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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第5章:ちりん、と鳴った夏の終わり

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第7話:鏡の中で確信する——「好きになっちゃう」夏の熱

 瑠花は洗い物をしながら考えていた。


 蛇口から流れる水が、皿の上の油汚れを洗い流していく。泡が排水口に吸い込まれ、くるくると小さな渦を巻く。その渦をぼんやりと眺めながら、頭の中では別のものが回っていた。


 水音がやけに大きく聞こえる。

 静かな家の中で、その音だけが現実みたいに響いて——

 余計に、頭の中の考えが止まらなくなる。


 ——カミヤくんのこと。


 あの子は、二十歳くらいだ。十五も年下。自分はバツイチの三十五歳で、二人の子持ち。どう考えても、弟みたいなものだ。いや、弟ですらない。たまたま居候している、旅の途中の若者。


 そう、思おうとしている。


 思おうと、しているのに。


 今朝のことを思い出す。


 漁から帰ったカミヤが、縁側で麦茶を飲んでいた。汗に濡れた黒髪が額に張りつき、日焼けした腕にグラスの水滴が落ちていた。琥珀色の瞳が、庭の向こうの空を映している。


 瑠花が「おかえりなさい」と声をかけたとき、カミヤが振り向いた。


「……ああ」


 それだけ。それだけなのに、胸がざわついた。


 あの横顔は二十歳の若者のものではなかった。もっと深い——もっと遠いところを見ている目。人生の重さを知っている目。長い時間を一人で歩いてきた人間の——いや、そもそもカミヤくんは人間なのか?


 時々、不思議に思うことがある。


 あの異常な力。側溝から車を引き上げた時。新垣を追い払った時の、あの有無を言わせない圧。


 それに——栄吉が笑いながら言っていた。

「ありゃあ、一人で網引いてるようなもんだ」


 冗談めいた言い方だったのに、なぜか笑えなかった。


 二十歳の青年の体に、あの力は不釣り合いだ。


 それに——傷が消える。


 料理の手伝いをしているとき、カミヤが包丁で指を切った。瑠花が「大丈夫?」と振り向いた瞬間には、もう血が止まっていた。というより、傷口自体が見当たらなかった。


「気のせいだろ」とカミヤは言った。


 気のせいかもしれない。そう思うことにした。


 でも——目は覚えている。あの新垣を追い払った夕方、カミヤの琥珀色の瞳が一瞬、炎のように揺らめいたこと。人間の目では、ありえない光り方だったこと。


 怖いとは、思わなかった。


 不思議と。なぜか。


 怖いと思わない自分が、一番不思議だった。


 瑠花は皿を拭き、棚にしまった。台所の蛍光灯がじじ、と唸る。窓の外はもう暗く、虫の声がしきりに鳴いている。


 隣の部屋から、カミヤが海音に絵本を読んでやっている声が聞こえてきた。


「——むかしむかし、あるところに」


「——腹ぺこの狼がいた」


「おおかみ!」

 海音が布団の中で跳ねる。


 低い声。ぶっきらぼうで、抑揚がなくて、お世辞にも読み聞かせが上手いとは言えない。


 でも海音は大喜びだ。「もっと怖い声で読んで!」「おおかみのところ、がおーって言って!」「きゃーっ!」


 笑い声。海音の甲高い笑い声と——微かに混じる、カミヤの低い笑い。


 滅多に笑わないあの子が、笑っている。


 瑠花は布巾を握ったまま、動けなくなった。


 胸が痛い。


 苦しいのではない。温かいのに、痛い。こんな感覚は久しぶりだった。離婚してから——いや、もしかしたら結婚してからずっと、忘れていた感覚。


「……だめだよ、私」


 声に出した。小さく。誰にも聞こえないように。


「あの子、十五も下なんだよ」


 皿を拭く手が止まる。布巾を握りしめる。指の関節が白い。


 カミヤくんは旅の人だ。いつか出ていく。最初からそう言っていた。この家に根を下ろす人じゃない。ましてや、バツイチの子持ち女に——


 ぐるぐるぐるぐる。思考が回る。排水口の渦みたいに。


 瑠花は台所を出て、脱衣所に入った。


 鏡の前に立つ。


 蛍光灯に照らされた自分の顔。三十五歳。若い頃はミスコンでグランプリを取った。「綺麗だね」と何人にも言われた。今も、言い寄る男がいるくらいには整っている——らしい。


 でも、目の下に隈がある。笑い皺が深くなった。手は荒れて、爪は短く切りそろえてある。ネイルなんて、いつからしていないだろう。


 まだ綺麗でいられているだろうか。


 ——そう思った瞬間、頬が熱くなった。


 誰に対して? 誰のために、綺麗でいたいと思った?


 答えは——もう、わかっている。


 瑠花は鏡の中の自分から目を逸らした。首を小さく振った。


 部屋に戻ろうとして、廊下で足を止めた。


 居間の襖の隙間から、明かりが漏れている。海音はもう寝たらしく、静かだ。カミヤが一人でテレビを見ているのだろう。


 テレビの音は聞こえない。


 代わりに聞こえたのは——静寂だった。


 そして、その静寂の奥に、カミヤの呼吸の音。深く、緩やかな。一定のリズム。眠っているわけではない。ただ、静かに座っている。


 その気配が——たまらなく温かい。


 壁一枚を隔てて、この家に誰かがいる。大人の、信頼できる誰かがいる。それだけで、借家の空気がまるで違う。二年間ずっと一人で背負ってきた夜の重さが、少しだけ軽くなっている。


 瑠花は目を閉じた。


 自分の心臓の音が、耳の奥で響いている。とくん、とくん。少しだけ速い。


「……好きに、なっちゃうよ」


 声にはならなかった。唇が動いただけ。


 廊下の暗がりで、瑠花は自分の頬に触れた。


 熱い。


 夏のせいだと、思うことにした。




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