第11話:半人狼化の決断——カミヤの正体、今ここに
船長室は、広かった。
天井が高い。梁に蒼白い炎のランタンが連なり、部屋全体を冷たい光で照らしている。壁には海図や航海道具の残骸。床には海水が足首まで溜まり、一歩進むたびにちゃぷ、と水音が響いた。
奥に——玉座があった。
巨大な椅子だ。船の舵輪を背もたれに組み込み、座面には鯨の骨が使われている。海底の王の玉座。
そこに——座っていた。
骸骨だ。だが、甲板の雑兵とはまるで違う。
身長は二メートルを優に超え、座っているだけで部屋を圧する存在感がある。頭蓋骨には朽ちた三角帽が被せられ、顎の下には黒い髭の痕跡——海藻が絡みついて、あの黒髭エドワード・ティーチの肖像を思わせる異形を作り出していた。
肩幅は岩のように広く、肋骨の間には蒼い炎がごうごうと燃えている。心臓の代わりに、死の炎。
空洞の眼窩に灯る蒼白い炎が、俺を見た。
その足元に——瑠花がいた。
蒼白い鎖で、手首を玉座の脚に繋がれている。顔は青ざめ、唇が震えていたが、意識はある。俺を見た瞬間、目が見開かれた。
「カミヤくん……!」
声が裏返っていた。安堵と恐怖が混じった、悲痛な叫び。
俺は瑠花を見た。怪我はない。鎖が手首に食い込んで赤くなっているが、それ以外は——大丈夫だ。
視線を、船長に移した。
座っていた巨大な骸骨が、ゆっくりと立ち上がった。
その動作だけで、船長室の海水が波打ち、壁に掛かっていた海図が落ち、ランタンの炎が大きく揺れた。存在の重さ。何百年も海底で朽ちながら、それでも消えなかった執念の重さ。
骸骨の顎が、不快な骨の軋み音を立てて動いた。
「——客か」
地を這うような低い声。それは声というより、船体そのものが震えて発せられる響きだった。
「私はアルディス・ヴァン・ロウ。この『彷徨える蒼き処刑号』の主であり、この海域の魂の所有者だ。……生きた女の温もりが欲しい。この海に沈んで——もう、何百年になる。冷たい。骨の髄まで冷たい。この女の温もりが——この女を、俺の花嫁にする」
蒼い炎の眼窩が瑠花を見下ろした。瑠花が身を竦める。鎖がじゃらりと鳴った。
アルディスは手にした錆びたカトラスをゆっくりと持ち上げ、その剣先を俺に向けた。
「……だが、おまえは何だ」
蒼い炎が、値踏みするように激しく揺らめく。
「人間……ではないな。血の匂いが違う。骨の軋みが違う。……貴様、何者だ。その影に何を飼っている」
アルディスの声に、微かな警戒が混じった。
三百年の時を止めた死者に対し、俺の中の「化け物」が静かに牙を剥き始めていた。
俺は一歩、踏み出した。
足首まで浸かった海水が跳ね、波紋がアルディスの足元まで走った。
「人間じゃねぇよ」
琥珀色の瞳で、死者の王を見上げた。
「——だが、あの人は返してもらう」
沈黙。
船長室の蒼い炎が、すべて同時に揺れた。
アルディスの顎の骨が、かたかたと鳴った。笑っているのだ。死者の笑い。
「面白い」
アルディスの右手が動いた。朽ちた船長コートの裾から、巨大なカットラスが現れる。刀身は錆びてはおらず、蒼い炎を纏って不気味に輝いている。死の呪いを宿した刃。
「力づくで取り返すか。——いいだろう。何百年ぶりに、骨が踊る」
来た。
アルディスの踏み込みは、あの巨体からは想像できないほど速かった。海水が爆ぜ、蒼い炎の残像が尾を引く。カットラスが横薙ぎに振るわれ、空気が裂けた。
——が、避けられない速さじゃない。
身を屈め、刃の下を潜る。水飛沫が顔にかかった。返しの斬り上げ。ぎりぎりで後方に跳ぶ。壁際まで下がり、体勢を立て直した。
アルディスの二撃目。今度は突き。カットラスの切っ先が槍のように繰り出され、俺がいた場所の壁を貫通した。木材が裂け、海水が噴き出す。
近接は不利だ。リーチが違いすぎる。二メートル超の巨体に長大なカットラスでは、俺の拳が届く距離に入る前に切り刻まれる。
