第2話:名も知らぬ恩人、ついに現る
朝の光が、潮騒と一緒に窓から転がり込んできた。
汐音はベッドの中で、スマホのアラームを止めた。画面に映るのは、今クールの恋愛ドラマのOPテーマ。甘いメロディがぷつりと途切れて、代わりに波の音が部屋を満たす。
ざざぁ……。ざざぁ……。
三百年、毎朝聴いてきた音。飽きない。たぶん、あと三百年聴いても飽きない。
「……ん」
起き上がる。髪がぼさぼさだ。青みがかった黒髪が肩に散らばって、寝癖が三方向に跳ねている。鏡を見て、どうでもいいか、と思う。どうせ今日も海に潜るのだから。
古い家だ。木造平屋。壁は潮風で色褪せ、柱は微かに軋む。でもWi-Fiは快適に飛んでいる。これだけは譲れない。三百年生きてきた中で、インターネットは人類最大の発明だと汐音は本気で思っている。不老不死の薬より、ネット通販のほうがよほど人生を豊かにする。
台所に立つ。やかんに水を入れ、ガスコンロに火をつける。ぼっ、と青い炎が揺れる。さんぴん茶のティーバッグをマグカップに放り込み、湯が沸くのを待つ間にスマホを開く。
ハンドメイドアプリの通知。夜光貝のペンダント、売れた。星5つのレビュー。「海の光をそのまま閉じ込めたみたいです! 大切にします」。
ふふ、と笑う。
そりゃそうだ。本物の人魚が、本物の深海で集めてきた夜光貝だ。人間が潜れない深さの、月の光だけが届く海底で——尾鰭で砂を払って見つけた、一級品の夜光貝。それを丁寧に研磨して、銀の金具をつけて、防水加工もばっちり。
石垣島のマーメイド・ジュエリー。ショップ名は「sionne's shell(汐音の貝殻)」。
レビュー平均星4.9。ありがたいことに、固定客もついている。これとアーサの卸と、ミンサー織りの副収入で、生活には困らない。人魚、意外と現代社会でやっていける。
やかんが鳴る。ぴぃぃぃ、と甲高い蒸気の音。
さんぴん茶を淹れて、縁側に出る。
海が、目の前に広がっている。
エメラルドグリーンから群青へのグラデーション。水平線の上に朝の雲が浮かんで、光が海面にちらちらと散っている。風がさわさわと庭のアダンの葉を揺らす。
三百年。この景色を見てきた。
一人で。
——ずっと、一人で。
さんぴん茶を一口飲んで、気持ちを切り替える。感傷に浸っている暇はない。今日も仕事がある。
昼は海だ。
素潜りでアーサとタコを獲る。人間の姿のまま海に入れるのは、太陽が出ている間だけ。月光さえ浴びなければ変身しない。だから昼間の海は、汐音のオフィスだ。
海に入ると、音が変わる。
地上の喧騒が遠ざかり、自分の呼吸だけが耳に響く。こぽ、こぽ、と泡が昇っていく。水の圧力が全身を抱きしめる。魚群がさらさらと横を通り過ぎる。珊瑚礁の隙間にタコの足が見える。
汐音は人間の姿のまま、普通の海女と変わらない動きで漁をする。でも、息が続く時間がちょっとだけ長い。ちょっとだけ深く潜れる。ちょっとだけ目がいい。
人魚の血は、海の中でこっそり有利に働く。
獲物を発泡スチロールの箱に詰めて、食堂に届ける。港近くの古い食堂。おばぁが一人で切り盛りしている。
「汐音ちゃん、今日も早いねぇ」
「おばぁ、おはよう。タコ、いいの獲れたよ」
「あいっ、助かるさ。——あ、そうそう」
おばぁがカウンターの向こうで、テレビのリモコンを片手に身を乗り出す。
「港にね、本島からの船が着いたって。若い兄ちゃんが原付で降りてきたって、うちの常連さんが言ってたよ」
「へぇ」
「なんでも、一人で旅してるって。イケメンだったって」
「ふうん」
特に気にも留めなかった。島には毎日のように人が来て、去っていく。観光客。バックパッカー。仕事探しの季節労働者。
汐音にとって、人間は——通り過ぎていくものだ。
ずっとそうだった。人間は来て、去って、老いて、死ぬ。汐音だけが残る。波のように繰り返される。だから深入りしない。おばぁにも、食堂の常連にも、親しくはするけど——心の奥までは入れない。入れたら、また一人になった時に辛いから。
午後。夜光貝の研磨をする。
居間の作業台に座り、ヤスリで貝殻の表面を削っていく。しゃりしゃり、しゃりしゃり。YouTubeのASMR動画をスマホから流しながら。雨音のASMR。ぱらぱら、しとしと。作業のBGMにちょうどいい。
壁を見る。
赤いピンが無数に刺さった島の地図。夜の安全ルート。屋根のある道。月光を避けられる抜け道。時間をかけて完成させた、「コンビニまで人魚にならずに行ける最短経路マップ」。
その隣に——一枚のスケッチ。
色褪せている。紙が黄ばんでいる。端が少し破れている。
幼い自分が、記憶を頼りに描いた絵。
琥珀色の瞳の——少年の横顔。
輪郭はもう曖昧だ。鼻の形も、口元も、髪の長さも、正確には覚えていない。でも——あの瞳の色だけは。
夏の夕方の麦茶みたいな、やわらかく深い琥珀色。
