第13話:夏の終わり、風鈴が鳴る
栄吉の家の玄関先に、ターチーが丸くなって眠っていた。
その横で、海音が犬の背中に頬をくっつけたまま寝落ちしている。小麦色の腕がターチーの首にゆるく巻きつき、寝息が規則正しい。口元によだれの跡がある。平和な寝顔だった。あの海の上で起きたことなど、何も知らない顔。
栄吉が引き戸を開けて出てきた。俺と瑠花の顔を一目見て、煙草をくわえ直した。
何も聞かなかった。
「——海音、起きろ。母ちゃん来たぞ」
「んー……ターチー、もうちょっと……」
「犬はお前の枕じゃねぇ」
栄吉が海音を抱き上げ、瑠花に渡した。海音はぼんやり目を開け、瑠花の首に腕を回して、「おかえりー」と笑った。半分夢の中の声。
結菜は奥の部屋で起きていた。
畳の上に正座して、文庫本を膝に載せていたが、ページは一枚もめくられていなかった。
俺たちが部屋に入ると、結菜の目がまず瑠花を見た。それからゆっくりと、俺に移った。
何かを察している。
この子は勘が鋭い。瑠花の目が赤いこと。俺のシャツに海水の染みが残っていること。二人の間に横たわる、言葉にならない重たい空気。全部、見えているのだろう。
結菜は何も聞かなかった。
ただ立ち上がり、「帰ろ」とだけ言って、玄関に向かった。
借家に戻った。
子供たちを寝かしつける瑠花の背中を、居間から見ていた。襖の向こうで、海音が「今日ねー、ターチーがねー」と眠たい声でしゃべっている。瑠花が「そう、よかったね」と相槌を打つ。いつも通りの声。いつも通りの夜。
何も変わっていないように聞こえる。
全部、変わってしまったのに。
海音の声が途切れ、寝息に変わった。襖が静かに閉まり、瑠花が居間に戻ってきた。
ちゃぶ台を挟んで、向かい合って座った。
蛍光灯がじじ、と唸っている。柱時計がこちこちこちこちと刻んでいる。扇風機は止めてあった。窓が開いていて、虫の声が入ってくる。りーん、りーん。夏の終わりの虫の声は、盛夏のそれよりどこか切ない。
瑠花が口を開いた。
「カミヤくんは、何歳なの」
一拍、間があいた。
「……本当は」
知っている。さっき船の上で言った。俺が何者か。でも、数字を聞きたいのだろう。この目の前に座っている存在が、どれだけ遠い場所から来たのかを、具体的な数字で知りたいのだろう。
「……三百と、少し」
声にすると、改めて馬鹿みたいな数字だった。三百年。人間が三世代、四世代入れ替わる時間。江戸時代の半ばから生きている。瑠花の人生を八回繰り返しても、まだ足りない。
瑠花が小さく笑った。
泣き笑いのような顔だった。目が潤んでいるのに、口元は笑っている。あの海蛍の夜に見た表情と、よく似ていた。
「……道理で。二十歳に見えないと思った」
「そうか?」
「うん。……目が、おじいちゃんみたいに優しいんだもの」
おじいちゃん。
三百歳だから、おじいちゃんどころの話じゃないが——そう言われて、不思議と嫌じゃなかった。
俺は黙ってうつむいた。
ちゃぶ台の木目を見ていた。誰かがつけた輪染み。海音がクレヨンで描いた小さな落書きの跡。結菜が消しゴムで消そうとして、薄く残った色。
この家の一ヶ月分の記憶が、全部このちゃぶ台の上にある。
瑠花がお茶を淹れた。湯呑みを俺の前に置いたとき、指先が微かに触れた。温かかった。さっきの船の上では、あんなに冷たかったのに。
「……飲んで。疲れたでしょう」
「……ああ」
さんぴん茶の、素朴な香りが立ち昇った。
それ以上、何も話さなかった。話せなかった。
湯呑みの中で、茶葉の欠片がゆっくり沈んでいくのを、二人で見ていた。
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眠れなかった。
六畳の和室に敷いた布団の上で天井を見つめていたが、目が冴えるばかりだった。古い木造の天井板の節目が、暗がりの中で浮かんだり沈んだりしている。
起き上がって、縁側に出た。
夜の空気が肌を撫でた。庭の雑草は——俺が刈ったから、今は短い。月明かりが短い草の上に影を落としている。塀の向こうに海は見えないが、潮の匂いと、波が遠い崖に当たる低い轟きが、空気に溶けていた。