だが——逃げる理由がない。
三撃目のカットラスを、今度はかわさなかった。
左腕で受けた。
刃が前腕を深く切り裂き、骨に達した。血が弧を描いて飛び散り、蒼い炎に触れてじゅっと蒸発した。
痛い。だが——
傷口から、銀色の粒子が溢れ出した。
きらきらと。ガラスの粉みたいに。
切れた筋肉が繋がり、皮膚が閉じ、血が止まる。一秒とかからず、左腕は元通りになった。銀色の粒子が海水の上に落ち、蒼い光の中できらめいた。
「再生……? 何百年の間に見たことがない。貴様——」
答える代わりに、懐に飛び込んだ。
アルディスの肋骨の隙間に、右拳を叩き込む。骨が砕ける鈍い音。蒼い炎が散り、アルディスの巨体がよろめく。
だが——砕けた肋骨が即座に再生した。蒼い炎が骨を繋ぎ直し、俺の拳を押し返す。
互いに再生する者同士。正面からの殴り合いでは決着がつかない。
アルディスの左手が伸びた。素手で俺の首を掴み、持ち上げる。指の骨が気管に食い込む。
「力はある。だが足りん。人間でないなら——何だ? 答えろ」
締め上げられながら、俺はアルディスの眼窩を見た。蒼い炎の奥に、かすかに——悲哀があった。何百年も海を彷徨い、生者を求め、それでも満たされない。帰れない男の、底なしの孤独。
——似ている。
三百年の孤独を背負った俺と、この死者は。
だが。
「……あの人をさらったのは、許さねぇ」
喉を絞められたまま、そう吐き出した。
アルディスが腕を振る。俺の体が船長室の壁に叩きつけられ、腐った木材を突き破って隣の船室に吹き飛んだ。背中に衝撃。肺から空気が押し出され、一瞬だけ視界が白くなった。
海水の中に沈みかけて、すぐに立ち上がる。背骨のあたりを銀色の粒子が修復していく。
壁の穴から船長室に戻ると、アルディスが瑠花に手を伸ばしていた。蒼い炎の指が、瑠花の頬に触れようとしている。瑠花は目を固く閉じ、歯を食いしばっていた。
「触るな」
低い声が出た。
自分の声じゃないみたいだった。もっと深い。もっと獣に近い。
アルディスが振り向く。
そのとき——船長室の影という影が、一斉に蠢いた。
壁の影。玉座の影。アルディス自身の影。すべてが黒く膨れ上がり、五つの獣の形を取った。甲板での戦闘を終えた影狼たちが、合流してきたのだ。
玄が、俺の右に立った。冷たい赤い瞳がアルディスを見据える。
牙が、左に立った。巨体が海水を蹴立て、低い唸りを上げる。
影が、天井に張りつくように船長室の隅に潜んだ。
銀が、瑠花の前に立ち、盾になるように伏せた。
月が、俺の傷を最後のひとつまで塞ぎ終え、静かに控えた。
五匹の黒い狼と、俺。
アルディスの蒼い眼窩が、ゆっくりと細まった——ように見えた。
「……影の獣。呪われた狼か。なるほど、人間ではないわけだ」
カットラスを構え直すアルディス。だが、その動きに先ほどの余裕はない。
「相手になるか、死者の王」
俺は一歩、踏み出した。
アルディスが吠えた。声というより衝撃波。船長室の壁が震え、天井のランタンが砕け散った。
同時に——海が応えた。
船長室の床から海水が噴き上がり、触手のように形を変えて俺に襲いかかる。呪われた海そのものを操る力。船長が沈んだ海と一体化した、死者の権能。
海水の触手が腕に絡みつく。足に巻きつく。冷たい——氷よりも冷たい、死の海水が体温を奪っていく。
「牙ッ!」
号令と同時に、牙が跳んだ。巨大な影の体が海水の触手を引きちぎり、アルディスの脚に噛みついた。蒼い炎が弾け、アルディスがよろめく。
玄が背後から飛びかかる。アルディスの肩口に牙を立て、肩甲骨ごと蒼い炎を食い千切った。骨が砕ける乾いた音。飛び散る白い破片。
アルディスがカットラスを振り回す。刃が牙の胴を切り裂いたが、影の体は切られても霧のように繋がり直した。物理攻撃は影狼には効かない。
「小癪な——!」
