第8話:海蛍の光、二つの星空の間で涙が落ちた
きっかけは、テレビだった。
夕食を終え、ちゃぶ台の上に麦茶のグラスが四つ並んでいた。海音が俺の膝の上で半分寝落ちしかけていて、結菜は隅で文庫本を読んでいる。瑠花がリモコンをいじって、チャンネルを変えた。
画面に、青い光が映った。
海蛍の特集だった。沖縄近海のどこかの入り江で撮影されたらしい。暗い海面に、無数の青白い光の粒が浮かんでは消え、浮かんでは消えている。カメラが引くと、まるで海が星空を飲み込んだみたいに見えた。
ナレーターが何か説明していたが、聞いていなかった。
俺が見ていたのは、瑠花の横顔だった。
テレビの青い光を瞳に映して、瑠花が息を止めていた。箸を置いたまま、口元を手で覆い、食い入るように画面を見つめている。
「——きれい」
ぽつりと、呟いた。
それから、もう少し小さな声で。
「……一度でいいから、海蛍を見てみたいな」
誰に言ったわけでもない。ただ零れ落ちた、独り言。
海音はもう眠っていて聞いていない。結菜は本に視線を落としたまま動かない。テレビの中で海蛍が揺れている。グラスの中の氷がからんと鳴った。
俺は何も言わなかった。
ただ、その横顔を——覚えた。
翌朝、漁から戻った後、栄吉に切り出した。
「船、借りてぇんだが」
「船? 休みの日にか。何する」
「……海蛍を見に行く」
栄吉がゆっくりと振り向いた。煙草をくわえた口が、にやりと曲がる。
「ほう。誰と?」
「…………」
「瑠花とデートか」
「デートじゃねぇ」
「はいはい。いいぞ、使え。小さい方の船なら操縦も簡単だ。——ガキどもは俺ん家で預かってやる」
「別にそこまで——」
「いいから。カミヤ、おまえは不器用すぎる。たまには素直になれ」
栄吉が煙草の煙を吐き出した。白い煙が朝の潮風に溶けていく。港の水面がきらきらと光り、海鳥がきいきいと鳴いている。
「……恩に着る」
「恩なんざいらん。その代わり、来週シイラが揚がったら一人で網引けよ」
「了解」
週末の夜。
子供たちを栄吉の家に預けに行った。栄吉の家は港のすぐそばにある古い平屋で、縁側に干物用のネットがぶら下がっている。栄吉の奥さんがにこにこしながら「ゆっくりしておいでー」と手を振った。意味深な笑顔だった。
海音は栄吉の家の犬——雑種の老犬で、名前はターチーというらしい——に夢中になり、すでに俺たちのことは忘れている。
結菜は玄関先で立ち止まっていた。
瑠花が「行ってくるね」と声をかけると、結菜は母親ではなく、俺を見た。
あの鋭い目。一ヶ月前とは、少しだけ温度が違う。
「……ちゃんと、お母さんを守ってよ」
初めてだった。
結菜が俺に何かを——頼むような言葉を、口にしたのは。
「ああ」
短く答えた。それ以外に何が言える。
結菜がこくりと頷いた。小さな顎が一度だけ下がり、上がる。それだけの動作なのに、万の言葉より重かった。
港から船を出した。
栄吉の小型船は五メートルほどの和船で、船外機がついている。操縦は難しくなかった。漁で何度も乗っているし、そもそも三百年の間に帆船から蒸気船まで大抵の船は操ったことがある。
夜の海は、昼とは別の生き物だった。
エンジンの音を落とし、沖へ滑り出すと、陸の灯りが遠ざかっていく。住宅地の明かり、街灯のオレンジ、車のヘッドライト——人間の世界の光が、少しずつ小さくなる。
代わりに、星が近づいてきた。
空を覆い尽くす星の群れ。天の川が白い帯になって頭上を横切っている。沖縄の、街から離れた海の上。光害がない。三百年前の夜空に近い、本物の闇と本物の星。
「……すごい」
瑠花が船の縁に手をかけ、空を見上げていた。風が黒い髪を攫い、白い首筋が月明かりに浮かんでいる。
「星がこんなに見えるなんて、知らなかった。いつもは仕事から帰ったら、空を見上げる余裕もなくて——」
