第3話:ひぐらしの鳴く食卓で
借家は、南城市の住宅地の外れにあった。
原付で瑠花の軽自動車の後ろをついていくと、サトウキビ畑の間を抜けた先に、古いコンクリート造りの平屋が見えた。赤瓦ではないが、屋根の形は沖縄らしい。壁はところどころ塗装が剥げ、庭には雑草が伸び放題だった。
だが、汚くはなかった。
玄関のたたきは掃き清められ、三和土の上にはサイズ違いのサンダルがきちんと揃えて並んでいる。大・中・小。母と娘二人分。
玄関を入ると、廊下が奥に伸び、右手に台所と居間、左手に部屋がいくつか。突き当たりに風呂場。
軋む。
廊下の板がぎしっと鳴った。一歩踏み出すたびに、古い木が小さく悲鳴を上げる。天井の隅にヤモリがいて、俺を見てケケケッと甲高い声を立てた。
「こっちですよ。ここが空き部屋です」
瑠花が案内してくれた六畳の和室は、畳が少し日に焼けているが、清潔だった。窓を開けると、風が入ってきて、庭先に吊るされた風鈴がちりんと鳴った。
「おばあちゃん——私の祖母が使ってた部屋なんです。二年前に亡くなってからは物置にしてたんですけど、片付けたら意外とちゃんとしてて」
「充分だ。ありがとう」
「じゃあ買い物に行ってきますね。夕ごはんの材料、足りなくて」
「俺も行く。荷物持ちくらいはする」
瑠花は一瞬驚いた顔をして、それから「ありがとうございます」と笑った。
結菜と海音は家に残り、俺は瑠花の軽自動車の助手席に乗った。
助手席のシートは擦り切れて、スポンジが見えている。ダッシュボードに海音が作ったと思われる折り紙の花が、セロテープで貼ってあった。エアコンの吹き出し口から出てくる風は、冷えるまでに時間がかかった。
近くのスーパーに着いた。
瑠花が買い物かごを持ち、野菜コーナーに向かう。俺はその後ろをついて歩いた。
彼女の手が、まっすぐ向かったのは値引きシールの棚だった。
「見切り品のゴーヤ」を手に取り、傷み具合を確認する。「三割引きの豆腐」をかごに入れる。「半額の豚バラ切り落とし」を二パック。もやし。卵。
迷いのない動きだった。
どれが値引きになっているか、どの時間帯にどの棚に割引品が出るか——全部、体に染み込んでいるのだろう。毎日毎日、一円単位で計算して、子供たちの食卓を守っている。
瑠花が缶チューハイの棚の前で、一瞬だけ足を止めた。
一番安いやつ。百円ちょっとの缶が二本。
手が伸びかけて——止まった。かごの中身と、財布の中身を天秤にかけている目。
「……やめとこ」
小さく呟いて、通り過ぎようとした。
俺は黙ってその二本を取り、かごに入れた。
「え……あの」
「俺が買う」
「でも——」
「泊めてもらう礼だ」
レジに並び、会計が終わった後。
俺はポケットから全財産を出した。丸まった千円札が二枚、五百円玉が一枚、あとは小銭。合わせて三千円にわずかに届かないくらい。
「これ、全部受け取ってくれ」
瑠花の目が見開かれた。
「三千円……。あの、こんなに受け取れません。泊まるだけなんですから」
「飯も食わせてもらうだろう。足りねぇくらいだ」
「でもあなた、これ全部出したらお財布空っぽに——」
「明日仕事が決まりゃ問題ねぇ。——受け取らねぇなら泊まらねぇ」
瑠花が言葉を失った。
俺の目を見ている。琥珀色の瞳を、まっすぐに。
何かを読み取ろうとしているような、確かめようとしているような。
やがて、瑠花はゆっくりと手を差し出し、俺の掌の上のくしゃくしゃの紙幣と硬貨を受け取った。
「……ありがとう、ございます」
その声が、少しだけ潤んでいた。
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借家に戻ると、台所からとんとんとんとん、と包丁の音がした。
結菜が夕食の下準備をしていた。ゴーヤを薄切りにし、塩もみしている。十一歳にしては手つきが慣れている。
「結菜、ありがとう。あとはお母さんがやるからね」
「いい。最後までやる」
結菜はそう言って、俺が居間にいることを確認するように一瞬だけ視線を向け、すぐに包丁に戻った。
海音は居間のちゃぶ台に寝転がって、漫画雑誌を読んでいた。古い扇風機がかたかたと首を振りながら、ぬるい風を送っている。
やがて台所からゴーヤーチャンプルーの炒める音が聞こえ始め、卵を割る音、豆腐が崩れる音。瑠花と結菜が二人で並んで調理する気配。
味噌汁の匂いが、廊下を伝って居間に流れてきた。
「ごはんですよー!」
海音が呼ぶ声で全員がちゃぶ台に集まった。
ゴーヤーチャンプルー。豆腐と若布の味噌汁。もやしのナムル。白いご飯。
質素だ。外食で出てきたらたぶん五百円もしない。
でも、湯気が立ち昇る皿の向こうに、三人の顔がある。
「いただきまーす!」
海音が手を合わせて、真っ先にチャンプルーに箸を突き刺した。
結菜が黙って味噌汁を啜る。
瑠花が「熱いから気をつけてね」と言いながら、海音の皿にご飯をよそう。
俺は箸を取り、チャンプルーを一口食べた。
ゴーヤの苦味と卵のまろやかさ、豚肉の脂の甘み。バランスがいい。島豆腐がしっかり水切りされていて、崩れずに歯ごたえを残している。
「……うまい」
また言ってしまった。
瑠花が嬉しそうに目を細めた。
「結菜がゴーヤの下ごしらえしてくれたんです。塩もみが上手なんですよ」
結菜は俯いたまま、ご飯を口に運んだ。でも——耳が、赤い。
「ねーお兄ちゃん、お兄ちゃんって何歳?」
海音が口いっぱいに頬張ったまま聞いてくる。
「海音、口に物入れたまましゃべらないの」
「んー。もぐもぐ。……何歳?」
「二十……くらいだ」
三百とは言えない。
「えー若ーい! お母さんより若いね!」
「海音っ」
瑠花が頬を染めた。
ちゃぶ台の上で、小さな手が大きな手の横で箸を動かし、味噌汁の湯気が天井に昇り、古い扇風機がかたかたと風を送る。テレビの天気予報が明日も晴れだと告げている。窓の外では、夕暮れの蝉がひぐらしに交代し始め、かなかなかなかな、と切ない声が庭に満ちていた。
家族の食卓だ。
俺には縁のなかった、三百年間ずっと持たなかった——あたたかい場所。
胸の奥で、凍っていた何かが軋む音がした。
けれど俺は気づかないふりをして、味噌汁をもう一口飲んだ。




