第3話:人魚の少女を助けた、あの日の俺
漁師の仕事は、二日目から見つかった。
港の手配師——というほど大げさなもんでもない、漁協の事務所にいた日焼けした爺さん——に「働きたい」と言ったら、「明日の朝四時に第三桟橋に来い」とだけ返ってきた。面接も履歴書もない。この島では、働く意思と体力があれば、それで十分らしい。
翌朝。まだ空が藍色の時間に桟橋に立つ。漁船のエンジンがぶるぶると震えている。潮の匂いが濃い。
親方は五十過ぎの、やたら声のでかい男だった。
「兄ちゃん、網引けるか」
「やったことある」
「じゃあ乗れ」
南城市で栄吉の船に乗っていた経験が活きた。網の引き方、魚の扱い、船上での体の使い方。体が覚えている。
「おう、やるじゃねぇか。本島で漁やってたのか」
「少しだけ」
「少しにしちゃ手際がいい。——気に入った。しばらくうちで使ってやるよ」
ありがたかった。これで飯が食える。
漁は午前中に終わる。昼過ぎ、港に戻って網を干す。日差しが強い。コンクリートの桟橋が白く照り返して、目を細めないと眩しい。網を広げる手に、潮水が乾いてざらつく感触。
背後で、足音がした。
「すみませーん、アーサの納品に——」
聞き覚えのある声。
——いや、聞き覚えなんてないはずだ。昨日今日島に来たばかりの俺に、知り合いなんていない。
振り返った。
発泡スチロールの箱を抱えた女が立っていた。お団子頭。青みがかった黒髪。白いTシャツに、藍色のロングスカート。
目が合った。
海色の瞳。
透き通るような——水面みたいにきらきらと光を散らす、海の色。
女の目が、まん丸に見開かれた。
そして——。
どさっ。
発泡スチロールの箱が地面に落ちた。蓋が外れて、中からアーサが散乱する。緑色の海藻がコンクリートの上にべしゃっと広がる。
「あっ——」
女が両手で口を押さえた。
「だ、だだだ大丈夫ですっ! あっ、いえ、大丈夫じゃないです、アーサがっ——あの、すす、すみません初めまして! 私この辺の者でしてっ!」
声が裏返っている。目が泳いでいる。顔が——耳の先まで真っ赤だ。
何だこの女。
俺は黙ってしゃがみ、散らばったアーサを拾い始めた。海藻特有のぬめりが指に絡む。塩の匂い。砂粒が混じっている。
「あっ、す、すみません、自分でやりますっ——」
女も慌ててしゃがむ。二人でコンクリートの上のアーサを拾い集める。
指が——触れた。
女の手と、俺の手が。アーサの束の上で。
女が弾かれたように手を引いた。
まるで火に触れたみたいな反応だった。顔が赤いを通り越して、もう紫に近い。
「っ——!」
声にならない声を上げて、女は自分の手を胸に押し当てた。
……そこまで嫌だったか。
アーサを箱に戻し、蓋を閉めて立ち上がる。「気をつけろ」。それだけ言って、背を向けた。
「あ、あの——」
背中に、声が追いかけてきた。
「お名前、聞いてもいいですか……?」
足が止まった。
振り返る。女の海色の瞳が——真っ直ぐにこちらを見ていた。さっきまでの慌てぶりが嘘みたいに、その瞳だけは——ぶれていない。恐ろしいほど透明で、深い。
海の底を覗き込んだような気がした。
どこかで——見たことがある。この色。この瞳。
いつだ。どこで。
「……カミヤ」
名前だけ答えて、歩き出す。
背後で、女が小さく復唱するのが聞こえた。
「カミヤ、さん……」
その声が——なぜか。
胸の奥の、ずっと閉じていた古い扉を、叩いた。
ノックするみたいに。とん、と。
足が止まりかけた。止まらなかった。そのまま歩いた。
——夜。
民宿の畳の上で天井を見ていた。扇風機がぶぅんぶぅんと回っている。窓の外で蝉が鳴いている。じーーーーっ、と。まだ夏だ。
目を閉じると、海色の瞳が浮かぶ。
なんで覚えてるんだ。さっき会ったばかりの、名前も知らない女の瞳の色を。
——違う。「さっき会った」じゃない。
もっと前から、知っている。