アルディスの怒声とともに、船の構造物そのものが動いた。壁板が槍のように飛び出し、天井の梁が落下し、床が隆起する。船全体がアルディスの体であるかのように。
梁が俺の肩を打った。鎖骨が折れる鈍い音がして、一瞬だけ右腕の感覚がなくなった。銀色の粒子が散り、再生が始まる。
影が天井の闇から降り、アルディスの背面に回った。影の刃がアルディスの脊椎を貫く。蒼い炎がぶちぶちと音を立てて消え、アルディスの動きが一瞬だけ鈍った。
その隙を——逃さない。
だがアルディスは凄まじかった。脊椎を貫かれながら、左手で影を掴み、壁に叩きつけた。右手のカットラスで牙を斬り払い、蹴りで玄を弾き飛ばした。蒼い炎が爆発的に膨れ上がり、脊椎が修復されていく。
「俺は——何百年も——この海の底で——朽ちながら待ったのだ! 生きた女の温もりを! 温かい体を! それを——貴様ごときに——」
アルディスが飛び込んできた。
カットラスが胸を狙う。
真正面。
避けなかった。
——ずぶり。
刃が、胸を貫通した。
心臓のすぐ横。肺を突き抜け、背中から刃先が飛び出した。蒼い炎が傷口から体内に流れ込み、内臓が灼ける感覚。
「カミヤくんっ!!」
瑠花の絶叫が、船長室に反響した。
鎖をがちゃがちゃと鳴らし、身を乗り出している。蒼白な顔。涙が頬を伝っている。
「やだ——死なないで——カミヤくんっ!!」
アルディスが刃を捻った。激痛。肋骨が軋む。
俺は——笑った。
「……死なねぇよ」
口から血が溢れた。でも、もう傷は塞がり始めている。
胸の穴から、銀色の粒子が瀑布のように溢れ出した。光の粒が船長室を満たし、蒼い炎と銀色の光が混じり合う。カットラスの刃を体内から押し出すように、再生した肉が膨張する。
ぎちっ、と。
俺の手がカットラスの刃を掴んだ。刃が掌を切り、血が流れ、即座に塞がる。
「——抜けろ」
カットラスを握ったまま、刃を体から引き抜いた。自分で。蒼い炎ごと。
アルディスの蒼い眼窩が、初めて——動揺で揺れた。
俺の腕に、黒い毛が走った。
指の爪が伸び、鉤爪に変わる。犬歯が唇を押し上げ、牙になる。肩が膨れ、筋肉が軋み、骨格が変形し始める。背が伸びる。百八十に満たなかった身長が、一メートル九十を超えた。
半人狼化。
琥珀色の瞳が——獣の炎に変わった。
「俺が何者か、知りてぇか」
声が、低く響いた。人の声と獣の声が重なった、二重の音。
「——三百年、死に損なってる狼だよ」
影狼五匹が、俺の背後に集結した。
玄。銀。牙。影。月。
五つの赤い瞳と、俺の金色の瞳が、アルディスを見据えた。
「返してもらうぞ。——あの人を」
アルディスが、一歩退いた。
初めて見せた後退。何百年も海底で朽ちなかった死者の王が、一歩を退いた。
だが——退かない。退かなかった。
「——舐めるな、若造がぁぁぁっ!!」
蒼い炎が船長室ごと爆発した。海水が壁を突き破り、天井が崩落し、船全体が軋んだ。アルディスの全力。何百年分の執念と孤独を燃料にした、死者の王の最後の咆哮。
俺は走った。
玄が右翼を駆け、牙が左翼を走る。影が天井を伝い、銀が床を滑り、月が俺の背中に張りつく。
六つの影が、一つの奔流になった。
アルディスのカットラスが振り下ろされる。俺の頭蓋を割るはずの一撃を——正面から受け止めた。鉤爪で。蒼い炎が手を焼き、骨が軋む。
「今だ——全員」
五匹の影狼が一斉にアルディスに飛びかかった。
玄が右腕を噛み砕く。牙が左脚を食い千切る。影が脊椎を貫き、銀が頭蓋骨の眼窩に飛び込む。月の治癒の光が、蒼い炎を中和するように拡散した。
アルディスの巨体が崩れ始めた。蒼い炎が消え、骨が灰になり、散っていく。
「ま……だ……」
声が消えかけていた。
最後に——アルディスの空洞の眼窩が、瑠花を見た。もう炎はない。ただの、暗い穴。
「……あたたかい、ものが……欲しかった、だけだ……」
骨が崩れた。灰になった。海水に溶けた。
蒼い光が、消えた。




