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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第5章:ちりん、と鳴った夏の終わり

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第2話:ぐうと鳴った腹が、縁のはじまりだった

「いや、いい。急いでるんで」


 急いでなんかいない。行く当てもない。


 でも、人間と必要以上に関わるのは避ける。それが三百年のルールだ。


「そうですか……。でも、お弁当作りすぎちゃって。このままだと余っちゃうんですよね。暑いから傷んじゃうし、勿体ないかなって……」


 瑠花が困ったように笑いながら、後部座席から保冷バッグを持ち上げた。中身がずしりと重そうだ。


「海に来たはいいけど、張り切りすぎちゃったみたいで——」


 その瞬間だった。


 ——ぐぅうぅぅぅぅ。


 沈黙。


 蝉の声だけが、やかましく降り注ぐ。


 海音が目を見開いた。結菜が呆れた顔でこっちを見た。瑠花が口元を手で押さえた。


 俺の腹が、盛大に、鳴った。


 三百年生きてきて、この瞬間が人生で一番恥ずかしかったかもしれない。


「——ぷっ」


 海音が吹き出した。


「お兄ちゃんのお腹、すっごい鳴った! ねえ聞いた? ぐうーって! すっごい音!」


「海音、笑っちゃだめ——ふ、ふふっ」


 瑠花も堪えきれずに笑っている。目尻に皺が寄って、さっきまでの疲れた顔が嘘みたいに若返った。


 結菜だけが真顔だったが、わずかに——本当にわずかに——口の端が持ち上がったのを、俺は見逃さなかった。


「……昨日から食ってねぇだけだ」


 俺は視線を逸らし、琥珀色の目を海の方に向けた。


 耳が、たぶん赤い。


「決まりですね。一緒に食べましょう!」


 瑠花が保冷バッグを抱え直して、にっこり笑った。有無を言わさない笑顔だった。


 断る隙が、なかった。


 ---


 海沿いの道を少し下ったところに、小さな展望スペースがあった。


 コンクリートのベンチと、錆びた手すり。その向こうに、崖下の海がどこまでも広がっている。水平線が空と溶け合って、世界の果てみたいに見えた。


 瑠花がベンチの上にタオルを敷き、保冷バッグからタッパーを次々に取り出していく。


 おにぎり。海苔がぱりっとしたのと、しなっとしたのが半々。卵焼き、甘い匂いがする。きんぴらごぼう。もずく酢。ラップに包まれたスパムのおにぎりもある。沖縄らしい。


 質素だった。高い食材なんて一つもない。


 でも、一つ一つが丁寧だった。おにぎりの形は均一で、卵焼きの焼き目はむらなく美しい。きんぴらは細切りが揃い、もずくの上には小さく切った生姜が添えてある。


 限られた予算の中で、子供たちに少しでも美味しいものを食べさせたい——そういう手の跡が、はっきり見えた。


「はい、どうぞ。遠慮しないでくださいね」


 瑠花が紙皿におにぎりと卵焼きをよそってくれた。海音がスパムおにぎりを両手で持って、頬を膨らませて食べている。結菜はもずく酢を黙々と口に運んでいた。


 俺はおにぎりを一つ手に取った。


 海苔の向こうに、ほんのり塩味が透けて見えるくらいの素朴な塩むすび。


 一口、かじった。


 ——米が、うまい。


 炊き加減がいい。硬すぎず柔らかすぎず、一粒一粒に芯がある。塩加減が絶妙で、噛むほどに甘味が出てくる。こんな普通のおにぎりが、どうしてこんなに——


「……うまい」


 気づいたら、声に出ていた。


 瑠花が目を瞬かせた。


「本当ですか? 塩おにぎりですよ?」


「ああ。うまい」


 もう一口。もう一口。気づけば一個目を食べ終え、二個目に手が伸びていた。卵焼きも口に入れた。甘い。出汁の風味がちゃんとある。きんぴらは歯ごたえが良く、ごま油の香りが鼻に抜ける。


 黙々と食べる俺を、瑠花が嬉しそうに見ていた。


「よかった。……作りすぎた甲斐がありました」


 風が吹いた。潮風に混じって、さとうきび畑の青い匂いが運ばれてくる。頭上でアカショウビンが甲高く啼いた。きょろろろろ、と。南国の鳥特有の、透き通った声が青空に吸い込まれていく。


 海音が食べ終わると、すぐにベンチから飛び降りて駆け出した。


「お兄ちゃん、見て見て! 貝がらっ!」


 崖の手前の岩場で、白い貝殻を拾い上げてこっちに駆け戻ってくる。息を切らせて俺の前に差し出した。


「これ、さくらがいっていうんだよ。ピンクでかわいいでしょ?」


 小さな掌の上に、淡いピンクの巻貝が乗っている。


「……ああ、きれいだな」


「でしょー! あげる! お兄ちゃんにあげる!」


 受け取るしかなかった。ポケットに入れると、海音はまた駆け出していった。


 そのやりとりを、結菜がじっと見ていた。


 母親の隣に座ったまま、麦茶のペットボトルを両手で握り、俺を観察している。値踏みというよりは——もっと切実な何か。この男は信用していいのか。母親を傷つけないか。そういう目だ。


