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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第5章:ちりん、と鳴った夏の終わり

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第6話:一ヶ月、いつの間にか「家族」になっていた

 一ヶ月が経っていた。


 気づいたら、としか言いようがない。


 普段は一つの町に長くても二週間。仕事がなくなれば出る、人に馴染みすぎる前に出る。それが三百年のルールだった。


 なのに、俺はまだこの借家にいた。


 朝。四時に起きて漁に出る。港で栄吉と合流し、船を出し、網を引き、魚を捌く。八時過ぎに帰宅すると、台所から味噌汁の匂いがしている。


「おかえりなさい」


 瑠花がそう言って振り向く。エプロンをして、おたまを持って。


「お兄ちゃんおかえりーっ!」


 海音が居間から飛び出してきて、俺の脚にしがみつく。汗と潮の匂いがする俺の作業着にも構わず、ぎゅうっと抱きついてくる。小麦色の腕。日焼けした鼻の頭。


 結菜は食卓に座ったまま、ちらりとこちらを見て——


「……おかえり」


 小さく、ほんの小さく。


 聞こえるか聞こえないかの声で、そう言うようになっていた。


 最初の一週間は「……ども」だった。二週目に「ん」になった。三週目に「おかえり」が出てきて、俺は内心で少しだけ驚いた。


 朝食のあと、瑠花がパートに出る。海音と結菜は学校へ。俺は庭の手入れや借家の修繕をした。


 この家は古い。あちこちにガタが来ていた。


 網戸の網が破れて蚊が入り放題だったから、ホームセンターで網を買ってきて張り替えた。台所の蛇口が水漏れしていたから、パッキンを替えた。庭の雑草が腰の高さまで伸びていたから、鎌で刈った。軽自動車のエンジンオイルが真っ黒だったから、交換した。


