第5話:深夜二時の、運命のプリン
——そして。ある夜。
深夜二時。
スマホが鳴った。
ぴろん♪
画面を見る。汐音からのメッセージ。
『たすけてください みちのまんなかで あしがなくなりました』
は?
続けて写真が送られてきた。暗い路上。街灯の光。コンビニの袋を抱えた汐音が——腰から下が人魚の尾に変わって、アスファルトの上に座り込んでいる。尾鰭がぺたりとアスファルトに貼りついている。
写真の端に、雲間から差した月の光が映っていた。
俺は三秒で靴を履き、原付のエンジンをかけた。
夜道を飛ばす。深夜の石垣島は暗い。街灯もまばら。虫の声だけが耳を打つ。
現場はコンビニから百メートルほどの路上だった。
電柱の影に身を寄せた汐音が、尾鰭でアスファルトをぺち、ぺちと叩きながら、涙目でこちらを見上げていた。
月光を受けた鱗が淡い水色に光っている。コンビニの袋にはプリンが三つ。
「……お前」
「おなかが空いて……プリンが食べたくて……雲が出てたから大丈夫だと思ったんですけど、帰り道で雲が晴れちゃって……」
声が震えている。恥ずかしさと情けなさで目が潤んでいる。
「月の光に当たると足がなくなる、って。そういうことか」
「……はい」
俺は無言で汐音を抱え上げた。
いわゆるお姫様抱っこ。腕の中に人魚の女。尾鰭が月光を受けて、淡い水色から銀色へと波打つように色が揺らいでいる。鱗がひんやりと冷たい。滑らかで、魚の肌とは違う——宝石みたいな手触り。
でも、俺の腕に回された汐音の手は——温かかった。
「重い」
「重くないですっ! 人魚は骨密度が低いので人間より軽いんです!」
「口から先に出るタイプか」
「事実を述べているだけです!」
原付のシートに横座りさせる。汐音が尾鰭をバランスよく横に流す。慣れた動きだった。何回かやったことがあるんだろう。一人で。
「掴まれ」
「……はい」
汐音の手が、俺の背中にそっと触れた。
夜道を走る。ヘッドライトの光が路面を照らし、影が後ろに流れていく。エンジン音と風の音。汐音の体温が背中に伝わる。
家に着いた。月が雲に隠れるのを待って、玄関まで抱えて入る。
室内に入ると月光が遮られ、汐音の尾に変化が起きた。鱗が光の粒子になって溶けていく。きらきらと。蛍みたいに。尾鰭の輪郭がぼやけて、人間の脚の形が浮かんでくる。白い素足。足首。膝。
汐音がスカートの裾を直しながら、俯いた。顔が真っ赤だ。
「……見ました?」
「何を」
「人魚の姿」
「ああ」
沈黙。
「……どう、思いましたか」
「別に」
別に。嘘だ。
あの鱗の色は——綺麗だった。月光に溶ける銀色。水色と群青のグラデーション。三百年の記憶の底で見た、あの波打ち際の飛沫と、同じ色だった。
だが、それを口にする気はなかった。
汐音が、小さな声で言った。
「……驚かないんですね。人魚なのに」
その問いに——つい、口が滑った。
「俺も人間じゃねぇからな」
言ってから、しまった、と思った。
何を言ってるんだ、俺は。
沈黙が落ちた。
潮騒が窓の外で鳴っている。ざざぁ……ざざぁ……。時計の秒針がかちかちと動いている。
汐音の海色の瞳が、大きく見開かれた。
震えている。瞳が。唇が。声が。
「……やっぱり」
その一言に。
歓喜と。確信と。三百年分の祈りが。全部、混じっていた。
「やっぱり、そうだったんだ……」
汐音が——泣いていた。
声を上げずに。ただ、海色の瞳から透明な雫がぽろぽろと零れて、畳の上に落ちている。
「知ってたのか」
「ずっと……ずっと思ってました。あの時——三百年前に、私を助けてくれた人は、人間じゃないって。私と同じくらい長く生きる人だって。だから、いつか——また会えるって……」
三百年前。
漁師を殴り倒して。網を引き裂いて。「掴まってろ」と言って。海に放した——あの少女。
海色の瞳。
記憶の底で揺れていた影が——今、くっきりと結ばれた。
目の前の女と。あの日の少女が。一つに重なった。
「——お前、あの時の」
「はい」
汐音が涙を拭いもせずに、笑った。
泣きながら、笑っていた。
「あの時の——人魚です」
潮騒が、窓の外で鳴っていた。
三百年。同じ波の音を、同じ島で、聴いていた。一人で。ずっと、一人で。
この女は——俺を、待っていたのだ。
名前も知らない相手を。顔も思い出せない相手を。琥珀色の瞳の記憶だけを頼りに。
三百年。
俺は——何も言えなかった。
プリンの袋がテーブルの上にある。三つ入り。一つは潰れている。コンビニの袋がかさかさと音を立てる。
「……プリン、食うか」
馬鹿みたいなことを言った。
汐音がぐしゃぐしゃの泣き顔で、ぷっ、と笑った。
「……食べます」
二人で、プリンを食べた。
潰れたやつは汐音が引き取った。
「形が悪くても味は同じです」と言いながら、器用にスプーンですくっている。
俺のプリンはなぜかカラメルが多かった。
汐音が「それ当たりですよ」と言う。
そうか。当たりか。
俺たちはしばらく、何も言わなかった。プリンのスプーンが容器に触れる、かちん、という音だけが静かに鳴っていた。三百年。そんな時間を経て、今ここにいる。人狼と人魚が、深夜の畳の上で、コンビニのプリンを食べている。
馬鹿みたいだと思う。
だが——悪くない。
波の音だけが、窓の外で鳴っていた。




