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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第5章:ちりん、と鳴った夏の終わり

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第16話:触れる距離、重なる唇——しんと静まった世界

 借家の前に、原付が停まっていた。


 荷台にリュックをくくりつけた。ゴムバンドで固定する。いつもの作業。何百回とやってきた、旅立ちの儀式。


 蝉が鳴いている。じわじわと、夏の最後の力を振り絞るように。空は高く、雲は白く、アスファルトの上に陽炎がゆらゆらと立ち昇っている。七月にこの島に来たときと、同じ景色。


 けれど、まるで違う景色だった。


 子供たちの姿はなかった。


 栄吉が朝のうちに連れ出してくれた。「今日は船に乗せてやる」と言って、海音の手を引いていった。海音は泣きながらも、ターチーに会えると聞いて少しだけ目を輝かせた。結菜は黙ってついていった。玄関を出る直前に、一度だけ振り返った。俺と目が合った。何も言わなかった。


 栄吉なりの気遣いだった。


 瑠花と二人きりにしてくれたのだ。


 借家の玄関先。日陰になった軒下に瑠花が立っていた。エプロンは外していた。白いリネンのブラウス。一ヶ月前と同じ服。洗い込んで少しくたびれた、けれど清潔な服。


 風が吹いた。庭のハイビスカスの花が揺れ、赤い花弁が一枚、アスファルトに落ちた。


 俺は原付に跨がった。


 キーを差し込む。エンジンをかけようとして——


 止まった。


 手が、動かなかった。


 ハンドルを握る指が白くなるほど力が入っているのに、キーを回せなかった。


 バックミラーに映る自分の顔。ヘルメットはまだ被っていない。琥珀色の瞳が、揺れている。


 三百年の間、何十回も繰り返してきた別れだ。街を出る。人を置いていく。振り返らない。それがルールだった。


 なのに——


「……瑠花」


 名前を呼んだ。


 初めてだった。


 いつも「あんた」か「おい」だった。名前を呼んだら、距離が近くなる。距離が近くなったら、離れるのが痛くなる。だから呼ばなかった。


 でも、もう——呼ばずにはいられなかった。


 瑠花が息を呑んだのが、音で——いや、空気の振動で——わかった。


 俺は原付の上で前を向いたまま、言った。


「いい人間を、見つけろ」


 声が低い。自分でも聞き取れるか怪しいくらいの。


「一緒に歳を取れるやつを。……あんたは、そうするべきだ」


 蝉の声が、遠くなった。


 世界の音がすべて薄れて、背中越しに聞こえる瑠花の呼吸だけが残った。


「……うん」


 瑠花の声だった。


 震えてはいなかった。おそろしいほどの、凪いだ声だった。


「わかってる」


 泣きそうなのを——必死にこらえた声。俺にはわかった。一ヶ月間、この女がどんなふうに感情を押し殺すか、見てきたから。パートで理不尽なことを言われた日も、元夫の記憶がフラッシュバックした夜も、瑠花はこうやって声を平らにする。笑顔を作る。壊れないように。


 笑っているのだろう。


 振り返らなくても、わかった。


 振り返ったら——もう、行けなくなる。


 俺は原付を降りた。


 ヘルメットをハンドルに掛け、瑠花の前に立った。


 近い。腕を伸ばせば届く距離。瑠花の瞳に俺の顔が映っている。琥珀色の瞳と、瑠花の黒い瞳が、至近距離で向かい合った。


「一個だけ、わがまま言っていいか」


 瑠花がまばたきをした。


 返事を待たなかった。


 右手が伸びた。瑠花の頬に触れた。乾いた掌。漁と日雇いで荒れた指先。でも——できるだけ、優しく触れた。壊れ物に触れるみたいに。


 瑠花の頬は温かかった。夏の日差しで上気した、柔らかい肌。


 俺の掌は——たぶん、もっと温かい。人狼の体温。人間より二度高い。その熱が瑠花の頬に伝わったとき、瑠花の睫毛が一度だけ震えた。


「カミヤ、くん——」


 名前が空気に溶ける前に。


 唇を重ねた。


 ——しん、と。


 世界が、静まった。


 蝉の声が消えた。風の音が消えた。波も、鳥も、車も、何もかもが消えて。


 ただ——唇の温度だけが、あった。


 短く。けれど、深く。


 三百年分の孤独を、たった一度の口づけに込めるなんて、できるはずがない。できるはずがないのに、そうしようとしている自分がいた。


 瑠花の唇は柔らかかった。少しだけ、さんぴん茶の味がした。今朝、一緒に飲んだ。最後のさんぴん茶。


 近すぎて——瑠花の睫毛の一本一本が見えた。長い睫毛が震えている。ぎゅっと目を閉じている。涙が睫毛の縁に溜まって、光の粒みたいに揺れている。


 離れた。


 唇が離れる瞬間、空気が震えた。何かが繋がっていたものが、ぷつりと切れる——そんな小さな音が、聞こえた気がした。


 瑠花の頬を、涙が伝っていた。


 笑っていた。笑顔のまま、泣いていた。


 決壊した。あんなに堪えていたのに。一粒が落ちたら止まらなくなったのだろう。次から次へと涙が頬を伝い、顎先から落ち、白いブラウスに小さな染みを作った。


「……ずるいよ、カミヤくん」


 声が潤んでいた。笑って、泣いて、それでも崩れずに立っている。この女は——最後まで、強い女だった。


「ああ。……ずるい男だ」


 俺は手を離した。


 瑠花の温もりが掌から消えていく。残っているのは、指先に残った涙の湿りだけ。


 振り返った。原付に跨がった。ヘルメットを被った。


 キーを回す。


 ぽとぽとぽと、と。原付のエンジンが、控えめな音を立てた。長年乗っているポンコツの、聞き慣れた音。


 走り出した。


 風が顔を打つ。ヘルメットの隙間から、潮の匂いと、さとうきび畑の青い匂いが入り込んでくる。道の両側に、背の高い茎がざわざわと揺れている。さっきまでそこにあった日常が、一秒ごとに遠ざかっていく。


 バックミラーを見た。


 瑠花が手を振っていた。


 借家の前の道に立って、右手を高く上げて、大きく、大きく振っていた。笑顔だった。涙の跡が残った笑顔。白いブラウスが風に揺れている。ハイビスカスの赤い花が、その足元に落ちている。


 小さくなっていく。


 バックミラーの中で、瑠花の姿がどんどん小さくなっていく。道がカーブして、さとうきび畑の向こうに消えていく。


 見えなくなった。


 見えなくなっても——手を振っているのが、わかった。


 俺の、人狼の聴覚が。


 遠ざかる借家の方角から、瑠花の嗚咽を——拾っていた。


 もう姿は見えないのに。もう声が届く距離ではないのに。


 超人的な聴覚が、容赦なく、瑠花の泣き声を耳に届ける。


 ヘルメットの中で、視界がにじんだ。


 三百年で——初めて。


 涙が出た。



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