第12話:鎖を引きちぎる手、瑠花を抱えて駆ける夜
船が沈み始めた。
呪いの核が消えたことで、幽霊船を海上に留めていた力が失われたのだ。床が傾き、壁から海水が噴き出す。木材がめきめきと裂ける音が、船全体に響いた。
俺は瑠花の元に駆け寄り、手首の鎖を握った。人狼の腕力で引きちぎる。蒼い鎖が砕け、金属片が海水に沈んだ。
「立てるか」
「う、うん——」
瑠花の足が震えていた。立てない。
腕を回し、抱え上げた。背中と膝裏に腕を通す。瑠花の体は軽かった。軽すぎた。日々の疲労と、充分でない食事で、この人はこんなに軽くなっていたのか。
「しっかり掴まってろ」
走った。
傾いていく廊下を、崩れる壁を避けながら駆け上がる。天井が落ちてきたのを肩で弾き飛ばし、海水が膝まで迫る階段を一気に跳び上がった。
甲板に出た。
船が斜めに傾いている。船尾がすでに海面下に没し、船首が持ち上がっている。あと数分で完全に沈む。
栄吉の小型船は——まだあった。幽霊船の横に、ロープで繋がれたまま波に揺れている。
月が俺の足元から飛び出し、瑠花の体を包み込むように薄い光の膜を張った。海水から守る盾。
「跳ぶぞ」
瑠花を抱えたまま、沈みゆく幽霊船の甲板を蹴った。
跳躍。
三メートルの距離を飛び越え、小型船の甲板に着地した。船が大きく揺れ、海水が舷側を越えてきた。
ロープを爪で切り、エンジンをかけた。
振り返ると——幽霊船が沈んでいくところだった。
船首の朽ちた女神像が最後に海面から突き出し、やがてそれも波の下に消えた。
——ごぉぉぉぉん。
海の底から、長く、低く、鐘が鳴るような音が響いた。幽霊船が海底に還る音。何百年分の孤独が、ようやく終わる音。
そして——静寂が戻った。
霧が晴れていく。星が一つ、二つと戻ってくる。風が戻り、波が戻り、潮の匂いが戻る。
凪いだ海の上に、小さな船が一艘。
波の音だけが、しずかに響いていた。
---
エンジンを切った。
しばらく、走る気力が出なかった。
半人狼化は解けている。爪は戻り、牙は引っ込み、黒い毛は消えた。だが体中が——重い。再生能力を酷使しすぎた。銀色の粒子が、まだ肩や胸元からぽろぽろと零れている。ガラスの粉みたいな光が船底に溜まり、月明かりを受けてきらきらと光った。
影狼たちは俺の影に戻っていた。五匹とも消耗している。玄だけが、影の中から微かに鼻先を出して、俺の状態を確認している。
——大丈夫だ。死にはしねぇ。
念で伝えると、玄は静かに引っ込んだ。
瑠花は、船の反対側に座っていた。
俺のパーカーを肩にかけたまま、両腕で自分の体を抱くようにしている。震えている。沖縄の夏の夜の海で、あんなに震えている。寒さじゃない。
俺は——瑠花と目を合わせられなかった。
見られた。
全部。
影から狼が出てくるところを。拳で骸骨を砕くところを。胸を貫かれて、それでも立ち上がるところを。銀色の粒子。鉤爪。牙。獣の瞳。
三百年、隠し続けてきた正体。人間じゃないという、ただそれだけの——でも決定的な事実。
波が船底を叩いていた。ちゃぷ、ちゃぷ、と。規則正しく、優しく。何も起きなかったみたいに。
「……見ただろ」
声を出した。掠れていた。
「これが、俺だ」
瑠花は何も言わなかった。
沈黙が、海の上に横たわった。波の音。遠くで海鳥が一声だけ啼いた。星が瞬いている。さっきまでの地獄が嘘みたいに、穏やかな夜の海。
その穏やかさが、逆につらかった。
俺は人間じゃない。
人狼だ。三百年生きている化け物だ。影から狼を出し、銃で撃たれても死なず、満月の夜には制御を失いかける。人間の世界に紛れて生きているだけの、異物。