風鈴が、微かに鳴った。ちりん、と。風はほとんどない。空気が震えただけ。でも風鈴は律儀に応えた。
足元の影が揺れた。
玄が滲み出てきた。犬ほどの大きさの黒い狼が、音もなく俺の横に伏せる。赤い瞳が月を映している。
「……寝ろよ。お前も消耗してるだろ」
低い鼻息。否定。お前こそ寝ろ、と言いたげだ。
俺は膝を抱えて、空を見上げた。
星が近い。この一ヶ月、毎晩のように見上げた沖縄の夜空。三百年変わらない星の配置。変わったのは、この星を見上げている俺のほうだ。
一ヶ月。
たった一ヶ月だ。三百年の中の一ヶ月。比率にしたら、ゼロに等しい。砂時計の一粒にも満たない。
なのに——この一ヶ月は、三百年で一番長かった。一番濃かった。一番——温かかった。
瑠花の笑顔を思い出す。
朝、「おかえりなさい」と振り向いたときの顔。エプロンの紐が少しずれていて、右肩から落ちかけていた。直しながら笑う横顔。味噌汁を注ぐときに、湯気の向こうに見える目。
海音の笑い声。
あの子の笑い方は太陽みたいだった。曇りがない。影がない。世界のすべてが面白くてたまらない、という顔で笑う。「お兄ちゃん!」と呼ぶ声が、耳の奥に残っている。
結菜の「おやすみ」。
あの一言を貰うまでに、二週間かかった。小さな声。ほとんど聞こえないくらいの。でも確かに俺に向けられた言葉。あの言葉の重さは、俺にしかわからない。
朝の味噌汁の匂い。夕方のゴーヤーチャンプルーの音。ちゃぶ台の輪染み。軋む廊下。かたかた鳴る扇風機。庭の風鈴。
全部——
全部、手放さなきゃいけない。
理由はわかっている。わかりすぎるほどわかっている。
俺は年を取らない。
瑠花は年を取る。三十五歳の彼女は、十年後には四十五になる。二十年後には五十五。三十年後には六十五。髪が白くなり、皺が増え、背が縮む。その横で俺だけが、いつまでも二十歳の顔をしている。
結菜は大人になる。海音も大人になる。やがて恋をし、結婚し、子供を産むかもしれない。その子供がまた成長し、老いていく。
俺だけが、そのすべてを見送る側になる。
何度も経験した。三百年の間に、何度も。
好意を寄せてくれた人間がいた。友と呼んでくれた人間がいた。その全員が老い、病み、死んだ。俺だけが残った。墓の前に立つたびに、胸の中の何かが凍っていった。凍って、凍って、もう溶けないと思っていた。
それがこの一ヶ月で——溶けた。
溶けたからこそ、わかる。このまま一緒にいたら、もっとつらくなる。瑠花が老いていく姿を見るのが。子供たちが「お兄ちゃん、なんで年取らないの?」と不思議がるのが。やがて隠しきれなくなって——
それに。
正体も知られた。瑠花は受け入れてくれた。「それでいい」と言ってくれた。でも、それは瑠花の人生を歪めることだ。人狼と暮らす女。世間にどう説明する。子供たちにどう説明する。
瑠花には——一緒に年を重ねてくれる、まともな人間の相手が必要だ。
朝食の席で「おはよう」と言い合える相手。一緒に白髪が増えて笑い合える相手。子供たちに「お父さん」と呼ばれる相手。
俺じゃない。俺であってはいけない。
「……行かなきゃな」
声が庭の闇に落ちた。
玄が低く鳴いた。
いつもの鼻息とは違った。もっと長く、もっと細い音。三百年の相棒の、聞いたことのない声だった。
——悲しそうだった。
「お前もか」
玄が頭を俺の膝に押しつけた。影の感触。冷たくも温かくもない、ただそこにある存在の重み。
五匹の影狼たちも、俺の影の中で起きていた。銀が微かに身じろぎし、牙が喉の奥で低く唸り、影は沈黙し、月が一番小さな声で甘えるように鳴いた。
こいつらも——この家が、好きだったのだ。
海音がこっそり俺の影に手を突っ込んで「わー冷たい!」とはしゃいだとき、月が嬉しそうに尻尾を振ったのを知っている。結菜が夜中に一人でトイレに行くとき、影がそっと廊下の暗がりを払っていたのも知っている。
俺だけじゃない。影狼たちも、この家族に情が移っていた。
風鈴が鳴った。ちりん。
月が雲に隠れ、庭が暗くなった。虫の声だけが残った。りーん、りーん。夏の終わりの、切ない声。
八月が終わる。
夏が終わる。
俺の——この家での時間も、終わる。




