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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第6章:しおさいブルー——月光の鱗と、錆びた風の行方

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第5話:深夜二時の、運命のプリン

 ——そして。ある夜。


 深夜二時。


 スマホが鳴った。


 ぴろん♪


 画面を見る。汐音からのメッセージ。


『たすけてください みちのまんなかで あしがなくなりました』


 は?


 続けて写真が送られてきた。暗い路上。街灯の光。コンビニの袋を抱えた汐音が——腰から下が人魚の尾に変わって、アスファルトの上に座り込んでいる。尾鰭がぺたりとアスファルトに貼りついている。


 写真の端に、雲間から差した月の光が映っていた。


 俺は三秒で靴を履き、原付のエンジンをかけた。


 夜道を飛ばす。深夜の石垣島は暗い。街灯もまばら。虫の声だけが耳を打つ。


 現場はコンビニから百メートルほどの路上だった。


 電柱の影に身を寄せた汐音が、尾鰭でアスファルトをぺち、ぺちと叩きながら、涙目でこちらを見上げていた。


 月光を受けた鱗が淡い水色に光っている。コンビニの袋にはプリンが三つ。


「……お前」

「おなかが空いて……プリンが食べたくて……雲が出てたから大丈夫だと思ったんですけど、帰り道で雲が晴れちゃって……」


 声が震えている。恥ずかしさと情けなさで目が潤んでいる。


「月の光に当たると足がなくなる、って。そういうことか」

「……はい」


 俺は無言で汐音を抱え上げた。


 いわゆるお姫様抱っこ。腕の中に人魚の女。尾鰭が月光を受けて、淡い水色から銀色へと波打つように色が揺らいでいる。鱗がひんやりと冷たい。滑らかで、魚の肌とは違う——宝石みたいな手触り。


 でも、俺の腕に回された汐音の手は——温かかった。


「重い」

「重くないですっ! 人魚は骨密度が低いので人間より軽いんです!」

「口から先に出るタイプか」

「事実を述べているだけです!」


 原付のシートに横座りさせる。汐音が尾鰭をバランスよく横に流す。慣れた動きだった。何回かやったことがあるんだろう。一人で。


「掴まれ」

「……はい」


 汐音の手が、俺の背中にそっと触れた。


 夜道を走る。ヘッドライトの光が路面を照らし、影が後ろに流れていく。エンジン音と風の音。汐音の体温が背中に伝わる。


 家に着いた。月が雲に隠れるのを待って、玄関まで抱えて入る。


 室内に入ると月光が遮られ、汐音の尾に変化が起きた。鱗が光の粒子になって溶けていく。きらきらと。蛍みたいに。尾鰭の輪郭がぼやけて、人間の脚の形が浮かんでくる。白い素足。足首。膝。


 汐音がスカートの裾を直しながら、俯いた。顔が真っ赤だ。


「……見ました?」

「何を」

「人魚の姿」

「ああ」


 沈黙。


「……どう、思いましたか」

「別に」


 別に。嘘だ。


 あの鱗の色は——綺麗だった。月光に溶ける銀色。水色と群青のグラデーション。三百年の記憶の底で見た、あの波打ち際の飛沫と、同じ色だった。


 だが、それを口にする気はなかった。


 汐音が、小さな声で言った。


「……驚かないんですね。人魚なのに」


 その問いに——つい、口が滑った。


「俺も人間じゃねぇからな」


 言ってから、しまった、と思った。


 何を言ってるんだ、俺は。


 沈黙が落ちた。


 潮騒が窓の外で鳴っている。ざざぁ……ざざぁ……。時計の秒針がかちかちと動いている。


 汐音の海色の瞳が、大きく見開かれた。


 震えている。瞳が。唇が。声が。


「……やっぱり」


 その一言に。


 歓喜と。確信と。三百年分の祈りが。全部、混じっていた。


「やっぱり、そうだったんだ……」


 汐音が——泣いていた。


 声を上げずに。ただ、海色の瞳から透明な雫がぽろぽろと零れて、畳の上に落ちている。


「知ってたのか」

「ずっと……ずっと思ってました。あの時——三百年前に、私を助けてくれた人は、人間じゃないって。私と同じくらい長く生きる人だって。だから、いつか——また会えるって……」


 三百年前。


 漁師を殴り倒して。網を引き裂いて。「掴まってろ」と言って。海に放した——あの少女。


 海色の瞳。


 記憶の底で揺れていた影が——今、くっきりと結ばれた。


 目の前の女と。あの日の少女が。一つに重なった。


「——お前、あの時の」

「はい」


 汐音が涙を拭いもせずに、笑った。


 泣きながら、笑っていた。


「あの時の——人魚です」


 潮騒が、窓の外で鳴っていた。


 三百年。同じ波の音を、同じ島で、聴いていた。一人で。ずっと、一人で。


 この女は——俺を、待っていたのだ。


 名前も知らない相手を。顔も思い出せない相手を。琥珀色の瞳の記憶だけを頼りに。


 三百年。


 俺は——何も言えなかった。


 プリンの袋がテーブルの上にある。三つ入り。一つは潰れている。コンビニの袋がかさかさと音を立てる。


「……プリン、食うか」


 馬鹿みたいなことを言った。


 汐音がぐしゃぐしゃの泣き顔で、ぷっ、と笑った。


「……食べます」


 二人で、プリンを食べた。


 潰れたやつは汐音が引き取った。


「形が悪くても味は同じです」と言いながら、器用にスプーンですくっている。


 俺のプリンはなぜかカラメルが多かった。


 汐音が「それ当たりですよ」と言う。


 そうか。当たりか。


 俺たちはしばらく、何も言わなかった。プリンのスプーンが容器に触れる、かちん、という音だけが静かに鳴っていた。三百年。そんな時間を経て、今ここにいる。人狼と人魚が、深夜の畳の上で、コンビニのプリンを食べている。


 馬鹿みたいだと思う。

 だが——悪くない。

 波の音だけが、窓の外で鳴っていた。



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