瑠花は——怖がるだろう。当然だ。
今まで何人もの人間が、俺の正体を知って逃げた。恐怖で。嫌悪で。「化け物」と罵って。
それでいい。それが正しい反応だ。
だから、次の言葉を待つのが怖かった。三百年で初めて、誰かの言葉が怖かった。
ざわ、と。風もないのに、海面が揺れた。俺の心に呼応するみたいに。
瑠花が動いた。
船縁に手をついて、ゆっくりと立ち上がった。足元がふらつき、船が揺れた。
俺のほうに来る。
一歩。二歩。
小さな船の上で、その距離がひどく長く感じられた。
瑠花が俺の正面に立った。
月明かりが、彼女の顔を照らしている。目が赤い。泣いた跡がある。唇は白く、頬は蒼ざめている。
怯えているんだろう。当たり前だ。
——ごめんな。
言おうとした。怖い思いをさせた。正体を見せてしまった。明日には出ていく。だから——
瑠花の手が、伸びた。
震えている手。細い指。爪が短く切りそろえられた、荒れた手。
その手が——俺の頬に、触れた。
「…………」
息が、止まった。
指先は冷たかった。海水と恐怖で冷え切っている。でも、そこにあった。確かに、俺の頬の上に。
「……怪我、もう痛くない?」
瑠花の声が、震えていた。
小さくて、掠れていて、今にも消えそうな声。
でも——聞こえた。
怪我、もう痛くない、と。
化け物と言われるのを覚悟していた。悲鳴を上げられるのを覚悟していた。「近寄らないで」と言われるのを覚悟していた。
なのに。
この女は——俺の怪我の心配をしている。
胸を貫かれた。腕を切り裂かれた。壁に叩きつけられた。そのすべてが再生して消えた後に残った、何でもない肌の上を——瑠花の指が、確かめるように辿っている。
「……怖くねぇのか」
声が震えた。俺の声が。三百年で、こんなふうに震えたことがあっただろうか。
瑠花が、少し笑った。
泣きながら。唇が震えながら。それでも、笑おうとしていた。
「……怖い」
正直な声だった。
「怖いよ。何が起きたのか、まだ全然わかってない。影から狼が出てきたのも、胸に穴が空いて銀色の光が出てきたのも、爪が伸びたのも——全部、怖い」
瑠花の指が、俺の頬の上で止まった。
「でも」
「——あなたが助けてくれたのは、本当でしょう?」
波の音が、遠くなった。
世界の音がすべて消えて、瑠花の声だけが残った。
「あの化け物みたいな船長の前に飛び出してきて、何度も何度も殴られて、胸を刺されて——それでも立ち上がって、私を助けてくれた。……それは、本当でしょう?」
「…………ああ」
「じゃあ——」
瑠花の手が、俺の頬から顎に滑り、止まった。
「——それでいい」
星が瞬いていた。
波の音が、少しずつ戻ってきた。遠くの海鳥の声。風が瑠花の髪を揺らした。さっきまで震えていた指が、今は俺の顎の上で、少しだけ温かくなっていた。
俺は——何も言えなかった。
三百年分の言葉が全部、喉の奥で詰まって出てこなかった。
代わりに、手が勝手に動いた。瑠花の手を取り、自分の掌で包んだ。冷たい指を温めるみたいに。
瑠花が目を伏せた。涙がまた一粒、頬を伝った。
何も言わなかった。俺も、瑠花も。
帰路の間、二人の間に言葉はほとんどなかった。
エンジンの音が夜の海に響き、水飛沫が月明かりを弾いている。星がゆっくりと位置を変え、陸の灯りが近づいてくる。
港が見えたとき、ふと気づいた。
瑠花の手が——俺のシャツの袖を、ずっと掴んでいた。
幽霊船の甲板から飛び降りたときからずっと。震える指で、ぎゅっと。離さないように。
俺は——その手を振りほどかなかった。
港に着くまで。船を係留して、岸壁に上がるまで。
一度も。




