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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第5章:ちりん、と鳴った夏の終わり

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第4話:夜の借家——虫の声と柱時計だけが残る

 子供たちを寝かしつけた後の借家は、昼間とは別の顔を見せた。


 音が変わるのだ。


 さっきまで居間を満たしていた海音の笑い声や、テレビのバラエティ番組の喧騒や、結菜が教科書をめくるかさかさという音——それが全部消えて、代わりに夜の音だけが残る。


 窓の外から虫の声。りーん、りーん、と涼しげだが、どこか物悲しい音色。遠くで波が崖に当たる低い音が、地鳴りのように断続的に届いてくる。古い柱時計がこちこちこちこちと時を刻んでいる。


 居間のちゃぶ台の前に座って、ぼんやりとテレビの深夜番組を眺めていたら、廊下の板がぎしっと鳴った。


 瑠花が台所から出てきた。


 手に、缶チューハイを二本持っている。


 今日スーパーで俺がかごに入れた、一番安いやつ。


「……飲めます?」


「まあ、多少は」


 多少どころか、三百年分の酒を飲んでいるが。人狼の代謝で酔わないだけで。


 瑠花が俺の向かいに座り、一本を差し出した。プルタブを引く音が、静かな部屋にぷしゅっと響いた。


「一本しか余裕がないんですけど」


「あんたが二本とも飲め。俺はいい」


「……じゃあ半分こで」


 瑠花がコップに半分注いで、俺に渡した。安いレモンサワー。甘くて酸っぱい、庶民の味。


 最初の一口を飲んだ瑠花が、ふう、と息を吐いた。


 肩の力が抜けたのが見えた。


 しばらく無言だった。テレビでは通販番組が始まり、やたらテンションの高い声で布団乾燥機の説明をしている。蛍光灯がじじじ、と微かに唸っていた。


「……あの」


 瑠花が口を開いた。


 視線はコップの中のレモンサワーに落ちている。


「変な話していいですか」


「好きにしろ」


「私、バツイチなんです。二人の子持ちの」


「見りゃわかる」


「……ですよね。二十歳で結婚しました。大学の同級生で、すごく優しい人だったんです。最初は」


 コップの中の液体が、蛍光灯の光を反射して揺れている。


「結菜が生まれて、海音が生まれて。お金はなかったけど、幸せだった——つもりでした。でも、夫は子供が二人になったあたりから、家に帰ってこなくなって」


 瑠花の声は淡々としていた。感情を抑えているのか、すでに枯れているのか。


「不倫、してたんです。会社の後輩の女の子と。……私が気づいたのは、海音が六歳のとき。結菜は九歳。もう三年も続いてたらしいです」


 柱時計がこちこちと鳴る。


 波の音が遠く低く、腹の底に響いてくる。


「離婚は去年です。慰謝料は三百万。……家も、売りました。ローンが残ってて、慰謝料はその穴埋めと引っ越し費用で半分消えました。養育費は月五万の約束だったのに、一度も振り込まれないまま——あの人、不倫相手と一緒にどこかに消えちゃいました」


 瑠花がレモンサワーを一口飲んだ。喉が動くのが、蛍光灯の下でやけにはっきり見えた。


「パートを三つ掛け持ちしてます。朝はコンビニ、昼は弁当工場、夕方は飲食店の洗い場。結菜に海音の面倒を見てもらって……あの子、まだ十一歳なのに。ずっと我慢させてる」


 声が、少しだけ揺れた。


「お金がないって、惨めなんですよね。子供たちに新しい服も買ってあげられない。遠足のお弁当に冷凍食品を入れるしかない日もある。海音は文句言わないけど、結菜は——あの子は、全部わかってるから」


 瑠花がコップを両手で包んだ。指先が白い。


「ごめんなさい。初対面なのに、こんな話」


「……いい。聞く」


「酔ってるのかな。一杯しか飲んでないのに。……久しぶりなんです」


「何が」


「大人と、夜にこうして話すの」


 瑠花が顔を上げた。


 笑っていた。


 疲労と、孤独と、それでも折れずに立ち続けている女の——きれいな、泣き笑いの顔。


 目が赤い。泣いてはいない。でも、あと一押しで決壊しそうな危うさがあった。


 俺は何も気の利いたことを言えなかった。


「そうか」


「……うん」


「大変だったな」


 それだけだ。


 三百年生きても、人を慰める言葉なんて身につかなかった。「頑張ってる」と言うのは簡単だが、それは俺のような部外者が安易に口にしていい言葉じゃない。


 だから、ただ聞いた。


 瑠花がぽつりぽつりと語る言葉を。掛け持ちの仕事の辛さ。結菜の学校での様子。海音の寝言。借家の雨漏り。軽自動車の車検が近いこと。子供たちの成長期に靴がすぐ小さくなること。


 全部、小さなことだ。


 でもその小さなことの積み重ねが、この女の肩に山のようにのしかかっている。


 瑠花が二本目の缶チューハイを開けたころ——もう半分以上は俺のコップに注いでくれていたが——彼女のまぶたが重くなってきた。


「……ねぇ、カミヤくん。変なこと聞いていい?」


「なんだ」


「あなた、一人で旅してて、寂しくないですか」


 沈黙。


 虫の声が、やけに大きく聞こえた。


「……慣れた」


 嘘だ。


 影の中で、クロがかすかに鼻を鳴らした。やっぱり「嘘つき」と言っている。


「そっか。……強いんですね」


「強くなんかねぇよ」


「でも——」


 言葉が途切れた。


 見ると、瑠花はちゃぶ台に突っ伏して、寝ていた。


 規則正しい寝息。疲れ切った体が、アルコールの力を借りてようやく安らいでいる。


 散らばった黒い髪。蛍光灯に照らされた横顔。睫毛が頬に影を落としている。起きているときは張り詰めている表情が、今はまるで子供みたいに無防備だった。


 俺は立ち上がり、隣の部屋から薄いタオルケットを持ってきて、瑠花の肩にかけた。


 冷房のない部屋に、扇風機のかたかたという音だけが残った。


 居間を出て、縁側に腰を下ろした。


 夜の庭は月明かりに照らされ、伸び放題の雑草が銀色に光っている。塀の向こうに海は見えないが、潮の匂いと波の低い轟きが空気に溶けていた。


 空を見上げた。


 沖縄の夜空は星が近い。降ってきそうなほど細かい光が、天の川を中心に散らばっている。三百年前と変わらない星の配置。変わったのは、地上のほうだ。


 影が揺れた。


 足元の影から、犬ほどの大きさの黒い狼が音もなく滲み出てくる。クロ。赤い瞳がじっと俺を見上げ、ゆっくりと俺の膝の横に伏せた。


「……見てたのか」


 低い唸り。肯定。


「別に、どうってことねぇよ。一晩泊まるだけだ」


 玄が鼻先を俺の手に押しつけた。冷たくもなく温かくもない、影の感触。


「面倒くせぇことになりそうだ」


 星に向かって呟いた。


 風鈴がちりん、と鳴った。風はなかった。ただ、夜の空気がほんの少しだけ揺れた。それだけのことだった。


 それなのに——胸の奥で、三百年凍りついていた何かが、小さく、かすかに、軋んだ。



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