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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第5章:ちりん、と鳴った夏の終わり

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第9話:霧の中の幽霊船と、消えた瑠花

 異変は、唐突だった。


 風が——止まった。


 さっきまで瑠花の黒髪をそっと撫で、海面にさざ波を立てていた夜風が、まるで誰かに息の根を止められたかのように、ぴたりと消えた。ちゃぷ、ちゃぷ、と船底を叩いていた波の音まで、魔法が解けるようにして消え去った。海面を滑っていた小さな波紋が完全に失われ、水面が磨き上げられた黒曜石の鏡のように平らになる。


 不自然すぎる凪だった。世界から「動くもの」がすべて切り取られ、耳が痛くなるほどの静寂。


「……カミヤくん?」


 隣に座っていた瑠花が、俺の顔を下から覗き込んだ。俺が表情を硬直させたことに気づいたのだろう。彼女の声が、静まり返った海の上に不気味なくらいはっきりと響いた。


 俺は答えられなかった。


 全身の毛孔が開いていた。見えない刃を首筋に突きつけられているような感覚。人狼の研ぎ澄まされた本能が、腹の底からけたたましい警鐘を鳴らしている。大気が淀み、匂いが変わった。さっきまで心地よく感じていた潮の香りの奥から、泥濘のように重く、生臭い匂いが這い上がってくる。


 腐敗と——古い、ひどく古い「死」の気配だ。


 何百年も光の届かない冷たい海底に沈み、ヘドロに塗れて恨みを溜め込み続けた何かが、今まさに海面へと浮上してくる匂い。三百年を生きてきた俺の記憶の底を探っても、これほど濃密で圧倒的な死臭は嗅いだことがない。


 足元の影が、ぞわりと波打った。


 影の中で、クロが唸った。


 そのときだった。


 ——ふっ。


 海面のあちこちで青白く瞬いていた海蛍の光が、一斉に消えた。


 一つ残らず、だ。まるで巨大なスイッチを切ったみたいに、無数の青い粒子が瞬時にかき消え、完全な闇が海を支配した。ほんの数分前まで、瑠花が「きれい」と涙ぐんでいたあの光が——跡形もなく消えた。


 見上げると——空を、霧が喰っていた。


 満天の星空が、急速に色を失い、乳白色のベールに塗り潰されていく。


「何……これ……」


 瑠花が震える声で呟いた。


 海面から、じわじわと白い霧が立ち昇っていた。いや、霧という生やさしいものではない。それは明確な意志を持った生き物のようだった。渦を巻き、這いずり、触手を伸ばすようにして、俺たちの乗る小さな船を舐めるように取り囲んでいく。


 同時に、気温が急激に落ちた。


 沖縄の夏の夜、しかも海の上にいるというのに、まるで真冬の雪山に放り出されたかのような底冷えが襲ってくる。俺の口から吐き出される息が、真っ白な煙になって霧に溶けた。


「寒い……。急に、こんな——」


 瑠花が両腕で自身の肩を抱き込み、身を竦めた。ガチガチと歯の根が合わない音が聞こえる。俺が肩に掛けたパーカー越しでも、彼女の体温が急速に奪われていくのがわかった。


「瑠花。俺のそばを離れるな」


 声が低くなった。自分でも驚くほど、人間の声帯の枠を外れていた。獣の——狼の喉の奥から絞り出されるような、低く濁った共鳴音。


 だが、そんなことを気にかけている余裕はなかった。


 霧の向こうに——巨大な影が浮かび上がったのだ。


 ごぽり、ごぽり。


 海底から巨大な気泡が弾けるような不気味な水音を伴って、それは姿を現した。


 俺たちの乗る五メートルの和船とは比較にならない、圧倒的な質量。マンションのようにそびえ立つ三本のマストが霧を切り裂いて突き立ち、そこには破れた黒い帆がぼろ布のように垂れ下がっている。


 船体は黒く変色し、びっしりと付着した海藻と巨大なフジツボ、牡蠣殻に覆われていた。木材は海水を吸って膨れ上がり、腐り落ち、ところどころに空いた大穴からは、どす黒い海水が滝のように滴り落ちている。


 船首の先端には、かつては美しかっただろう木彫りの女神像があった。だが、その顔の右半分は削り取られ、残された左の眼窩には——煌々と燃える、蒼い炎が灯っていた。


 マストの頂上、朽ちた見張り台、甲板のあちこちに、同じように蒼白い鬼火が明滅している。それは決して熱を持たない、冷ややかな死者の炎だ。


 ——幽霊船。


 栄吉の声が、脳裏に蘇った。酒を飲みながら、半分冗談のように——しかしどこか畏れを込めて語っていた夜のことを。


『この海域にはな、昔から"帰れない船"の話がある。何百年も前に沈んだ異国の船が、満月に近い夜に浮かび上がって、生きた人間を攫っていく。漁師は誰も沖に出たがらねぇ。——まあ、俺は見たことねぇがな。ただの伝説さ』


