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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第5章:ちりん、と鳴った夏の終わり

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第17話:ちりん、と鳴った夏の終わり

 港に着いた。


 那覇の泊港。白いフェリーが岸壁に横付けされていて、乗船口にぽつぽつと人が並んでいる。だが、カミヤが向かう先は——その奥だった。


 栄吉の紹介状を握りしめて、港湾労働者の出入り口をくぐる。観光客の列とは違う、薄暗い通路。むき出しの配管と、潮と油の匂い。


 貨物船『飛鳥丸』は、白いフェリーよりもずっと無骨だった。


 鋼鉄の船体に、無数の傷と錆。甲板には積み上げられたコンテナ。船尾には「石垣島」の文字。


 船長——比嘉栄吉の知り合いという初老の男が、鉄製の階段の上からカミヤを見下ろした。


「栄吉さんからの伝言か。ああ、きたな。——荷物は?」

「これだけです」


 原付をチェーンで固定した。普通の貨物船。普通の乗船。ただ、金を払う代わりに労働を提供するという約束。


 石垣島までの三日間。網の修理。機器の手入れ。甲板の清掃。


 普通の仕事だ。


「出港は一時間後だ。その間に、お前の相棒をもっと奥に置いておこう。揺れるが、文句は言うなよ」


 船長が去った。甲板に、カミヤ一人が残された。


 金はある。一ヶ月分の漁師の日当から、生活費を除いた残り。栄吉が「取っとけ」と上乗せしてくれた分もある。最後の日に、茶封筒にねじ込んで渡してきた。


「またいつでも来い。——網引きなら、いつでも仕事はある」


 栄吉のぶっきらぼうな声が、耳に残っている。


 ポケットに手を入れた。

 何かが触れた。紙の感触。


 取り出した。

 折りたたまれた画用紙だった。


 いつの間に——

 リュックのポケットに入っていたのだろう。今朝、荷物をまとめているときには気づかなかった。海音が、いつ忍ばせたのか。


 広げた。


 クレヨンの絵だった。


 家が描いてある。おんぼろの借家。赤い屋根に、青い空。庭にハイビスカス。


 家の前に、四人の人間が並んでいた。


 一番右に、背の高い女の人。黒い髪。笑っている。——瑠花だ。


 その隣に、少し背の低い女の子。黒いボブカット。口がへの字。でも目が笑っている。——結菜だ。


 そのまた隣に、一番小さい女の子。丸い顔。鼻の頭にオレンジの丸。日焼け。口が全開で笑っている。——海音だ。


 そして、一番左に。


 黒い髪で、目が——黄色く塗られた、男の人が描いてある。琥珀色の瞳。クレヨンでは琥珀色は出せないから、海音なりに一番近い黄色を選んだのだろう。


 その男の人は——笑っていた。


 下手くそな字で、絵の下に書いてあった。

『おにいちゃん また きてね  みおん』


 折りたたんだ跡がある。何度も折ったり広げたりした跡。何度も書き直した跡。「きてね」の「き」が二回消されて書き直してある。丁寧に、一生懸命に書いたのだ。


 視界が、滲んだ。

 甲板の景色が歪む。積み上げられたコンテナが揺れる。空が歪む。海が歪む。


 三百年で——二度目の涙だった。


 画用紙を握る手が震えた。クレヨンの匂いがした。海音の手の温もりがまだ残っているような気がした。小さな手。日焼けした手。俺のシャツをぎゅっと掴んだ手。


 影の中で、五匹の狼が静かに寄り添っていた。


 クロが、影の中から鼻先だけを出した。俺の足首に擦りつけた。


 シロガネが微かに鳴いた。


 キバが、がたいの大きな体を丸めるようにして黙っていた。


 カゲは——いつも通り沈黙していたが、影の中の密度が、わずかに変わった。こいつなりの寄り添い方だ。


 ツキが甘えるように、一番小さな声で鳴いた。さっきまで海音の布団の影から見守っていた、あの声と同じ響きだった。


 こいつらも——泣いているのだ。


「……面倒くせぇな」


 いつもの口癖を言った。


 声が、震えていた。


 掠れて、裏返って、三百年の化け物が吐く声じゃなかった。二十歳に見える外見通りの——いや、それよりもっと幼い、少年みたいな、壊れかけの声だった。


 画用紙をもう一度丁寧に折って、ポケットに戻した。胸に近いほうのポケット。心臓のすぐ上。


 隣のポケットには、淡いピンクの巻貝。


 ——また来てね。


 嘘をついたのかもしれない。三百年の旅は、同じ場所に戻ることを許さないと、ついさっき自分で思ったばかりだ。


 でも。


 たぶん——


 いつか、戻る。


 五年後か。十年後か。二十年後か。


 海音が大人になった頃。結菜が誰かと幸せになった頃。瑠花が——俺の言った通り、一緒に歳を取れる相手を見つけた頃。


 そのときに。


 原付で、あの借家の前を通るかもしれない。通り過ぎるだけかもしれない。でも——あの庭のハイビスカスと、風鈴の音と、味噌汁の匂いを確かめるために。


 一度だけ。原付のスピードを落とすかもしれない。


 甲板から、港の方を見た。


 フェリーは、相変わらず岸壁に横付けされたままだ。乗客たちが、のんびりと階段を上っていく。


『飛鳥丸』は違う。貨物船だ。時間に厳格だ。


 船長が再び現れて、「準備はいいか」と声をかけた。


 カミヤは頷いた。


 鉄製の階段を降り、船の奥へ進む。機関室の音。船員たちの掛け声。バリバリという信号音。


 甲板に戻ると、ロープが岸壁から外されていた。


 既に、貨物船は岸から離れかけていた。


 ゆっくりと、鈍い機械音を立てて。


 フェリーとは違う。こちらは——労働者の乗り物だ。観光客のための気取った汽笛ではなく、業務的な掛け声。作業用のエンジン音。鎖の軋む音。


 船が、港を離れていく。


 那覇の街並みが、遠ざかっていく。


 あの借家がある方角も、見えなくなっていく。


 夏の光が海を白く燃やしている。空気は湿り、潮の匂いが肺を満たす。八月の最後の日。沖縄の夏はまだ終わらないが——俺の夏は、今日、終わった。


 船が、沖へ向かって航行を続ける。


 甲板には、カミヤ以外の船員がいない。


 彼が、一人、船尾に立った。


 夏の光。白い船。青い海。


 そして——もう見えない、借家の方角から。


 ぽかり、ぽかりと。


 波が船体に当たる音。


 機関部からの、鈍い振動。


 ロープが風になびく、かすかなさらさらという音。


 そんな中で——


 風鈴の音が、混じった気がした。


 ちりん。


 空耳だ。こんな距離で聞こえるはずがない。


 港からも、もう何キロ離れている。


 でも——聞こえた。


 たしかに、聞こえた。


 船が、沖へ、沖へと進んでいく。


 甲板の影の中で、五匹の狼が静かに寄り添っていた。


 もう一度だけ。


 ちりん。


 さよならとも。


 いってらっしゃいとも。


 聞こえる、その音で——


 夏が、終わった。


 —


 **(了)**



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