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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第5章:ちりん、と鳴った夏の終わり

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第5話:初給料七万円——渡した瞬間、瑠花の目がほどける

 朝の四時に目が覚めるのは、人狼の体にとって造作もないことだった。


 まだ夜の色を残した空の下、俺は借家の玄関で靴紐を結んでいた。サンダルではなく、瑠花が「栄吉おじさんのところ、長靴あるから大丈夫よ」と言ったにもかかわらず、持っていた唯一のスニーカーを履いた。


 廊下の奥で、誰かが寝返りを打つ音がした。布団が擦れるかさかさという微かな響き。たぶん海音だ。あの子は寝相が悪いと瑠花が笑っていた。


 玄関を出ると、夜明け前の空気が頬を打った。


 沖縄の朝は湿度が違う。肌にまとわりつくような、生ぬるい潮の匂いを含んだ空気。だが日が昇る前のこの時間帯だけは、ほんの少し涼しい。塀の上でヤモリが一匹、尻尾を振ってどこかへ消えた。


 原付のエンジンを、近所迷惑にならないように慎重にかける。ぽとぽとぽと、と控えめな排気音が暗い住宅街に落ちた。


 漁港までは十五分。


 瑠花が電話で紹介してくれた漁師、比嘉栄吉。「明日の朝四時半に港に来い、遅刻したら海に放り込む」というのが初日の指示だった。


 港に着くと、もう栄吉は船の上にいた。


 五十歳。日焼けで革みたいになった肌。太い首。短く刈り上げた白髪交じりの頭。タンクトップから突き出た腕は丸太のように太く、指は節くれ立っている。口にはくわえ煙草。


「おう、来たか。——若いな。飯は食ったか」


「食ってねぇ」


「馬鹿が。漁師は腹が減ったら使いもんにならんぞ。ほら」


 栄吉が無造作に投げてよこしたのは、コンビニのおにぎりだった。ツナマヨ。


「……すまん」


「借りにすんなよ、百円だ。初日の給料から引く」


 ぶっきらぼうだが、目が笑っていた。


 船は十二メートルほどの漁船で、白い船体に「栄丸」とペンキで書いてある。エンジンをかけると、どどどどど、と腹に響く低い振動が港の水面を揺らした。


 もやいを解き、船が岸壁を離れる。


 港を出ると、朝焼けが始まっていた。水平線の向こうから、オレンジと紫が混ざった光が滲み出してくる。空の色が一秒ごとに変わり、海面がそれを鏡のように映していた。


「きれいだろう」


 栄吉が煙草の煙を吐きながら言った。


「三十年やってるが、朝日だけは飽きねぇ」


 俺は黙って頷いた。三百年やっても飽きない。それだけは同意できた。


 沖に出ると、栄吉が刺し網漁の段取りを教えてくれた。前日に仕掛けた網を引き上げ、獲物を外し、網を整えてまた沈める。単純だが、体力勝負だ。


 網を引く。


 海水を含んだ網は、想像以上に重い。普通の人間なら二人がかりでウインチを使う作業を、栄吉は一人と手伝い一人でやっていた。


「よし、引け!」


 栄吉の号令に合わせて、俺は網の端を掴み、引いた。


 ——軽い。


 いや、軽いのは俺にとっての話だ。数百キロの網と獲物を、片手で引き上げられるくらいには。だが、それをやったら怪しまれる。


 力をセーブする。人間の二十歳の男が、全力で踏ん張って引いている——そういう演技をする。歯を食いしばり、腕の筋を浮かせ、足を踏ん張る。


 それでも、網が上がるのは早かった。


 栄吉が目を丸くした。


「おい……お前、力あるな。うちの息子より使えるぞ」


「たまたまだ」


「たまたまでこの網を一発で引き上げるやつは見たことねぇが——まあいい。若いってのは、そういうもんだ」


 それ以上は詮索しなかった。


 栄吉という男は、そういう人間だった。見たものをそのまま受け入れ、余計な質問をしない。海の男特有の鷹揚さなのか、それとも長年の経験で人を見る目が備わっているのか。


 網の中にはグルクン、シイラ、イラブチャー。色とりどりの沖縄の魚が銀鱗をきらめかせて跳ねている。魚が跳ねるたびに水飛沫が上がり、朝日を受けて虹色に光った。


「グルクンは刺身にすると美味いぞ。瑠花ん家に持ってけ」


「いいのか」


「どうせ市場に出しても二束三文だ。身内に食わせたほうがマシさ」


 身内。


 その言葉が引っかかったが、俺は何も言わなかった。


 船の上で、栄吉がぽつりと言った。


「瑠花は頑張ってるさ。あの馬鹿旦那が逃げてから、一人であの子たちを育てて……。俺も手は貸してるが、限界がある。漁師の稼ぎなんざ知れてるからな」


 潮風が栄吉の煙草の煙を攫っていく。海鳥がきいきいと鳴きながら船の周りを旋回していた。


「あんた、悪い奴じゃないだろ」


「……どうだかな」


「俺は人を見る目だけは確かだ。三十年、海と人間を見てきたからな。——あの家を、頼むよ」


 俺は水平線を見た。


「俺はすぐいなくなる」


「ま、それもいいさ」


 栄吉が笑った。海風に乗って、その笑い声がどこまでも飛んでいった。


 初めての給料日は、十日後だった。


 日当七千円。十日で七万円。手渡しの現金が入った茶封筒を、俺は帰り道で開けもせずにそのまま持ち帰った。


 借家の台所で夕食の支度をしていた瑠花の前に、封筒を差し出した。


「……え?」


「今月分だ。飯代と部屋代。足りなかったら言え」


「ちょ——七万円!? こんなに受け取れません! あなただって生活費が——」


「いらねぇ。飯はここで食ってる。寝るところもある。金を使う予定がねぇんだ」


 瑠花が封筒を両手で持ったまま、固まった。


 その目が——じわりと潤んだ。


「……元の夫は、生活費を三万しかくれなかったんです。それすら、出し渋って」


 小さな声だった。俺に聞かせるつもりはなかったのかもしれない。独り言のように零れた言葉。


「……そんな男と一緒にすんな。これは正当な対価だ。あんたの飯がうまいから払う。それだけだ」


 瑠花がまばたきをした。一回、二回。


 それから——笑った。


 目尻に涙が残ったまま、ふわりと咲くように。


「……ありがとう。大事に使いますね」


 その笑顔を見たとき、胸の奥の凍った何かが、また少し軋んだ。


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