俺の記憶の底で、何かが揺れている。水面下の影みたいに、輪郭がぼやけて捉えきれない。
三百年前。
石垣島。
記憶が——繋がりかけている。
目を閉じた。
扇風機の音が遠くなる。蝉の声が遠くなる。
——暗い。
水の匂いがする。潮風じゃない。もっと生々しい、磯の匂い。砂の匂い。血の匂い。
波が足元を洗っている。浅瀬だ。水がぬるい。
体が小さい。手も足も細い。十五の頃だ。
放浪を始めて、まだ数ヶ月。人狼一家の三男として生まれ、家督を継げない身だと知った日に家を出た。兄たちの影で息を殺して生きるなんて、まっぴらだった。
島を歩いていた。石垣島。船に乗って流れ着いた南の果ての島。暑くて、緑が濃くて、人間の匂いが薄い場所。
浜辺を歩いていると——騒ぎ声が聞こえた。
「おい、逃がすな!」
「網を引け! もっと強く!」
「領主様に届けりゃ、大金になるぞ!」
漁師が三人。何かを引きずっている。
網に絡まった——小さな体。
人魚だった。
子供の人魚。腰から下が薄い水色の鱗に覆われた、尾鰭。人間の上半身は、まだ幼い少女のものだ。十歳くらいか。髪が潮で絡まり、腕に網の跡が赤くついている。鱗が何枚か剥がれて、血が滲んでいる。
少女は泣いていなかった。
ただ——大きな瞳で、漁師たちを見上げていた。
海色の瞳。
怯えてはいる。唇が震えている。でも——諦めてはいなかった。その瞳の奥に、まだ光があった。
漁師たちが乱暴に縄で縛っている。少女の腕を後ろ手にねじ上げ、荷車の上に放り投げようとしている。
「おとなしくしろ! 暴れるな!」
少女が声を上げた。言葉にならない、甲高い悲鳴。人間の声とは少し違う響き。海の生き物の声だ。
漁師の一人が舌打ちした。「うるせぇ。口を塞げ」
布を少女の口に押し込もうとする。
十五のカミヤは——考えなかった。
考えるより先に、体が動いていた。
一人目の漁師の後頭部を掴み、地面に叩きつけた。べしゃ、と砂が飛ぶ。二人目が振り返る前に、腹に膝を入れた。ごっ、という鈍い音。三人目が棍棒を振り上げる。腕を取って投げた。背中から砂浜に落ちて、ぐえっ、と呻いた。
三人とも動かなくなった。十秒もかかっていない。
十五の俺は、すでに人間の大人より強かった。人狼の血は、幼くても人間を凌駕する。
網を引き裂いた。素手で。編み目に爪を立てて、べりべりと。
少女が自由になった。
抱え上げた。軽い。驚くほど軽い。尾鰭が腕に当たって、ひんやりとした鱗の感触がした。
海へ走った。砂浜を蹴って、波打ち際まで。水飛沫が上がる。
「――行け」
それだけ言って、少女を海に放した。
ざぱん。
尾鰭が水面を叩いた。飛沫が白く弾ける。少女の体が水に沈みかけて——浮き上がる。
少女がこちらを振り返った。
琥珀色の瞳と、海色の瞳が交差した。
波と波の間の、ほんの一瞬。
少女の唇が動いた。何か言おうとした。
俺は背を向けた。
歩き出した。名乗りもしなかった。振り返りもしなかった。
大したことじゃない。大人が子供をいじめているのが気に食わなかっただけだ。人魚だろうが人間だろうが関係ない。弱いものが虐げられているのを見ると、体が勝手に動く。昔からそうだ。
砂浜を歩きながら、手についた鱗を見た。薄い水色。光の加減で、ほんの少し銀に光る。
気にも留めなかった。
あの日の——少女の顔を、思い出そうとして。
思い出せなかった。
だけど——瞳の色だけは。
海色。
あの——海の色だけは。
——記憶が、途切れた。
目を開けた。
扇風機が回っている。蝉が鳴いている。畳の匂い。民宿の天井。
今——何を、思い出していた。
三百年前。石垣島。浜辺で。漁師を殴って。人魚の子供を——
海色の瞳。
今日、港で会った女の、あの瞳と——。
同じ色だ。
ゆっくりと、起き上がった。
心臓が鳴っている。静かに、でも確かに。
あの女は——。
まさか。
まさか、な。
窓の外で、波の音がしていた。三百年前と同じ波の音が。