声が少し震えていた。感動か、夜風の冷たさか。
エンジンを切った。
波の音だけが残る。ちゃぷ、ちゃぷ、と船底を水が叩く、穏やかなリズム。凪いだ海面が、鏡のように星を映している。
「もう少し待て。このあたりで見えるはずだ」
栄吉に聞いたポイントまで来ていた。岬の沖合、潮の流れが緩やかになる場所。海蛍が集まりやすいと、栄吉は言っていた。
しばらく、無言で待った。
船が微かに揺れている。波が遠くで崖に当たる低い音。風はほとんどなく、海面に落ちた月の光が、ゆらゆらと細長く伸びている。
瑠花の吐息が白い。沖縄の夏でも、夜の海上は気温が下がる。
「寒くねぇか」
「大丈夫。……少しだけ」
嘘だ。腕にうっすら鳥肌が立っている。
俺は上に羽織っていたパーカーを脱いで、瑠花の肩にかけた。
「え——あなたが寒いでしょう」
「俺は平気だ」
人狼は体温が高い。冬の北海道でもTシャツで過ごせる。でもそれは言えないから、「暑がりなんだ」とだけ付け加えた。
瑠花がパーカーの襟を引き寄せた。そのとき、一瞬だけ、布に顔を埋めるような仕草をした。匂いを嗅いだのだろうか。俺の——潮と、太陽と、ほんの少し獣の匂いがする、この体の。
気づかないふりをした。心臓が一拍だけ、跳ねた。
その時だった。
海が、光った。
最初は一つ。海面のすぐ下で、小さな青い光が灯った。蛍のように——いや、蛍より儚く、蛍より冷たい青。
次の瞬間、二つ、三つ、十、百——
——数えきれない青い光が、一斉に海面に浮かび上がった。
「——っ」
瑠花が息を呑んだ。両手で口を覆った。
海蛍だった。
直径一ミリにも満たない小さな生き物たちが、青白い光を放ちながら海面を漂っている。波が揺れるたびに光も揺れ、まるで海の中に星空がもう一つできたみたいだった。
上を見れば本物の星。下を見れば海の星。船は、二つの星空の間に浮かんでいる。
「きれい……」
瑠花の声が、掠れた。
俺は海蛍を見ていなかった。
瑠花の横顔を見ていた。
青い光に照らされた瞳。そこに、涙が光っていた。
一筋、頬を伝って落ちた。顎の先で雫になり、ぽとりと手の甲に落ちる。
「——なんで泣いてんだ」
「……わかんない」
瑠花が笑った。泣きながら。
「きれいだから。嬉しいから。久しぶりに、こんな……こんなきれいなもの見て、何も考えなくていい時間があって——」
声が途切れた。喉の奥で、嗚咽が一つ、飲み込まれた。
「……ごめん。変だよね。こんなことで泣くなんて」
変じゃない。
この女は、二年間——いや、もっと前から——ずっと泣くのを我慢していたんだ。子供たちの前で泣くわけにはいかない。パート先で泣くわけにはいかない。一人の夜に泣いても、誰も聞いてくれない。
だから、きれいなものを見た瞬間に、蓋が外れた。
俺は何も言えなかった。
気の利いた言葉なんて、三百年かけても出てこない。
ただ黙って、海蛍の光の中で、この女の涙を見ていた。
——もう少しだけ。
この女を、笑わせていたい。
そう思った。
そう思ってしまった自分が、怖かった。
三百年の間に何度か——本当に数えるほどだが——人間に心を許しかけたことがある。そのたびに、相手は年を取り、老い、死んだ。俺だけが残った。
同じことを繰り返す気か。
影の中で、玄が微かに鳴いた。警告でも嘲りでもない。ただ——寄り添うような、静かな声だった。
海蛍の光が、少しずつ薄れていく。潮の流れが変わったのだろう。青い粒子が散り、闇が戻ってくる。
「……ありがとう、カミヤくん」
瑠花が涙を拭いて、笑った。
泣いた後の、少しだけすっきりした顔。パーカーの裾を握りしめたまま、青い光の名残を瞳に映して。
きれいだった。
海蛍より——ずっと。
そう思った瞬間、俺は自分自身に舌打ちした。
面倒くせぇ。
本当に、とことん、面倒くせぇ。