忘れたことがない。一日だって。
三百年前。
あの少年は——名前も名乗らなかった。
漁師たちに捕まって、縄で縛られて、荷車に乗せられようとしていた幼い自分を。乱暴に——でも確かに、助けてくれた。
「掴まってろ」
たった一言。
海に放してくれた。振り返りもしなかった。
あの背中を、三百年、追いかけている。
人間じゃなかった。あの少年の体から放たれていた生命力は、人間のそれとは桁が違った。海の中で振り返った瞬間、幼い汐音は本能で理解した。
——この人は、私と同じくらい長く生きる。
だから——いつか、また会える。
その確信だけを支えに、三百年を生きてきた。
恋愛ドラマを観た。少女漫画を読んだ。再会のシミュレーションは、もう数えきれないほどやった。
「運命の再会ですね」と微笑むパターン。
「ずっと探していました」と涙するパターン。
「あなたのことを忘れたことはありません」と静かに告げるパターン。
全部、完璧にリハーサルした。
大丈夫。次に会った時は、ちゃんとできる。
——そう思っていた。
夕方。夜光貝の納品先の土産物店に寄った帰り、商店街の裏路地を歩いていた。
買い物袋にはコンビニスイーツのプリンが二つ。今日の自分へのご褒美。夜光貝のペンダントが売れた記念。
路地の向こうに、原付が停まっていた。
古い。錆びている。十年以上は乗り込んだであろう、年季の入ったスーパーカブ。
その横に——男が立っていた。
黒髪。やや長め。鼻筋が通っていて、睫毛が長い。Tシャツとジーンズ。日焼けした腕。年は二十歳くらいに見える。
横顔が、夕日に照らされていた。
瞳が——光った。
琥珀色。
夏の夕方の麦茶みたいな、やわらかく深い色。
汐音の足が止まった。
心臓が——止まった。
比喩じゃない。一拍、確実に止まった。そして次の一拍が、耳の奥で爆発するみたいに鳴った。
とくん。
世界の音が——消えた。
商店街の喧騒が。三線の音が。観光客の笑い声が。全部、水の底に沈んだみたいに遠くなって。
聞こえるのは、自分の心臓の音だけ。
とくん。とくん。とくん。
壁のスケッチ。色褪せた紙。曖昧な輪郭。でも——あの瞳の色だけは。
同じだ。
同じ色だ。
男が原付に跨った。エンジンをかける。掠れた排気音。走り出す。路地の角を曲がって——消えた。
汐音は動けなかった。
膝が笑っている。手が震えている。呼吸を忘れていたことに気づいて、一気に息を吸い込む。むせた。
買い物袋の中のプリンが——潰れている。いつの間にか、握りしめていたらしい。
「——嘘」
声が出た。かすれて、裏返って、ぜんぜんドラマのヒロインみたいじゃない声。
「嘘、嘘、嘘」
家に帰った。走って帰った。サンダルが何回か脱げた。つま先を擦りむいた。気にしなかった。
玄関を開けて、サンダルを脱ぎ散らかして、居間に駆け込んで。
壁のスケッチの前に立った。
色褪せた琥珀色の瞳。
さっき見た、あの男の瞳。
重なった。
間違いない。間違えるはずがない。三百年、毎日見てきた色だ。朝起きるたびに確認してきた色だ。この色を忘れないように、忘れないように、って——。
膝が折れた。
畳の上に座り込んで、スケッチを見上げる。涙が出そうなのに出ない。笑いたいのに笑えない。叫びたいのに声が出ない。
三百年。
三百年、待った。
やっと。
やっと——来た。
スマホを握る手が震えている。何をどうすればいいのか分からない。連絡先も知らない。名前すら知らない。追いかければよかった。声をかければよかった。なのに体が動かなかった。
三百年分のシミュレーションが、全部——全部、吹き飛んだ。
「微笑むパターン」も「涙するパターン」も「静かに告げるパターン」も、全部無意味だった。本物を目の前にしたら、心臓が暴走して、足が根を生やして、プリンを潰すことしかできなかった。
恋愛ドラマ、嘘つき。
震える手でスマホを操作する。恋愛ドラマを再生する。画面の中のヒロインが、運命の再会を果たしたシーン。
「運命の人に会ったら、まず深呼吸して」
深呼吸した。
すぅー……はぁー……。
全然落ち着かない。
もう一回。
すぅー……はぁー……。
心臓がまだうるさい。とくん、とくん、とくん。こんなに自分の鼓動が耳障りだったことは、三百年で一度もない。
潰れたプリンの袋を開けて、スプーンですくって食べた。形が崩れたプリンは、味は変わらないのに、なんだか切ない。
窓の外で、波の音がしている。ざざぁ……ざざぁ……。
三百年、毎晩聴いてきた音。
でも今夜は——少しだけ、違う響きに聞こえた。
あの人が、同じ島にいる。
同じ波の音を聞いている。
同じ空気を吸っている。
汐音はスケッチを胸に抱いて、畳の上に横になった。
天井の木目が、涙で滲んで見えた。
「……会いに行かなきゃ」
声は、まだ震えていた。




