか」


「……母から聞いていました。いつの時代にも——私たちの血を求める人間がいるって。三百年前、私を捕まえた漁師たちの後ろにも、お金を出していた人がいたって」


 領主。三百年前の。


 汐音が続ける。


「人魚の生き血を飲むと、八百年生きられるという伝承があるんです。私たちは——死んだら泡になって消えてしまうから、生きているうちに血を飲まないと意味がない。だから、捕まえて、生かしたまま——」


 声が途切れた。


 俺の拳が、無意識に握りしめられていた。


 ぎり、と。爪が掌に食い込む音が、自分の耳にだけ聞こえた。


 汐音が俺の手を見た。握りしめた拳を。そして——少しだけ、笑った。


 泣きそうな顔で、笑った。


「……大丈夫です。慣れてますから」


 慣れてる。三百年、逃げ続けてきたと。狩られる側でいることに——慣れたと。


「慣れる必要はねぇ」


 自分でも思っていなかった言葉が出た。


 低い声。いつものぶっきらぼうとは違う。有無を言わさない、腹の底からの声。


 汐音が息を飲んだ。


「もう逃げなくていい。俺がいる」


 言ってから——恥ずかしくなった。何を気取ったことを言ってるんだ。面倒くせぇ。


 だが、撤回はしなかった。


 窓の外で波が鳴っている。ざざぁ、と。いつもと同じ音のはずなのに——今夜はどこか、緊張を孕んでいる。


 嵐の前の、凪。


 影の中で、クロが低く唸った。


 同感だ。


 戦いの匂いがする。



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