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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第6章:しおさいブルー——月光の鱗と、錆びた風の行方

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第3話:人魚の少女を助けた、あの日の俺

 漁師の仕事は、二日目から見つかった。


 港の手配師——というほど大げさなもんでもない、漁協の事務所にいた日焼けした爺さん——に「働きたい」と言ったら、「明日の朝四時に第三桟橋に来い」とだけ返ってきた。面接も履歴書もない。この島では、働く意思と体力があれば、それで十分らしい。


 翌朝。まだ空が藍色の時間に桟橋に立つ。漁船のエンジンがぶるぶると震えている。潮の匂いが濃い。


 親方は五十過ぎの、やたら声のでかい男だった。


「兄ちゃん、網引けるか」

「やったことある」

「じゃあ乗れ」


 南城市で栄吉の船に乗っていた経験が活きた。網の引き方、魚の扱い、船上での体の使い方。体が覚えている。


「おう、やるじゃねぇか。本島で漁やってたのか」

「少しだけ」

「少しにしちゃ手際がいい。——気に入った。しばらくうちで使ってやるよ」


 ありがたかった。これで飯が食える。


 漁は午前中に終わる。昼過ぎ、港に戻って網を干す。日差しが強い。コンクリートの桟橋が白く照り返して、目を細めないと眩しい。網を広げる手に、潮水が乾いてざらつく感触。


