第1話:琥珀の記憶と、潮風の島
本作は、不老の人狼と人魚が、三百年の時を越えて再会する物語です。
南の島・石垣島を舞台に、孤独に生きてきた二人が、少しずつ距離を縮めていきます。
穏やかな日常と、避けられない過去、そして迫る脅威。
そのすべてを乗り越えた先にある「共に生きる」という選択を、見届けていただければ幸いです。
船が揺れるたびに、鎖が鳴った。
がちゃん、がちゃん、と。原付を固定したチェーンが、鉄の床板に当たるリズム。三日間、ずっとこの音を聴いている。波が船体を叩く鈍い音と、機関室から響く低い唸り。船員たちの怒声と、ウインチが巻き上げる鉄のきしみ。
貨物船『飛鳥丸』は、フェリーとは別の生き物だった。
優雅さなんてどこにもない。むき出しの配管。錆びた甲板。油と潮の入り混じった匂いが肺にこびりつく。船員たちは無口で、カミヤに必要以上の関心を持たなかった。飯は質素で、仕事は体力がいる。それでいい。余計な会話がないのは、ありがたかった。
甲板の錆を落とす。
ワイヤーブラシで鉄の表面をこすると、赤茶けた粉が風に舞って海に散る。ごりごり、ごりごり、と。単純な反復運動。何も考えなくていい。腕を動かしているだけでいい。
——なのに、考えてしまう。
ポケットの中の画用紙。胸に近いほうに入れた、あの絵。
『おにいちゃん また きてね みおん』
「き」の字を二回消して書き直した、あの丁寧な筆跡。
もう何百キロ離れたか分からない。那覇の借家も、ハイビスカスの庭も、味噌汁の匂いも、風鈴の音も。瑠花の笑い皺も、結菜のへの字の口も、海音の日焼けした小さな手も。
全部、船の後ろに置いてきた。
それでいい。そうするしかなかった。
錆を落とす手が止まらない。止めたら考えるから。
夜は、船倉の隅で体を丸めて寝る。毛布一枚。枕は自分のリュック。船員用の寝台を勧められたが断った。狭い場所で他人と寝るのは性に合わない。
眠れない夜が続いた。
影の中で、玄が鼻先だけ出して俺の足首に擦りつける。お前も眠れないのか。返事はしない。ただ、影の中の密度がわずかに温かくなる。こいつなりの寄り添い方だ。
三日目の朝。
水平線に、島影が浮かんだ。
船長が操舵室から顔を出す。「見えたか。石垣島だ」
低い島影。青い海に浮かぶ、濃い緑の塊。空は高く、雲が白く、光が強い。沖縄本島とも違う、もっと南の——原始的な光だ。
甲板に出て、島を見た。
その瞬間——
全身の毛が、逆立った。
比喩じゃない。腕の産毛が、うなじの髪が、物理的にざわりと立ち上がった。人狼の本能が反応している。何に? この島に。この島の——空気に。
知っている。
この匂いを。この潮の混ざり方を。風の温度を。
来たことがある。ずっと昔に。いつだ。五十年前か。百年前か。もっと前か。
記憶が曖昧だ。長く生きすぎると、過去の風景が水彩画みたいに滲んで重なる。どの島がどの記憶で、どの海がいつの海なのか、判別がつかなくなる。
でも——体は覚えている。
鼻腔の奥で、何かが疼く。懐かしいような。苦いような。甘いような。
思い出せない。
「おい、荷降ろし手伝え」
船長の声で意識が戻った。感傷に浸っている暇はない。
原付を降ろし、チェーンを外す。甲板から桟橋に渡る鉄板の上を押して歩くと、タイヤが金属を噛んでがたがたと鳴った。
石垣島の港。
本島の泊港よりずっと小さい。漁船が並び、台車がコンクリートの上をガラガラと転がっている。カモメが騒がしい。魚の匂いと、潮の匂いと、アスファルトの照り返し。八月の終わり。まだ夏は死んでいない。
船長に礼を言い、港を出た。
原付のエンジンをかける。掠れた排気音が喉を震わせるように鳴った。十五年選手のポンコツだが、まだ走る。こいつだけは、ずっと一緒だ。
所持金を数えた。栄吉がねじ込んでくれた茶封筒の中身と、漁師の日当の残り。三ヶ月は厳しいが、一ヶ月なら食える。仕事を見つけなければ。漁師の手伝いか。土方か。この島にも手配師はいるだろう。
市街地に向かって走る。
石垣島の道は、本島より狭い。ガジュマルの木が道路に覆いかぶさるように枝を伸ばし、木漏れ日が路面にちらちらと揺れる。シーサーが門柱の上から睨んでいる。赤瓦の屋根。コンクリートブロックの塀。ブーゲンビリアが鮮やかに咲き乱れている。
南国の匂いだ。本島と似ているが、もっと濃い。もっと野性的。
どこかの土産物店から三線の音が聞こえる。観光客がぞろぞろと歩いている。レンタカーのナンバーが「わ」ばかり並ぶ。
俺には関係ない世界だ。
信号待ちで停まった。
交差点。横断歩道。日差しが白くアスファルトを焼いている。
ふと——視界の端を、何かが横切った。
青みがかった黒髪。お団子にまとめた後れ毛が、風に揺れている。白いワンピース。日焼けしていない、やけに白い腕。買い物袋を両手に提げて、横断歩道を渡っていく。
見えたのは後ろ姿だけだ。
なのに——心臓が、跳ねた。
一拍、止まって、次の一拍が倍の強さで胸を叩いた。
なんだ。
何だ、今のは。
信号が青に変わる。後ろのレンタカーがクラクションを鳴らす。
振り返った。横断歩道の向こう——もういない。人混みに紛れて消えた。
「……なんだ、今の」
声が、自分でも驚くほど掠れていた。
心臓がまだ速い。知らない女の後ろ姿を見ただけで、こんな反応をする理由がない。ないはずだ。
原付を走らせる。アクセルを回す手が、微かに汗ばんでいる。
影の中で、玄がぼそりと呟いた。
『——知ってるぞ、あの匂い』
うるせぇ。聞こえなかったことにした。
港町の宿を探す。観光客向けのリゾートホテルなんか払えない。路地裏の民宿。一泊素泊まり二千五百円。エアコンは壊れているが扇風機がある。窓を開ければ潮風が入る。十分だ。
畳の上にリュックを降ろし、仰向けに寝転がった。天井の染みを見る。扇風機が首を振るたびに、ぶぅん、ぶぅん、と空気を掻く音がする。
——あの後ろ姿。
忘れられない。忘れたいのに、瞼の裏に焼きついている。
青みがかった黒髪。白い腕。風に揺れた後れ毛。
どこかで見た。いつか会った。ずっと昔に。
思い出せ。
思い出せない。
この島には——何かがある。
扇風機の風が、畳の上のリュックの紐を揺らした。ポケットの中で、画用紙と巻貝が微かに触れ合う音がした。
夕方の光が窓から差し込んで、琥珀色に染まっていく。
俺の瞳と、同じ色。
目を閉じた。
波の音が、遠くから聞こえていた。




