第15話:海音の泣き止められない別れ——行かないで、兄ちゃん
朝日が窓から射し込んで、畳の上に四角い光を落としていた。
蝉が鳴いている。八月の終わりの蝉は、盛夏のそれとは声が違う。どこか急いている。残り少ない夏を惜しむように、一声一声が切迫している。
俺は六畳間で荷物をまとめていた。
荷物は少ない。旅に出たときと、ほとんど変わらない量だ。着替えが二組。タオル。歯ブラシ。栄吉にもらった釣りの本。それから——ポケットの中の、淡いピンクの巻貝。海音が最初の日にくれたやつ。
それだけだ。
一ヶ月もこの家にいたのに、荷物は増えなかった。物は増えなかった。
増えたのは——荷物にならないものだけだった。
リュックを背負い、部屋を見回した。日焼けした畳。窓の外に見える庭。風鈴がゆっくり揺れている。この部屋は、瑠花の祖母が使っていた部屋だという。二年前に亡くなった人の部屋に、三百年生きてる化け物が転がり込んでいた。おかしな話だ。
居間に出た。
台所から、味噌汁の匂いがしていた。
いつも通りの朝。いつも通りの匂い。瑠花がまな板の上できゅうりを叩いている音。とん、とん。ちゃぶ台の上には、もう白いご飯がよそってある。四人分——ではなく。
四人分、だった。まだ。
「おはよう」
瑠花が振り向いた。
笑っていた。いつもの笑顔。でも目が——ほんの少しだけ腫れている。泣いたのだ。昨夜。俺が縁側で月を見ていた、その壁の向こうで。
気づかないふりをした。気づいたら、もう行けなくなる。
「……おはよう」
俺が居間のちゃぶ台の前に座ろうとした瞬間、廊下を走る足音が響いた。ぱたぱたぱたぱた、と。裸足の、軽い足音。
「お兄ちゃんっ!!」
海音が飛び込んできた。
俺のリュックを見た瞬間、目の色が変わった。さっきまで寝ぼけていた顔が、一瞬で凍りついた。八歳の子供が浮かべていい表情じゃなかった。
「——やだ」
声が、震えていた。
「お兄ちゃん、行っちゃやだ!」
小さな体が俺の腰に衝突した。両腕がぎゅうっと巻きつく。顔を俺のシャツに押しつけて、ぼろぼろと泣き始めた。
「行かないで……行かないでよぉ……」
声がくぐもっている。布に吸い込まれて、嗚咽に変わる。小さな肩がひくひくと震えている。
胸の奥が——千切れるように、痛んだ。
「海音、ほら、離れなさい——」
瑠花が台所から出てきたが、自分も目が潤んでいる。海音を引き剥がそうとして、でも力が入らない。
「やだやだやだっ! お父さんもいなくなったのに、お兄ちゃんまでいなくなっちゃやだ!!」
——お父さんも。
その一言が、えぐった。
この子の中で、俺は——父親の不在と同じ場所に入っていたのか。来て、信頼して、いなくなる。同じパターン。同じ裏切り。
裏切るつもりはなかった。でも、結果は同じだ。
廊下の奥から、結菜が出てきた。
黒いボブカットが朝の光を受けて、少し茶色く透けている。パジャマのまま。裸足。
海音の泣き声を聞いていたのだろう。顔は——無表情だった。唇がきつく結ばれ、拳が体の横で握りしめられている。
結菜は俺を見た。
あの鋭い目。一ヶ月前、初めて出会った日と同じ——けれど、その奥にある感情はまるで違う。あのときは不信だった。今は——
「……勝手に来て」
声が低い。
「勝手に家族みたいな顔して」
唇が震えた。
「勝手に——いなくなるんだ」
俺は何も言い返せなかった。
結菜の言葉は正しい。一文字の誤りもなく、正しい。俺は勝手に来た。勝手に居候して、勝手に飯を食って、勝手に庭の草を刈って、勝手に子供たちに情を移して——そして、勝手にいなくなる。
「ずるいよ……」
結菜の目から、涙がこぼれた。
初めてだった。この一ヶ月で、結菜が俺の前で泣いたのは。あの強い——父親の裏切りを受け止めて、母親を支えて、妹の前では絶対に泣かなかったこの子が。
こぼれ落ちた涙を、結菜は拭わなかった。拭ったら、泣いていることを認めてしまうから。だから涙を流したまま、俺を睨んでいた。
ずるいと、言われた。
ああ——そうだ。ずるい。
俺はしゃがんだ。海音が腰にしがみついたまま、結菜と目線を合わせた。
右手で海音の頭を。左手で、結菜の頭を。
そっと、撫でた。
海音の髪は太陽の匂いがした。結菜の髪は、シャンプーの微かな香りがした。
二人とも——こんなに、小さい。
「……お前たちの、母ちゃんを、頼むな」
声が掠れた。三百年で、こんなに声を出すのが難しかったことがあっただろうか。
海音がしゃくり上げながら、顔を上げた。涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔。日焼けした鼻の頭が赤い。
「やく、そく、して……。また、来て……」
嘘はつきたくなかった。
この子に嘘をつくのだけは、嫌だった。
でも——
「……ああ」
答えてしまった。
嘘かもしれない。三百年の旅は、同じ場所に戻ることを許さない。戻ったときには、この子たちは大人になっている。瑠花は年を取っている。俺だけが変わらない。
でも、言わずにはいられなかった。この子の涙を止めるには、それしかなかった。
結菜は何も言わなかった。俺の手が頭に触れたとき、一瞬だけ身を硬くして——それから、力を抜いた。
「……ばか」
小さく、一言だけ。
朝食は、いつも通り……ではなかった。
茶碗に盛られた白飯ではなく、皿の上には不揃いな形のおにぎりが並んでいた。
一ヶ月前、海沿いの道で初めて差し出された、あの塩おにぎりと同じ。
旅立つ俺が、いつでもあの日の記憶を取り戻せるように。あるいは、彼女たちが「あの日」から始まったこの一ヶ月を、掌の熱と一緒に握りしめたかったのか。
同じ米。同じ塩加減。同じ手で結ばれた、同じ形。
海音は泣き腫らした目で、それでもおにぎりを頬張っていた。食べながらしゃくり上げて、瑠花に「ほら、ちゃんと噛んで」と言われている。
結菜は無言でおにぎりを食べ、味噌汁を啜った。箸を置くとき、指先が微かに震えていた。
瑠花は——笑っていた。いつもの朝と同じ笑顔で。何も変わらないみたいに。でも味噌汁をよそうおたまが、かちゃ、と鍋の縁にぶつかった。手が震えていた。
俺はゆっくりと食べた。
おにぎりの一口一口を、噛みしめた。米の甘み。塩の結晶が舌に触れる感触。海苔の磯の香り。味噌汁の豆腐が、箸で掴むとふるふると揺れた。
最後の一口を——飲み込むのが。
三百年で一番、つらかった。




