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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第6章:しおさいブルー——月光の鱗と、錆びた風の行方

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第4話:弁当から始まる、日常の魔法

 あの港の一件から、女は——汐音は、何かと理由をつけて俺の前に現れるようになった。


 朝、漁から戻ると桟橋にいる。


 発泡スチロールの箱にアーサを入れて、食堂への納品がてら。ついでのように、もう一つ別の包みを差し出してくる。


「あの、これ……近所の方が作りすぎたって言うので」


 弁当だった。おにぎりと、ゴーヤチャンプルーと、もずくの酢の物。


 近所の人が作りすぎた。嘘だ。弁当箱にわざわざ紙のメモが挟んである。『今日のおにぎりの具は油味噌です! お魚は新鮮なのを選びました!』。字がやたら丁寧で、語尾にハートマークのスタンプが押してある。近所のおばちゃんがこんなメモ書くか。


 最初は「いらねぇ」と断った。


 翌日、「前のが余ったので」と別の弁当が来た。今度はソーキそばの弁当版みたいなもので、汁が漏れないように丁寧にラップで包んであった。メモには『スープが冷めないうちに食べてください!』。


 さらに翌日。ジューシー(沖縄風炊き込みご飯)と紅芋の天ぷら。メモは『紅芋は今が旬です!』。


 四日目に根負けした。


 飯がうまいのだ。


 ぶっきらぼうに「……もらう」と言ったら、汐音は海色の瞳をきらきらさせて「はいっ!」と答えた。太陽みたいな笑顔だった。


 それから毎日、弁当が来る。


 親方が桟橋の上でニヤニヤしている。「兄ちゃん、あの嬢ちゃんはお前の彼女か」。違う。断じて違う。


 数日後。


「あの、カミヤさん。お願いがあるんですけど」


 汐音が、いつもより少しだけ改まった顔で言った。


「うちの裏の水道管が壊れちゃって……修理できる人を探してるんですけど、カミヤさん、そういうの得意ですか?」

「……見るだけなら」


 汐音の家を初めて訪れた。


 港から原付で十分ほど。海沿いの細い道を行くと、潮騒がどんどん近づいてくる。木造平屋の古い家が見えた。壁は色褪せ、屋根瓦が何枚かずれている。庭にはアダンの木とブーゲンビリアが生い茂っていて、玄関には貝殻の風鈴がぶら下がっている。からん、と鳴った。


 裏に回ると、確かに水道管が破裂していた。塩ビ管の継ぎ手部分にひびが入って、水がちょろちょろ漏れている。


 不自然なひびだった。


 何かで蹴ったような——足の形の凹みがある。


 汐音を見た。汐音は目を逸らした。


 ……こいつ、自分で壊しやがったな。


 言わなかった。ホームセンターで部品を買ってきて、直した。パッキンの交換と、継ぎ手の付け替え。三十分で終わった。


「すごい……! カミヤさん、何でもできるんですね!」

「パッキン替えただけだ」


 ついでに目についた不具合を直した。壁板の剥がれ。網戸の破れ。蝶番の錆。この家、長い間一人で住んでいたらしく、あちこちにガタが来ている。


「あの、カミヤさん。よかったらお茶でも——」


 居間に通された。


 畳の部屋。作業台の上に、研磨途中の夜光貝。織り機が壁際に置いてある。ミンサー織りだ。スマホがスタンドに立てかけてあり、YouTubeの画面が映っている。


 壁に赤いピンが無数に刺さった地図。そして——壁に貼られた、色褪せたスケッチ。


 琥珀色の瞳の、少年の横顔。


 足が止まった。


「……これ、誰だ」


 汐音の顔が一瞬で赤くなった。


「えっ、あっ、それはっ——その、昔お世話になった方の、えっと、想像画です! 記憶が曖昧なので、想像で描いた、あの、えっと——」


 慌ててスケッチの前に体を移動させ、両手を広げて隠そうとしている。逆に目立つ。


「……ふうん」


 それ以上は追及しなかった。


 さんぴん茶を出された。冷たくて、うまかった。


 日を追うごとに、汐音は俺の生活に入り込んできた。


 弁当だけでは飽き足らず、漁に使う道具の手入れセットを差し入れてきたり(「島の湿気で錆びやすいから」)、日焼け止めクリームを渡してきたり(「漁師さんは皮膚がんになりやすいって聞いたので」)。


 そしてある日——


「カミヤさん、スマホ持ってないんですか?」

「ああ」

「え、ない……? 本当に?」

「必要ねぇから」

「必要です!」


 翌日。汐音が新品のスマホを差し出してきた。


「これ、私の仕事用の予備なんですけど——じゃなくて、あの、緊急連絡用に持っておいたほうがいいと思って。漁は危険ですし。私がピン……じゃなくて、カミヤさんが海で何かあった時に連絡できないと困りますから!」


 耳まで赤い。「私がピンチの時に」って言いかけたのを慌てて言い直したの、聞こえてるぞ。


「……使い方わかんねぇぞ」

「教えますっ!」


 汐音が嬉しそうにスマホの操作を教えてくれた。隣に座って、画面を覗き込んでくる。近い。髪から潮と——ほんのりジャスミンの匂いがする。


 登録された最初の連絡先は、汐音の番号だった。


「これで、いつでも連絡できますね」


 いつでも連絡。お前にか。


「……ああ」


 そして——気がついたら。


 汐音の家の離れに住んでいた。


「部屋、空いてるんです。家賃はいりません。その代わり、家の修繕をお願いしてもいいですか? あと漁の手伝いも。あ、食事も私が作ります。お互い合理的じゃないですか?」


 合理的。この女はいつも理屈をつける。だが目が全然合理的じゃない。海色の瞳が期待と不安できらきら揺れていて、見ていられない。


 根負けした。


「……好きにしろ」

「はいっ!」


 日々が形を成していく。


 早朝の漁。昼は家の修繕。柱の補強、屋根瓦の張り替え、縁側の板の交換。金槌が木を打つ音。とん、とん、とん。リズミカルに。汐音が織り機の前でミンサー織りをしている音が、隣の部屋から聞こえる。かたん、かたん。


 夕方になると汐音が台所に立つ。


「カミヤさーん、ご飯できましたよー」


 ゴーヤチャンプルー。もずくの天ぷら。アーサの味噌汁。ジューシー。刺身。島豆腐のサラダ。


 向かい合って食べる。テレビはつけない。窓から潮騒が聞こえる。箸が茶碗に触れる音。汐音がときどき「おいしいですか?」と聞いてくる。「……ああ」と答えると、花が咲いたみたいな顔をする。


 休日には、汐音に連れ出された。


 川平湾。グラスボートに乗せられた。船底のガラスの向こうに珊瑚と熱帯魚が見える。汐音が「きれい! カミヤさん見て見て!」とはしゃいでいる。俺は別に興味ない顔をしている。


 嘘だ。横目で見ている。魚じゃなく、はしゃいでいる汐音の横顔を。海色の瞳が水面の反射を受けて、万華鏡みたいに光を散らしている。


 市街地の商店街でソーキそばを食べた。汐音が「ここのが一番おいしいんです」と力説する店は、確かにうまかった。公設市場で汐音が大量のマンゴーを買い込む。「今が旬なんです! カミヤさん、持ってください」。俺は荷物持ちか。


 穏やかな日々だった。


 こんな時間が、俺の人生にあっていいのかと思うほど。


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