 十一歳の子供が浮かべていい表情じゃなかった。


 父親の不在が、この子を小さな大人にしたのだろう。


 海の音が変わった。さっきまで穏やかに寄せて返していた波が、少し強くなった。風が出てきたのかもしれない。遠くで漁船のエンジン音がぽぽぽぽ……と間延びした音を立てて通り過ぎていく。


 瑠花がペットボトルの麦茶を俺に差し出した。


「どうぞ。……ところで、このあたりの方なんですか?」


「いや。旅の途中だ。原付で日本中まわってる」


「まあ……。学生さん?」


「学生じゃねえ。ただの流れ者だ」


 瑠花が少し目を見開いて、それから柔らかく笑った。


「流れ者って、なんだか昔の時代劇みたいですね」


 昔の、な。昔どころじゃないんだが。


「次の仕事が決まるまで、あちこちフラフラしてる」


「沖縄には、長くいる予定ですか?」


「さあ。金がなくなったら働いて、貯まったら出る。その繰り返しだ」


 麦茶を一口飲んだ。冷たくて、ほんのり甘い。沖縄のさんぴん茶とはまた違う、素朴な味がした。


「……このあたりで仕事、ねぇかな。漁でも土方でもなんでもいいんだが」


 何気なく言った一言に、瑠花が顔を上げた。


「仕事ですか。……あ、それなら、知り合いの漁師さんがいますよ。親戚なんですけど、いつも人手が足りないって言ってて」


「漁師?」


「ええ。比嘉の栄吉おじさん。豪快な人で、ちょっと口は悪いけど面倒見はいいんです。紹介しましょうか?」


 俺は瑠花を見た。


「あんた、見ず知らずの男にそこまでするのか」


 瑠花が言葉に詰まった。


 まっすぐな視線が揺れ、少しだけ宙をさまよった。自分でも不思議だ、と言いたげな顔だった。


「……なんでだろう。あなたからは、その——怖い感じがしないんです」


「怖い感じ」


「うまく言えないんですけど……。男の人って、もう少し——」


 瑠花は途中で言葉を飲み込んだ。何か、痛い記憶に触れたのかもしれない。


「とにかく、悪い人じゃないなって。直感ですけど」


 人間じゃないからだろうな。


 俺は心の中で、自嘲気味にそう思った。


 人狼の俺には、人間の男が纏う特有の——何と言えばいいか——欲や支配の匂いがない。瑠花が本能的に感じ取っているのは、たぶんそれだ。安全な生き物だと判断しているのだろう。


 ある意味では正しい。俺は少なくとも、人間の女に手を出す趣味はない。


 ある意味では間違っている。安全な生き物かどうかは、満月の夜に聞いてくれ。


「……じゃあ、頼めるか。漁師の仕事」


「はい! 帰ったら電話してみますね」


 瑠花が嬉しそうに微笑んだ。まるで自分のことみたいに。


 世話焼き体質なのだろう。他人のために動いているときが、一番この女は活き活きしている。


 ——こういう顔をするやつは、だいたい損な役回りばかり引き受けてきた。


 たぶん、今までもずっとそうやって生きてきたんだろう。


 自分のことは、後回しにして。


「ね、ね、お兄ちゃんっ!」


 思考を遮ったのは、また海音だった。


 両手いっぱいに貝殻を抱え、鼻の頭を真っ赤にしながら駆け戻ってくる。


「お兄ちゃん、今日どこに泊まるの? ホテル?」


「海音、失礼なこと聞かないの」


「えー、だって気になるもん!」


「……宿はまだ決めてねぇ」


 そう答えた瞬間、海音の目がぱあっと光った。嫌な予感がした。


「じゃあうちに泊まればいいさー! ねっ、お母さん!」


「ええっ!? 海音、勝手に——」


「お部屋あまってるじゃん! おばあちゃんが使ってた部屋! ねっ、いいでしょ!?」


 瑠花が明らかに狼狽している。見ず知らずの男を家に泊めるなど、普通は考えない。当然だ。


「悪い、気にすんな。どっかその辺で——」


「……あ、あの」


 瑠花が何か言いかけて、口を閉じた。開いた。また閉じた。金魚みたいだった。


 結菜が鋭い目で母親を見ている。


 瑠花は少し考えてから、意を決したように言った。


「……お仕事が決まるまでの間だけなら。部屋は一つ空いてますから」


「いいのか」


「正直、助けてもらったお礼もしたいですし。それに——」


 ちらりと海音を見た。海音は俺の腕にぶら下がって、全身で「泊まって泊まって」と主張している。


「この子がこんなに懐くの、珍しいんです」


 結菜の目が、さらに鋭くなった。


 唇がきゅっと結ばれ、小さな拳が膝の上で握られている。嫌なのだろう。見ず知らずの男が家に入ること。母親が無防備に信頼を差し出すこと。


 ——この子の警戒心は、正しい。


「……まあ。じゃあ、一晩だけ世話になる」


 そう言った瞬間の結菜の視線は、刺すどころか突き刺さるほどだった。


 けれど、海音が「やったー!」と飛び跳ね、瑠花が「よかった」とほっとしたように笑い、崖下の海がざあんと大きな波を打ち寄せた。


 アカショウビンがまた啼いた。きょろろろろ、と。


 この先に面倒なことが待っているのは、三百年の勘が告げていた。


 でも、このおにぎりの味を——もう少しだけ覚えていたいと、思ってしまった。



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