第4話:弁当から始まる、日常の魔法
あの港の一件から、女は——汐音は、何かと理由をつけて俺の前に現れるようになった。
朝、漁から戻ると桟橋にいる。
発泡スチロールの箱にアーサを入れて、食堂への納品がてら。ついでのように、もう一つ別の包みを差し出してくる。
「あの、これ……近所の方が作りすぎたって言うので」
弁当だった。おにぎりと、ゴーヤチャンプルーと、もずくの酢の物。
近所の人が作りすぎた。嘘だ。弁当箱にわざわざ紙のメモが挟んである。『今日のおにぎりの具は油味噌です! お魚は新鮮なのを選びました!』。字がやたら丁寧で、語尾にハートマークのスタンプが押してある。近所のおばちゃんがこんなメモ書くか。
最初は「いらねぇ」と断った。
翌日、「前のが余ったので」と別の弁当が来た。今度はソーキそばの弁当版みたいなもので、汁が漏れないように丁寧にラップで包んであった。メモには『スープが冷めないうちに食べてください!』。
さらに翌日。ジューシー(沖縄風炊き込みご飯)と紅芋の天ぷら。メモは『紅芋は今が旬です!』。
四日目に根負けした。
飯がうまいのだ。
ぶっきらぼうに「……もらう」と言ったら、汐音は海色の瞳をきらきらさせて「はいっ!」と答えた。太陽みたいな笑顔だった。
それから毎日、弁当が来る。
親方が桟橋の上でニヤニヤしている。「兄ちゃん、あの嬢ちゃんはお前の彼女か」。違う。断じて違う。
数日後。
「あの、カミヤさん。お願いがあるんですけど」
汐音が、いつもより少しだけ改まった顔で言った。
「うちの裏の水道管が壊れちゃって……修理できる人を探してるんですけど、カミヤさん、そういうの得意ですか?」
「……見るだけなら」
汐音の家を初めて訪れた。
港から原付で十分ほど。海沿いの細い道を行くと、潮騒がどんどん近づいてくる。木造平屋の古い家が見えた。壁は色褪せ、屋根瓦が何枚かずれている。庭にはアダンの木とブーゲンビリアが生い茂っていて、玄関には貝殻の風鈴がぶら下がっている。からん、と鳴った。
裏に回ると、確かに水道管が破裂していた。塩ビ管の継ぎ手部分にひびが入って、水がちょろちょろ漏れている。
不自然なひびだった。
何かで蹴ったような——足の形の凹みがある。
汐音を見た。汐音は目を逸らした。
……こいつ、自分で壊しやがったな。
言わなかった。ホームセンターで部品を買ってきて、直した。パッキンの交換と、継ぎ手の付け替え。三十分で終わった。
「すごい……! カミヤさん、何でもできるんですね!」
「パッキン替えただけだ」
ついでに目についた不具合を直した。壁板の剥がれ。網戸の破れ。蝶番の錆。この家、長い間一人で住んでいたらしく、あちこちにガタが来ている。
「あの、カミヤさん。よかったらお茶でも——」
居間に通された。
畳の部屋。作業台の上に、研磨途中の夜光貝。織り機が壁際に置いてある。ミンサー織りだ。スマホがスタンドに立てかけてあり、YouTubeの画面が映っている。
壁に赤いピンが無数に刺さった地図。そして——壁に貼られた、色褪せたスケッチ。
琥珀色の瞳の、少年の横顔。
足が止まった。
「……これ、誰だ」
汐音の顔が一瞬で赤くなった。
「えっ、あっ、それはっ——その、昔お世話になった方の、えっと、想像画です! 記憶が曖昧なので、想像で描いた、あの、えっと——」
慌ててスケッチの前に体を移動させ、両手を広げて隠そうとしている。逆に目立つ。
「……ふうん」
それ以上は追及しなかった。
さんぴん茶を出された。冷たくて、うまかった。
日を追うごとに、汐音は俺の生活に入り込んできた。
弁当だけでは飽き足らず、漁に使う道具の手入れセットを差し入れてきたり(「島の湿気で錆びやすいから」)、日焼け止めクリームを渡してきたり(「漁師さんは皮膚がんになりやすいって聞いたので」)。
そしてある日——
「カミヤさん、スマホ持ってないんですか?」
「ああ」
「え、ない……? 本当に?」
「必要ねぇから」
「必要です!」
翌日。汐音が新品のスマホを差し出してきた。
「これ、私の仕事用の予備なんですけど——じゃなくて、あの、緊急連絡用に持っておいたほうがいいと思って。漁は危険ですし。私がピン……じゃなくて、カミヤさんが海で何かあった時に連絡できないと困りますから!」
耳まで赤い。「私がピンチの時に」って言いかけたのを慌てて言い直したの、聞こえてるぞ。
「……使い方わかんねぇぞ」
「教えますっ!」
汐音が嬉しそうにスマホの操作を教えてくれた。隣に座って、画面を覗き込んでくる。近い。髪から潮と——ほんのりジャスミンの匂いがする。
登録された最初の連絡先は、汐音の番号だった。
「これで、いつでも連絡できますね」
いつでも連絡。お前にか。
「……ああ」
そして——気がついたら。
汐音の家の離れに住んでいた。
「部屋、空いてるんです。家賃はいりません。その代わり、家の修繕をお願いしてもいいですか? あと漁の手伝いも。あ、食事も私が作ります。お互い合理的じゃないですか?」
合理的。この女はいつも理屈をつける。だが目が全然合理的じゃない。海色の瞳が期待と不安できらきら揺れていて、見ていられない。
根負けした。
「……好きにしろ」
「はいっ!」
日々が形を成していく。
早朝の漁。昼は家の修繕。柱の補強、屋根瓦の張り替え、縁側の板の交換。金槌が木を打つ音。とん、とん、とん。リズミカルに。汐音が織り機の前でミンサー織りをしている音が、隣の部屋から聞こえる。かたん、かたん。
夕方になると汐音が台所に立つ。
「カミヤさーん、ご飯できましたよー」
ゴーヤチャンプルー。もずくの天ぷら。アーサの味噌汁。ジューシー。刺身。島豆腐のサラダ。
向かい合って食べる。テレビはつけない。窓から潮騒が聞こえる。箸が茶碗に触れる音。汐音がときどき「おいしいですか?」と聞いてくる。「……ああ」と答えると、花が咲いたみたいな顔をする。
休日には、汐音に連れ出された。
川平湾。グラスボートに乗せられた。船底のガラスの向こうに珊瑚と熱帯魚が見える。汐音が「きれい! カミヤさん見て見て!」とはしゃいでいる。俺は別に興味ない顔をしている。
嘘だ。横目で見ている。魚じゃなく、はしゃいでいる汐音の横顔を。海色の瞳が水面の反射を受けて、万華鏡みたいに光を散らしている。
市街地の商店街でソーキそばを食べた。汐音が「ここのが一番おいしいんです」と力説する店は、確かにうまかった。公設市場で汐音が大量のマンゴーを買い込む。「今が旬なんです! カミヤさん、持ってください」。俺は荷物持ちか。
穏やかな日々だった。
こんな時間が、俺の人生にあっていいのかと思うほど。