 どれも大したことじゃない。三百年も旅をしていれば、大抵のことは自分でできるようになる。


 夕方。瑠花がパートから戻り、買い物袋を両手に抱えて玄関に入ってくる。俺がそれを受け取る。いつの間にか、そういう流れができていた。


「ありがとう、重くなかった?」


「軽い」


 実際に軽い。人狼にとっては綿菓子みたいなものだ。


 台所で瑠花が夕食を作る。まな板の上で包丁がとんとんとんとん、とリズムを刻む。鍋が煮立つ音。油が弾ける音。換気扇がぶおおおと回る音。


 海音が宿題を持って俺のところに来る。


「お兄ちゃん、ここわかんない。七たす八ってなに?」


「……十五」


「すごーい! じゃあ、九たす六は?」


「十五」


「また十五!? じゃあ——」


「もう全部自分でやれ」


「えーっ!」


 ぶーぶー言いながらも、海音は俺の隣に座ってノートに向かう。鉛筆を握る小さな手。間違えるたびに消しゴムのかすが散る。


 俺はその横でぼんやり天井を見ている。古い扇風機がかたかたと首を振り、風鈴がちりん、と鳴る。テレビのニュースが遠くで聞こえる。


 ——居心地がいい。


 面倒くせぇことに、そう思ってしまった。


 三百年で一番、居心地がいい場所だった。


 ある夕方のことだ。


 夕食の後片付けを瑠花と二人でやっていたら、結菜が台所に入ってきた。


「お母さん、洗い物やる」


「いいのよ結菜、宿題やりなさい」


「終わった」


 結菜がシンクの前に立った。俺は食器を拭く係だ。三人で並ぶと、台所が狭い。


 結菜が皿を洗い、水切りかごに置く。俺がそれを取り、布巾で拭いて棚に戻す。瑠花は鍋を洗っている。


 無言の作業。水が流れる音と、食器が触れ合う小さな音だけが台所に響いていた。


「……ねぇ」


 結菜がぽつりと言った。蛇口の水が飛沫を上げている。


「あんたさ」


 俺を見ない。皿を見ている。


「……いつまで、いるの」


 水の音。


 瑠花が手を止めた。


「結菜——」


「別に、追い出したいわけじゃない。ただ聞いてるだけ」


 結菜の声は硬かった。でも、硬いのは——怒っているからじゃない。怖いのだ。


 また誰かがいなくなるのが。


「……わからねぇ」


 正直に答えた。


「仕事がある間はいる。なくなったら出る。それは最初から言ってある」


「……ふうん」


 結菜は皿を洗い続けた。手つきが少し乱暴になった。水が跳ねて、俺のシャツに飛沫がかかった。


「……別に。いてもいなくても、どっちでもいいし」


 声が、わずかに震えていた。


 俺は何も言わず、跳ねた水を拭いて、次の皿を受け取った。


 瑠花が背中を向けたまま、小さく息を吐いたのが聞こえた。


 ---


 最初の異変は、二週間目の夕方だった。


 漁から帰って原付を停めると、借家の前に見慣れない軽トラックが停まっていた。荷台に土嚢袋や道具が積まれている。土建屋の車だ。


 玄関の前で、男が一人、腕を組んで立っていた。


 四十歳くらい。日焼けした肌に、ずんぐりした体格。首が太く、腕には刺青の端が覗いている。作業着の上だけ脱いで、汗に濡れたTシャツ姿。


 瑠花が玄関口に立っていた。半開きのドアの隙間に体を入れるようにして、家の中を隠している。表情が強張っていた。


「だから、新垣さん。何度もお断りしてますって——」


「そう言うなよ、瑠花さん。俺は本気だって。子供たちの父親、必要だろ? 俺、稼ぎはあるし、面倒くらい見れるさ」


 男の声は大きく、厚かましかった。距離が近い。瑠花が半歩退がると、男が半歩詰める。


「結菜ちゃんも海音ちゃんも可愛い子じゃないか。なあ、一回飯でも——」


「お断りしますって言ってるんです」


 瑠花の声が固い。拒絶の色がはっきりある。なのに男は聞いていない。笑っている。善意の押し売りを装った、鈍感な——いや、意図的な侵入。


 玄関の奥で、海音が瑠花のスカートの裾を握りしめているのが見えた。怯えた目。


 その隣に結菜がいた。妹の前に立ち、男を睨んでいる。拳を握りしめて。十一歳の少女が、歯を食いしばって。


 俺は原付のエンジンを切り、ヘルメットを外した。


 靴音を立てて、二人の間に入った。


「——おい」


 男が振り向いた。俺を見下ろす。身長差は十五センチほどか。体重差はもっとある。


「なんだ、あんた。瑠花さんの身内か?」


「帰れ」


 一言だけ言った。


 男の顔に、不快の色が浮かぶ。


「はあ? 何様だよガキが。俺は瑠花さんと——」


「嫌がってる女に付きまとうのは、人間のやることじゃねぇだろ」


 人間のやることじゃない。俺が言うと、妙なおかしみがある。人間じゃないのは俺のほうだ。


「おいおい、穏やかじゃないな。俺はただ——」


 男が一歩詰めてきた。顔が近い。酒の匂いが混じった息。仕事帰りに一杯引っかけてきたらしい。


「邪魔すんなよ、兄ちゃん。年下のガキが出てくるとこじゃ——」


 男の手が、俺の胸を押そうとした。


 その手首を掴んだ。


 ぎり、と。


 骨と骨の間を、指で挟み込むように。人間なら悲鳴を上げる圧力。だが折れない程度に。死なない程度に。


「ッ——!」


 男の顔色が変わった。膝が震えている。自分より小さな体の男に手首を掴まれて、振りほどけない。力が違いすぎる。そのことが、男の頭に恐怖として叩き込まれている。


 俺は男の目を見た。


 琥珀色の瞳が——ほんの一瞬だけ、獣の炎を灯した。


「帰れ。次はねぇぞ」


 静かに言った。怒鳴ったわけではない。声を荒げたわけでもない。ただ、事実を述べただけだ。


 次があれば、もっと痛い思いをする。それだけの話。


 男——新垣恒一の全身が強張った。本能が理解したのだ。この目の前の存在が、見た目通りの「若い兄ちゃん」ではないことを。人間の闘争本能が、圧倒的な捕食者の前で凍りつく——あの反応だ。


 手首を離してやると、新垣は二歩、三歩と後退った。


「く、くそ……覚えてろよ……」


 捨て台詞としても下の下だった。軽トラのドアを乱暴に開け、エンジンをかけ、タイヤを鳴らして走り去っていく。排気ガスの匂いと砂埃が残った。


 静寂。


 蝉の声が戻ってきた。さっきまで聞こえなかったのは、俺の聴覚が新垣だけに集中していたからだ。


「……ありがとう」


 背後で、瑠花の声がした。


 振り返ると、瑠花は玄関の柱に手をついていた。指先が白い。唇が微かに震えている。


「前から、ああいうことが?」


「……三ヶ月くらい。最初は差し入れとか、親切にしてくれてて。でもだんだんエスカレートして……断っても断っても」


 瑠花が目を伏せた。


「シングルマザーだと、ああいう人が来るんです。助けてあげるよって顔で。でも結局——」


 言葉が途切れた。その先を言わなくても、わかった。


「もう来ねぇだろ。来たら言え」


「……うん」


 瑠花が顔を上げたとき、もう震えは止まっていた。でも目が赤い。


 海音が玄関から飛び出してきて、俺の腰に抱きついた。


「お兄ちゃん、こわかった……」


「もう大丈夫だ」


 海音の頭をぽんぽんと叩く。柔らかい髪。太陽の匂いがする。


 結菜は——玄関の柱の陰に立っていた。


 何も言わなかった。拳をゆっくりと解き、ふ、と小さく息を吐いた。


 その夜。


 子供たちが寝た後、結菜が居間に戻ってきた。俺はちゃぶ台で栄吉に借りた釣り雑誌を読んでいた。


 結菜が俺の向かいに座った。


 しばらく無言。柱時計がこちこちと鳴る。虫の声。遠い波。


「……おやすみ」


 結菜が言った。


 小さな声。でも、確かに俺に向かって。


 そして、初めて——ほんの少しだけ、口元が緩んだ。笑顔と呼ぶには微かすぎる。でも確かにそこにあった変化。


「……ああ。おやすみ」


 結菜が立ち上がり、廊下に消えた。裸足が板張りをぺたぺたと踏む音が遠ざかる。襖が静かに閉まった。


 俺は釣り雑誌に目を戻した。活字が全く頭に入らなかった。


 胸の奥で、何かが——もう軋むどころではなく、確かに溶け始めている。三百年の氷が、この借家の温度に、少しずつ。


 面倒くせぇ。


 本当に、面倒くせぇ。



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