 伝説じゃなかった。


 幽霊船は、あれだけの巨体でありながら、波一つ立てずに近づいてきた。水面を滑るというより、空間そのものをすり抜けてきたかのように。


 ——どんっ。


 鈍い衝撃が響いた。


 幽霊船の巨大な船腹が、俺たちの小船に横付けされたのだ。見上げるような高い甲板の縁から、どろりとした海水とヘドロが、俺たちの船に雨のように降り注いでくる。


 そして、その甲板の縁に——『それら』が並んでいた。


 白い、骸骨たち。


 一体や二体ではない。十体、二十体、三十——それ以上の数が、船縁からこちらを見下ろしている。人間の骨格を残してはいるが、各所の関節はありえない角度で歪み、骨の表面には海藻がこびりついている。そして何より異様なのは、頭蓋骨の空洞の眼窩で、蒼白い炎が意志を持ったようにチロチロと揺らめいていることだ。


 手には、赤錆に覆われたカットラス、柄の腐った斧、砲身の曲がったマスケット銃。


 がちゃり、と。骸骨たちが一斉に動いた。骨と骨が擦れ合い、朽ちた武器が甲板の木材を叩く、おぞましい不協和音が夜の闇に響き渡る。


 死者たちは声を発しない。顎の骨をかたかたと震わせ、空洞の眼窩に灯る蒼い炎を、俺たちの——いや、瑠花のほうへと一斉に向けた。


「かみ、やくん——ひっ……」


 瑠花の声が、恐怖で完全に引き攣っていた。目を見開き、呼吸を忘れ、体が石のように硬直している。本能的な恐怖が彼女の神経を麻痺させていた。


「目を閉じてろ。何があっても、俺から離れるな」


 俺は瑠花の冷え切った細い腕をきつく掴み、自分の背中の後ろへと強引に引き寄せた。彼女を庇うように立ち塞がり、全身の筋肉をバネのように引き絞る。


 骸骨どもが飛び降りてくれば、空中で叩き落とす。影狼たちを解き放ってでも、この女だけは守り抜く。


 そう決意し、背後に庇ったはずの瑠花に声をかけようと振り向いた。


「瑠花、いいか、絶対——」


 言葉が、途切れた。


 瑠花が——いない。


 たった一瞬前まで、俺の右手がしっかりと掴んでいたはずの彼女の腕。その感触が、まるで最初から存在しなかった幻のように、煙となって消えていたのだ。


 俺の掌に残っていたのは、ただの冷たい霧の湿り気だけ。


「——瑠花!」


 叫んだ。


 裂帛の気合いを込めたはずの声は、不思議なほど反響しなかった。分厚い霧と呪われた空気が音を飲み込み、俺の叫びは数メートル先で虚しく掻き消されてしまう。


 俺は船の上で素早く四方を見回した。霧。霧。霧。白い壁が四方を塞いでいて、幽霊船の輪郭だけが黒い影として浮かんでいる。瑠花の姿は——どこにもない。


 あり得ない。


 俺の感覚器官を欺いて、物理的な距離を無視して人間を攫うなど、どんな手品だ。一瞬たりとも目を離していなかった。腕を掴んでいた。なのに——


 その直後だった。


 見上げる幽霊船のずっと奥深く、甲板の下にある船倉のあたりから——絹を裂くような悲鳴が聞こえた。


「いやあぁぁっ——!!」


 瑠花の声だ。


 間違えようがない。この一ヶ月間、毎日耳にしてきた声。朝、「おはよう」と微笑んでくれた声。夕方、「おかえりなさい」と出迎えてくれた声。海音を優しく叱る声。結菜に「ありがとう」と語りかける声。さっきまで、海蛍の光を浴びて「きれい」と涙ぐんでいた声。


 その声が今、極限の恐怖と絶望に引き裂かれている。


 どくん、と。


 俺の胸の奥で、何かが致命的な音を立てて断裂した。


 三百年の長きにわたり、人間社会に溶け込むために築き上げてきた分厚い理性の壁。感情を押し殺し、己が化け物であることを隠蔽するための頑丈な鎖。


 何度も繰り返してきた自己暗示——「慣れた」「どうってことねぇ」「面倒くせぇ」——そのすべてが。


 今この瞬間、跡形もなく砕け散った。


 俺の瞳から、人間としての色素が抜け落ちた。


 琥珀色が——黄金の炎となって、燃え上がった。


 腹の底から、血に飢えた殺意がどろりと溢れ出す。


 幽霊船の甲板の骸骨たちが、その目の色の変化を感じ取ったのだろう。蒼い炎の眼窩が、ぐらりと揺れた。さっきまでの高みから獲物を見下ろす余裕が、消えた。


 それでいい。


 お前たちが俺を怖いと思うなら——正しい。


 俺は船縁を蹴りつけ、幽霊船の黒い甲板へと向かって跳躍した。



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