 背後で、足音がした。


「すみませーん、アーサの納品に——」


 聞き覚えのある声。


 ——いや、聞き覚えなんてないはずだ。昨日今日島に来たばかりの俺に、知り合いなんていない。


 振り返った。


 発泡スチロールの箱を抱えた女が立っていた。お団子頭。青みがかった黒髪。白いTシャツに、藍色のロングスカート。


 目が合った。


 海色の瞳。


 透き通るような——水面みたいにきらきらと光を散らす、海の色。


 女の目が、まん丸に見開かれた。


 そして——。


 どさっ。


 発泡スチロールの箱が地面に落ちた。蓋が外れて、中からアーサが散乱する。緑色の海藻がコンクリートの上にべしゃっと広がる。


「あっ——」


 女が両手で口を押さえた。


「だ、だだだ大丈夫ですっ! あっ、いえ、大丈夫じゃないです、アーサがっ——あの、すす、すみません初めまして! 私この辺の者でしてっ!」


 声が裏返っている。目が泳いでいる。顔が——耳の先まで真っ赤だ。


 何だこの女。


 俺は黙ってしゃがみ、散らばったアーサを拾い始めた。海藻特有のぬめりが指に絡む。塩の匂い。砂粒が混じっている。


「あっ、す、すみません、自分でやりますっ——」


 女も慌ててしゃがむ。二人でコンクリートの上のアーサを拾い集める。


 指が——触れた。


 女の手と、俺の手が。アーサの束の上で。


 女が弾かれたように手を引いた。


 まるで火に触れたみたいな反応だった。顔が赤いを通り越して、もう紫に近い。


「っ——!」


 声にならない声を上げて、女は自分の手を胸に押し当てた。


 ……そこまで嫌だったか。


 アーサを箱に戻し、蓋を閉めて立ち上がる。「気をつけろ」。それだけ言って、背を向けた。


「あ、あの——」


 背中に、声が追いかけてきた。


「お名前、聞いてもいいですか……?」


 足が止まった。


 振り返る。女の海色の瞳が——真っ直ぐにこちらを見ていた。さっきまでの慌てぶりが嘘みたいに、その瞳だけは——ぶれていない。恐ろしいほど透明で、深い。


 海の底を覗き込んだような気がした。


 どこかで——見たことがある。この色。この瞳。


 いつだ。どこで。


「……カミヤ」


 名前だけ答えて、歩き出す。


 背後で、女が小さく復唱するのが聞こえた。


「カミヤ、さん……」


 その声が——なぜか。


 胸の奥の、ずっと閉じていた古い扉を、叩いた。


 ノックするみたいに。とん、と。


 足が止まりかけた。止まらなかった。そのまま歩いた。


 ——夜。


 民宿の畳の上で天井を見ていた。扇風機がぶぅんぶぅんと回っている。窓の外で蝉が鳴いている。じーーーーっ、と。まだ夏だ。


 目を閉じると、海色の瞳が浮かぶ。


 なんで覚えてるんだ。さっき会ったばかりの、名前も知らない女の瞳の色を。


 ——違う。「さっき会った」じゃない。


 もっと前から、知っている。


 俺の記憶の底で、何かが揺れている。水面下の影みたいに、輪郭がぼやけて捉えきれない。


 三百年前。


 石垣島。


 記憶が——繋がりかけている。


 目を閉じた。


 扇風機の音が遠くなる。蝉の声が遠くなる。


 ——暗い。


 水の匂いがする。潮風じゃない。もっと生々しい、磯の匂い。砂の匂い。血の匂い。


 波が足元を洗っている。浅瀬だ。水がぬるい。


 体が小さい。手も足も細い。十五の頃だ。


 放浪を始めて、まだ数ヶ月。人狼一家の三男として生まれ、家督を継げない身だと知った日に家を出た。兄たちの影で息を殺して生きるなんて、まっぴらだった。


 島を歩いていた。石垣島。船に乗って流れ着いた南の果ての島。暑くて、緑が濃くて、人間の匂いが薄い場所。


 浜辺を歩いていると——騒ぎ声が聞こえた。


「おい、逃がすな!」

「網を引け! もっと強く!」

「領主様に届けりゃ、大金になるぞ!」


 漁師が三人。何かを引きずっている。


 網に絡まった——小さな体。


 人魚だった。


 子供の人魚。腰から下が薄い水色の鱗に覆われた、尾鰭。人間の上半身は、まだ幼い少女のものだ。十歳くらいか。髪が潮で絡まり、腕に網の跡が赤くついている。鱗が何枚か剥がれて、血が滲んでいる。


 少女は泣いていなかった。


 ただ——大きな瞳で、漁師たちを見上げていた。


 海色の瞳。


 怯えてはいる。唇が震えている。でも——諦めてはいなかった。その瞳の奥に、まだ光があった。


 漁師たちが乱暴に縄で縛っている。少女の腕を後ろ手にねじ上げ、荷車の上に放り投げようとしている。


「おとなしくしろ! 暴れるな!」


 少女が声を上げた。言葉にならない、甲高い悲鳴。人間の声とは少し違う響き。海の生き物の声だ。


 漁師の一人が舌打ちした。「うるせぇ。口を塞げ」


 布を少女の口に押し込もうとする。


 十五のカミヤは——考えなかった。


 考えるより先に、体が動いていた。


 一人目の漁師の後頭部を掴み、地面に叩きつけた。べしゃ、と砂が飛ぶ。二人目が振り返る前に、腹に膝を入れた。ごっ、という鈍い音。三人目が棍棒を振り上げる。腕を取って投げた。背中から砂浜に落ちて、ぐえっ、と呻いた。


 三人とも動かなくなった。十秒もかかっていない。


 十五の俺は、すでに人間の大人より強かった。人狼の血は、幼くても人間を凌駕する。


 網を引き裂いた。素手で。編み目に爪を立てて、べりべりと。


 少女が自由になった。


 抱え上げた。軽い。驚くほど軽い。尾鰭が腕に当たって、ひんやりとした鱗の感触がした。


 海へ走った。砂浜を蹴って、波打ち際まで。水飛沫が上がる。


「――行け」


 それだけ言って、少女を海に放した。


 ざぱん。


 尾鰭が水面を叩いた。飛沫が白く弾ける。少女の体が水に沈みかけて——浮き上がる。


 少女がこちらを振り返った。


 琥珀色の瞳と、海色の瞳が交差した。


 波と波の間の、ほんの一瞬。


 少女の唇が動いた。何か言おうとした。


 俺は背を向けた。


 歩き出した。名乗りもしなかった。振り返りもしなかった。


 大したことじゃない。大人が子供をいじめているのが気に食わなかっただけだ。人魚だろうが人間だろうが関係ない。弱いものが虐げられているのを見ると、体が勝手に動く。昔からそうだ。


 砂浜を歩きながら、手についた鱗を見た。薄い水色。光の加減で、ほんの少し銀に光る。


 気にも留めなかった。


 あの日の——少女の顔を、思い出そうとして。


 思い出せなかった。


 だけど——瞳の色だけは。


 海色。


 あの——海の色だけは。


 ——記憶が、途切れた。


 目を開けた。


 扇風機が回っている。蝉が鳴いている。畳の匂い。民宿の天井。


 今——何を、思い出していた。


 三百年前。石垣島。浜辺で。漁師を殴って。人魚の子供を——


 海色の瞳。


 今日、港で会った女の、あの瞳と——。


 同じ色だ。


 ゆっくりと、起き上がった。


 心臓が鳴っている。静かに、でも確かに。


 あの女は——。


 まさか。


 まさか、な。


 窓の外で、波の音がしていた。三百年前と同じ波の音が。




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