第7話:鏡の中で確信する——「好きになっちゃう」夏の熱
瑠花は洗い物をしながら考えていた。
蛇口から流れる水が、皿の上の油汚れを洗い流していく。泡が排水口に吸い込まれ、くるくると小さな渦を巻く。その渦をぼんやりと眺めながら、頭の中では別のものが回っていた。
水音がやけに大きく聞こえる。
静かな家の中で、その音だけが現実みたいに響いて——
余計に、頭の中の考えが止まらなくなる。
——カミヤくんのこと。
あの子は、二十歳くらいだ。十五も年下。自分はバツイチの三十五歳で、二人の子持ち。どう考えても、弟みたいなものだ。いや、弟ですらない。たまたま居候している、旅の途中の若者。
そう、思おうとしている。
思おうと、しているのに。
今朝のことを思い出す。
漁から帰ったカミヤが、縁側で麦茶を飲んでいた。汗に濡れた黒髪が額に張りつき、日焼けした腕にグラスの水滴が落ちていた。琥珀色の瞳が、庭の向こうの空を映している。
瑠花が「おかえりなさい」と声をかけたとき、カミヤが振り向いた。
「……ああ」
それだけ。それだけなのに、胸がざわついた。
あの横顔は二十歳の若者のものではなかった。もっと深い——もっと遠いところを見ている目。人生の重さを知っている目。長い時間を一人で歩いてきた人間の——いや、そもそもカミヤくんは人間なのか?
時々、不思議に思うことがある。
あの異常な力。側溝から車を引き上げた時。新垣を追い払った時の、あの有無を言わせない圧。
それに——栄吉が笑いながら言っていた。
「ありゃあ、一人で網引いてるようなもんだ」
冗談めいた言い方だったのに、なぜか笑えなかった。
二十歳の青年の体に、あの力は不釣り合いだ。
それに——傷が消える。
料理の手伝いをしているとき、カミヤが包丁で指を切った。瑠花が「大丈夫?」と振り向いた瞬間には、もう血が止まっていた。というより、傷口自体が見当たらなかった。
「気のせいだろ」とカミヤは言った。
気のせいかもしれない。そう思うことにした。
でも——目は覚えている。あの新垣を追い払った夕方、カミヤの琥珀色の瞳が一瞬、炎のように揺らめいたこと。人間の目では、ありえない光り方だったこと。
怖いとは、思わなかった。
不思議と。なぜか。
怖いと思わない自分が、一番不思議だった。
瑠花は皿を拭き、棚にしまった。台所の蛍光灯がじじ、と唸る。窓の外はもう暗く、虫の声がしきりに鳴いている。
隣の部屋から、カミヤが海音に絵本を読んでやっている声が聞こえてきた。
「——むかしむかし、あるところに」
「——腹ぺこの狼がいた」
「おおかみ!」
海音が布団の中で跳ねる。
低い声。ぶっきらぼうで、抑揚がなくて、お世辞にも読み聞かせが上手いとは言えない。
でも海音は大喜びだ。「もっと怖い声で読んで!」「おおかみのところ、がおーって言って!」「きゃーっ!」
笑い声。海音の甲高い笑い声と——微かに混じる、カミヤの低い笑い。
滅多に笑わないあの子が、笑っている。
瑠花は布巾を握ったまま、動けなくなった。
胸が痛い。
苦しいのではない。温かいのに、痛い。こんな感覚は久しぶりだった。離婚してから——いや、もしかしたら結婚してからずっと、忘れていた感覚。
「……だめだよ、私」
声に出した。小さく。誰にも聞こえないように。
「あの子、十五も下なんだよ」
皿を拭く手が止まる。布巾を握りしめる。指の関節が白い。
カミヤくんは旅の人だ。いつか出ていく。最初からそう言っていた。この家に根を下ろす人じゃない。ましてや、バツイチの子持ち女に——
ぐるぐるぐるぐる。思考が回る。排水口の渦みたいに。
瑠花は台所を出て、脱衣所に入った。
鏡の前に立つ。
蛍光灯に照らされた自分の顔。三十五歳。若い頃はミスコンでグランプリを取った。「綺麗だね」と何人にも言われた。今も、言い寄る男がいるくらいには整っている——らしい。
でも、目の下に隈がある。笑い皺が深くなった。手は荒れて、爪は短く切りそろえてある。ネイルなんて、いつからしていないだろう。
まだ綺麗でいられているだろうか。
——そう思った瞬間、頬が熱くなった。
誰に対して? 誰のために、綺麗でいたいと思った?
答えは——もう、わかっている。
瑠花は鏡の中の自分から目を逸らした。首を小さく振った。
部屋に戻ろうとして、廊下で足を止めた。
居間の襖の隙間から、明かりが漏れている。海音はもう寝たらしく、静かだ。カミヤが一人でテレビを見ているのだろう。
テレビの音は聞こえない。
代わりに聞こえたのは——静寂だった。
そして、その静寂の奥に、カミヤの呼吸の音。深く、緩やかな。一定のリズム。眠っているわけではない。ただ、静かに座っている。
その気配が——たまらなく温かい。
壁一枚を隔てて、この家に誰かがいる。大人の、信頼できる誰かがいる。それだけで、借家の空気がまるで違う。二年間ずっと一人で背負ってきた夜の重さが、少しだけ軽くなっている。
瑠花は目を閉じた。
自分の心臓の音が、耳の奥で響いている。とくん、とくん。少しだけ速い。
「……好きに、なっちゃうよ」
声にはならなかった。唇が動いただけ。
廊下の暗がりで、瑠花は自分の頬に触れた。
熱い。
夏のせいだと、思うことにした。




