第2話:ぐうと鳴った腹が、縁のはじまりだった
「いや、いい。急いでるんで」
急いでなんかいない。行く当てもない。
でも、人間と必要以上に関わるのは避ける。それが三百年のルールだ。
「そうですか……。でも、お弁当作りすぎちゃって。このままだと余っちゃうんですよね。暑いから傷んじゃうし、勿体ないかなって……」
瑠花が困ったように笑いながら、後部座席から保冷バッグを持ち上げた。中身がずしりと重そうだ。
「海に来たはいいけど、張り切りすぎちゃったみたいで——」
その瞬間だった。
——ぐぅうぅぅぅぅ。
沈黙。
蝉の声だけが、やかましく降り注ぐ。
海音が目を見開いた。結菜が呆れた顔でこっちを見た。瑠花が口元を手で押さえた。
俺の腹が、盛大に、鳴った。
三百年生きてきて、この瞬間が人生で一番恥ずかしかったかもしれない。
「——ぷっ」
海音が吹き出した。
「お兄ちゃんのお腹、すっごい鳴った! ねえ聞いた? ぐうーって! すっごい音!」
「海音、笑っちゃだめ——ふ、ふふっ」
瑠花も堪えきれずに笑っている。目尻に皺が寄って、さっきまでの疲れた顔が嘘みたいに若返った。
結菜だけが真顔だったが、わずかに——本当にわずかに——口の端が持ち上がったのを、俺は見逃さなかった。
「……昨日から食ってねぇだけだ」
俺は視線を逸らし、琥珀色の目を海の方に向けた。
耳が、たぶん赤い。
「決まりですね。一緒に食べましょう!」
瑠花が保冷バッグを抱え直して、にっこり笑った。有無を言わさない笑顔だった。
断る隙が、なかった。
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海沿いの道を少し下ったところに、小さな展望スペースがあった。
コンクリートのベンチと、錆びた手すり。その向こうに、崖下の海がどこまでも広がっている。水平線が空と溶け合って、世界の果てみたいに見えた。
瑠花がベンチの上にタオルを敷き、保冷バッグからタッパーを次々に取り出していく。
おにぎり。海苔がぱりっとしたのと、しなっとしたのが半々。卵焼き、甘い匂いがする。きんぴらごぼう。もずく酢。ラップに包まれたスパムのおにぎりもある。沖縄らしい。
質素だった。高い食材なんて一つもない。
でも、一つ一つが丁寧だった。おにぎりの形は均一で、卵焼きの焼き目はむらなく美しい。きんぴらは細切りが揃い、もずくの上には小さく切った生姜が添えてある。
限られた予算の中で、子供たちに少しでも美味しいものを食べさせたい——そういう手の跡が、はっきり見えた。
「はい、どうぞ。遠慮しないでくださいね」
瑠花が紙皿におにぎりと卵焼きをよそってくれた。海音がスパムおにぎりを両手で持って、頬を膨らませて食べている。結菜はもずく酢を黙々と口に運んでいた。
俺はおにぎりを一つ手に取った。
海苔の向こうに、ほんのり塩味が透けて見えるくらいの素朴な塩むすび。
一口、かじった。
——米が、うまい。
炊き加減がいい。硬すぎず柔らかすぎず、一粒一粒に芯がある。塩加減が絶妙で、噛むほどに甘味が出てくる。こんな普通のおにぎりが、どうしてこんなに——
「……うまい」
気づいたら、声に出ていた。
瑠花が目を瞬かせた。
「本当ですか? 塩おにぎりですよ?」
「ああ。うまい」
もう一口。もう一口。気づけば一個目を食べ終え、二個目に手が伸びていた。卵焼きも口に入れた。甘い。出汁の風味がちゃんとある。きんぴらは歯ごたえが良く、ごま油の香りが鼻に抜ける。
黙々と食べる俺を、瑠花が嬉しそうに見ていた。
「よかった。……作りすぎた甲斐がありました」
風が吹いた。潮風に混じって、さとうきび畑の青い匂いが運ばれてくる。頭上でアカショウビンが甲高く啼いた。きょろろろろ、と。南国の鳥特有の、透き通った声が青空に吸い込まれていく。
海音が食べ終わると、すぐにベンチから飛び降りて駆け出した。
「お兄ちゃん、見て見て! 貝がらっ!」
崖の手前の岩場で、白い貝殻を拾い上げてこっちに駆け戻ってくる。息を切らせて俺の前に差し出した。
「これ、さくらがいっていうんだよ。ピンクでかわいいでしょ?」
小さな掌の上に、淡いピンクの巻貝が乗っている。
「……ああ、きれいだな」
「でしょー! あげる! お兄ちゃんにあげる!」
受け取るしかなかった。ポケットに入れると、海音はまた駆け出していった。
そのやりとりを、結菜がじっと見ていた。
母親の隣に座ったまま、麦茶のペットボトルを両手で握り、俺を観察している。値踏みというよりは——もっと切実な何か。この男は信用していいのか。母親を傷つけないか。そういう目だ。
十一歳の子供が浮かべていい表情じゃなかった。
父親の不在が、この子を小さな大人にしたのだろう。
