第14話:眠れない夜——二人の娘の寝息と、蒼い炎の残像
瑠花は布団の中で目を開けていた。
天井の木目が、暗がりの中でぼんやりと浮かんでいる。隣に敷いた布団で海音がすうすう寝息を立てている。反対側で結菜が時折、寝返りを打つ。布団がかさりと擦れる音。
二人の娘の寝息に挟まれて、瑠花は眠れなかった。
目を閉じると、瞼の裏に蒼い炎が揺れた。骸骨の手。冷たい鎖。腐った船の匂い。——あの恐怖は、きっと一生消えない。
でも、それと同じくらい鮮烈に焼きついているのは——カミヤの背中だった。
あの船長室に飛び込んできたとき、最初に見えたのは背中だった。瑠花の前に立ち塞がるように。胸を貫かれてなお立ち続ける背中。銀色の粒子がきらきらと零れ落ちて、蒼い闇の中で光っていた。
人間じゃなかった。
知ってしまった。
三百年。影から出てくる狼。再生する体。獣の爪と牙。琥珀色の瞳が、金色の炎に変わる瞬間。
——全部、見た。全部、知ってしまった。
怖かった。怖くないと言ったら嘘になる。あの瞬間、体の芯が凍りついた。目の前にいるのが、自分の知っている「カミヤくん」ではない別の何かに変わっていく恐怖。人間の本能が、逃げろと叫んでいた。
でも。
あの人が助けてくれたのは、本当だった。
胸に穴が空いても立ち上がったのは、本当だった。「触るな」と叫んだあの声の中に、怒りと一緒に——怖いくらいの必死さが滲んでいたのは、本当だった。
瑠花は布団の中で、自分の右手を見た。
あの船の上で、カミヤの頬に触れた手。冷たかった指先が、カミヤの肌の温度で少しだけ温まった。人狼の体温は人間より高いのだと、あのとき知った。触れた瞬間に伝わってきた熱。人間じゃないはずの体から発せられる、嘘みたいに温かい熱。
あの温もりが——まだ指先に残っている。
「好きに、なっちゃったな」
声にならない声で、唇だけが動いた。
涙が、こめかみを伝って枕に落ちた。
わかっている。最初からわかっていた。あの人は旅の途中だ。ここに根を下ろす人じゃない。一ヶ月前、側溝にはまった軽自動車を助けてくれたときから、わかっていた。風みたいな人だ。どこからか吹いてきて、どこかへ去っていく。
三百年を生きてきた人に、この家の一ヶ月は——どれほどの重みがあるのだろう。
砂浜に寄せた波が引いていくみたいに、跡形もなく消えてしまうのだろうか。
でも。
——でも、私にとっては。
この一ヶ月は——二年間の地獄を帳消しにするくらい、温かかった。
朝、「行ってきます」と言えば「ああ」と答えてくれる人がいた。夕方、パートから帰れば庭の草が刈られていた。壊れた網戸が直っていた。蛇口の水漏れが止まっていた。
小さなことだ。ほんの、小さなこと。
でもその小さなことの一つ一つが、「あなたのことを見ていますよ」という無言の言葉で。元夫からは、最後の三年間、一度も貰えなかった言葉で。
七万円の茶封筒を渡されたとき、手が震えた。金額の問題じゃない。自分の稼ぎの全部を、当たり前の顔で差し出してくれた——その行為に。
「あの男と一緒にすんな。あんたの飯がうまいから払う」
ぶっきらぼうで、不器用で。でもあの言葉が——どれだけ救いになったか。
カミヤくんは知らないだろう。元夫が生活費を出し渋るたびに、自分の価値を否定されているような気持ちになっていたこと。家事も育児も全部やっているのに、三万円を「多いだろ」と言われるたびに、少しずつ心が削れていったこと。
あの七万円は——お金じゃなくて、尊厳だった。
もう一粒、涙がこぼれた。
隣の布団で、海音が「んー」と寝言を言った。何かの夢を見ているのだろう。口元が笑っている。きっとターチーと遊んでいる夢だ。
結菜が寝返りを打った。かさり、と布団が鳴る。
この子たちにとっても、カミヤくんの一ヶ月は大きかった。
海音はあの日から毎日、「お兄ちゃん」と呼んで付きまとった。宿題を見てもらい、貝殻を渡し、絵本をねだり、膝の上で眠った。父親が消えて以来、あの子が初めて男の人に甘えた一ヶ月だった。
結菜は——
あの子が「おやすみ」と言えるようになるまで、どれだけの葛藤があったか。父親に裏切られた九歳の少女が、見知らぬ男に心を開くまでの二週間。毎晩、布団の中で拳を握りしめていたのを、瑠花は知っている。
それがようやく——ほどけかけていたのに。
また、いなくなる。
わかっている。明日か、明後日か。カミヤくんは出ていく。原付にまたがって、次の町に行く。三百年の旅の続きを歩いていく。
引き止められない。引き止めてはいけない。
あの人には、あの人の時間がある。私たちの一ヶ月とは違う流れの中を生きている。永遠に老いない体で、永遠に一人で。
——それは、どんなに寂しいことだろう。
瑠花は目を閉じた。
隣の部屋に、カミヤの気配がある。壁一枚を隔てて。縁側に出ている気配。月を見ているのだろうか。
壁の向こうから、微かに——風鈴の音が届いた。ちりん。
あの人も、眠れないでいるのだ。
明日。
笑って送り出そう。
泣いたら、あの人はもっとつらくなる。あの不器用で、自己犠牲的で、「面倒くせぇ」が口癖のくせに誰よりも優しい人を——泣き顔で見送ったら、あの人は自分を責める。
だから、笑う。最後まで。
瑠花は布団の端を握りしめた。声を殺して、泣いた。
枕を濡らしながら。
娘たちを起こさないように。
壁の向こうの、あの人に聞こえないように。
虫の声だけが、夜の借家を満たしていた。りーん、りーん。遠くの波。時計のこちこち。
壁一枚を隔てて、二人の心臓が、同じ痛みを刻んでいる。




