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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第6章:しおさいブルー——月光の鱗と、錆びた風の行方

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第1話:琥珀の記憶と、潮風の島

本作は、不老の人狼と人魚が、三百年の時を越えて再会する物語です。

南の島・石垣島を舞台に、孤独に生きてきた二人が、少しずつ距離を縮めていきます。


穏やかな日常と、避けられない過去、そして迫る脅威。

そのすべてを乗り越えた先にある「共に生きる」という選択を、見届けていただければ幸いです。

 船が揺れるたびに、鎖が鳴った。


 がちゃん、がちゃん、と。原付を固定したチェーンが、鉄の床板に当たるリズム。三日間、ずっとこの音を聴いている。波が船体を叩く鈍い音と、機関室から響く低い唸り。船員たちの怒声と、ウインチが巻き上げる鉄のきしみ。


 貨物船『飛鳥丸』は、フェリーとは別の生き物だった。


 優雅さなんてどこにもない。むき出しの配管。錆びた甲板。油と潮の入り混じった匂いが肺にこびりつく。船員たちは無口で、カミヤに必要以上の関心を持たなかった。飯は質素で、仕事は体力がいる。それでいい。余計な会話がないのは、ありがたかった。


 甲板の錆を落とす。


 ワイヤーブラシで鉄の表面をこすると、赤茶けた粉が風に舞って海に散る。ごりごり、ごりごり、と。単純な反復運動。何も考えなくていい。腕を動かしているだけでいい。


 ——なのに、考えてしまう。


 ポケットの中の画用紙。胸に近いほうに入れた、あの絵。


『おにいちゃん また きてね  みおん』


「き」の字を二回消して書き直した、あの丁寧な筆跡。


 もう何百キロ離れたか分からない。那覇の借家も、ハイビスカスの庭も、味噌汁の匂いも、風鈴の音も。瑠花の笑い皺も、結菜のへの字の口も、海音の日焼けした小さな手も。


 全部、船の後ろに置いてきた。


 それでいい。そうするしかなかった。


 錆を落とす手が止まらない。止めたら考えるから。


 夜は、船倉の隅で体を丸めて寝る。毛布一枚。枕は自分のリュック。船員用の寝台を勧められたが断った。狭い場所で他人と寝るのは性に合わない。


 眠れない夜が続いた。


 影の中で、クロが鼻先だけ出して俺の足首に擦りつける。お前も眠れないのか。返事はしない。ただ、影の中の密度がわずかに温かくなる。こいつなりの寄り添い方だ。


 三日目の朝。


 水平線に、島影が浮かんだ。


 船長が操舵室から顔を出す。「見えたか。石垣島だ」


 低い島影。青い海に浮かぶ、濃い緑の塊。空は高く、雲が白く、光が強い。沖縄本島とも違う、もっと南の——原始的な光だ。


 甲板に出て、島を見た。


 その瞬間——


 全身の毛が、逆立った。


 比喩じゃない。腕の産毛が、うなじの髪が、物理的にざわりと立ち上がった。人狼の本能が反応している。何に? この島に。この島の——空気に。


 知っている。


 この匂いを。この潮の混ざり方を。風の温度を。


 来たことがある。ずっと昔に。いつだ。五十年前か。百年前か。もっと前か。


 記憶が曖昧だ。長く生きすぎると、過去の風景が水彩画みたいに滲んで重なる。どの島がどの記憶で、どの海がいつの海なのか、判別がつかなくなる。


 でも——体は覚えている。


 鼻腔の奥で、何かが疼く。懐かしいような。苦いような。甘いような。


 思い出せない。


「おい、荷降ろし手伝え」


 船長の声で意識が戻った。感傷に浸っている暇はない。


 原付を降ろし、チェーンを外す。甲板から桟橋に渡る鉄板の上を押して歩くと、タイヤが金属を噛んでがたがたと鳴った。


 石垣島の港。


 本島の泊港よりずっと小さい。漁船が並び、台車がコンクリートの上をガラガラと転がっている。カモメが騒がしい。魚の匂いと、潮の匂いと、アスファルトの照り返し。八月の終わり。まだ夏は死んでいない。


 船長に礼を言い、港を出た。


 原付のエンジンをかける。掠れた排気音が喉を震わせるように鳴った。十五年選手のポンコツだが、まだ走る。こいつだけは、ずっと一緒だ。


 所持金を数えた。栄吉がねじ込んでくれた茶封筒の中身と、漁師の日当の残り。三ヶ月は厳しいが、一ヶ月なら食える。仕事を見つけなければ。漁師の手伝いか。土方か。この島にも手配師はいるだろう。


 市街地に向かって走る。


 石垣島の道は、本島より狭い。ガジュマルの木が道路に覆いかぶさるように枝を伸ばし、木漏れ日が路面にちらちらと揺れる。シーサーが門柱の上から睨んでいる。赤瓦の屋根。コンクリートブロックの塀。ブーゲンビリアが鮮やかに咲き乱れている。


 南国の匂いだ。本島と似ているが、もっと濃い。もっと野性的。


 どこかの土産物店から三線の音が聞こえる。観光客がぞろぞろと歩いている。レンタカーのナンバーが「わ」ばかり並ぶ。


 俺には関係ない世界だ。


 信号待ちで停まった。


 交差点。横断歩道。日差しが白くアスファルトを焼いている。


 ふと——視界の端を、何かが横切った。


 青みがかった黒髪。お団子にまとめた後れ毛が、風に揺れている。白いワンピース。日焼けしていない、やけに白い腕。買い物袋を両手に提げて、横断歩道を渡っていく。


 見えたのは後ろ姿だけだ。


 なのに——心臓が、跳ねた。


 一拍、止まって、次の一拍が倍の強さで胸を叩いた。


 なんだ。


 何だ、今のは。


 信号が青に変わる。後ろのレンタカーがクラクションを鳴らす。


 振り返った。横断歩道の向こう——もういない。人混みに紛れて消えた。


「……なんだ、今の」


 声が、自分でも驚くほど掠れていた。


 心臓がまだ速い。知らない女の後ろ姿を見ただけで、こんな反応をする理由がない。ないはずだ。


 原付を走らせる。アクセルを回す手が、微かに汗ばんでいる。


 影の中で、クロがぼそりと呟いた。


『——知ってるぞ、あの匂い』


 うるせぇ。聞こえなかったことにした。


 港町の宿を探す。観光客向けのリゾートホテルなんか払えない。路地裏の民宿。一泊素泊まり二千五百円。エアコンは壊れているが扇風機がある。窓を開ければ潮風が入る。十分だ。


 畳の上にリュックを降ろし、仰向けに寝転がった。天井の染みを見る。扇風機が首を振るたびに、ぶぅん、ぶぅん、と空気を掻く音がする。


 ——あの後ろ姿。


 忘れられない。忘れたいのに、瞼の裏に焼きついている。


 青みがかった黒髪。白い腕。風に揺れた後れ毛。


 どこかで見た。いつか会った。ずっと昔に。


 思い出せ。


 思い出せない。


 この島には——何かがある。


 扇風機の風が、畳の上のリュックの紐を揺らした。ポケットの中で、画用紙と巻貝が微かに触れ合う音がした。


 夕方の光が窓から差し込んで、琥珀色に染まっていく。


 俺の瞳と、同じ色。


 目を閉じた。


 波の音が、遠くから聞こえていた。


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