海の音が変わった。さっきまで穏やかに寄せて返していた波が、少し強くなった。風が出てきたのかもしれない。遠くで漁船のエンジン音がぽぽぽぽ……と間延びした音を立てて通り過ぎていく。
瑠花がペットボトルの麦茶を俺に差し出した。
「どうぞ。……ところで、このあたりの方なんですか?」
「いや。旅の途中だ。原付で日本中まわってる」
「まあ……。学生さん?」
「学生じゃねえ。ただの流れ者だ」
瑠花が少し目を見開いて、それから柔らかく笑った。
「流れ者って、なんだか昔の時代劇みたいですね」
昔の、な。昔どころじゃないんだが。
「次の仕事が決まるまで、あちこちフラフラしてる」
「沖縄には、長くいる予定ですか?」
「さあ。金がなくなったら働いて、貯まったら出る。その繰り返しだ」
麦茶を一口飲んだ。冷たくて、ほんのり甘い。沖縄のさんぴん茶とはまた違う、素朴な味がした。
「……このあたりで仕事、ねぇかな。漁でも土方でもなんでもいいんだが」
何気なく言った一言に、瑠花が顔を上げた。
「仕事ですか。……あ、それなら、知り合いの漁師さんがいますよ。親戚なんですけど、いつも人手が足りないって言ってて」
「漁師?」
「ええ。比嘉の栄吉おじさん。豪快な人で、ちょっと口は悪いけど面倒見はいいんです。紹介しましょうか?」
俺は瑠花を見た。
「あんた、見ず知らずの男にそこまでするのか」
瑠花が言葉に詰まった。
まっすぐな視線が揺れ、少しだけ宙をさまよった。自分でも不思議だ、と言いたげな顔だった。
「……なんでだろう。あなたからは、その——怖い感じがしないんです」
「怖い感じ」
「うまく言えないんですけど……。男の人って、もう少し——」
瑠花は途中で言葉を飲み込んだ。何か、痛い記憶に触れたのかもしれない。
「とにかく、悪い人じゃないなって。直感ですけど」
人間じゃないからだろうな。
俺は心の中で、自嘲気味にそう思った。
人狼の俺には、人間の男が纏う特有の——何と言えばいいか——欲や支配の匂いがない。瑠花が本能的に感じ取っているのは、たぶんそれだ。安全な生き物だと判断しているのだろう。
ある意味では正しい。俺は少なくとも、人間の女に手を出す趣味はない。
ある意味では間違っている。安全な生き物かどうかは、満月の夜に聞いてくれ。
「……じゃあ、頼めるか。漁師の仕事」
「はい! 帰ったら電話してみますね」
瑠花が嬉しそうに微笑んだ。まるで自分のことみたいに。
世話焼き体質なのだろう。他人のために動いているときが、一番この女は活き活きしている。
——こういう顔をするやつは、だいたい損な役回りばかり引き受けてきた。
たぶん、今までもずっとそうやって生きてきたんだろう。
自分のことは、後回しにして。
「ね、ね、お兄ちゃんっ!」
思考を遮ったのは、また海音だった。
両手いっぱいに貝殻を抱え、鼻の頭を真っ赤にしながら駆け戻ってくる。
「お兄ちゃん、今日どこに泊まるの? ホテル?」
「海音、失礼なこと聞かないの」
「えー、だって気になるもん!」
「……宿はまだ決めてねぇ」
そう答えた瞬間、海音の目がぱあっと光った。嫌な予感がした。
「じゃあうちに泊まればいいさー! ねっ、お母さん!」
「ええっ!? 海音、勝手に——」
「お部屋あまってるじゃん! おばあちゃんが使ってた部屋! ねっ、いいでしょ!?」
瑠花が明らかに狼狽している。見ず知らずの男を家に泊めるなど、普通は考えない。当然だ。
「悪い、気にすんな。どっかその辺で——」
「……あ、あの」
瑠花が何か言いかけて、口を閉じた。開いた。また閉じた。金魚みたいだった。
結菜が鋭い目で母親を見ている。
瑠花は少し考えてから、意を決したように言った。
「……お仕事が決まるまでの間だけなら。部屋は一つ空いてますから」
「いいのか」
「正直、助けてもらったお礼もしたいですし。それに——」
ちらりと海音を見た。海音は俺の腕にぶら下がって、全身で「泊まって泊まって」と主張している。
「この子がこんなに懐くの、珍しいんです」
結菜の目が、さらに鋭くなった。
唇がきゅっと結ばれ、小さな拳が膝の上で握られている。嫌なのだろう。見ず知らずの男が家に入ること。母親が無防備に信頼を差し出すこと。
——この子の警戒心は、正しい。
「……まあ。じゃあ、一晩だけ世話になる」
そう言った瞬間の結菜の視線は、刺すどころか突き刺さるほどだった。
けれど、海音が「やったー!」と飛び跳ね、瑠花が「よかった」とほっとしたように笑い、崖下の海がざあんと大きな波を打ち寄せた。
アカショウビンがまた啼いた。きょろろろろ、と。
この先に面倒なことが待っているのは、三百年の勘が告げていた。
でも、このおにぎりの味を——もう少しだけ覚えていたいと、思ってしまった。




