第1話:ざわめく夏、止まった車とひとつの出会い
三百年の時を生きる不器用な人狼と、海辺の街で暮らすある家族の、ひと夏の物語です。
決して交わるはずのない「永遠」と「日常」。
一緒に歳を重ねられないと分かっていながら、それでも惹かれてしまう不器用な恋と、ひとときの温かい食卓の風景を描きました。
沖縄の夏の空気と一緒に、楽しんでいただければ幸いです。
七月の沖縄は、空ごと燃えていた。
アスファルトの上に陽炎がゆらゆらと立ち昇って、その向こうに見える海が蜃気楼みたいに歪んでいる。ヘルメットの中は蒸し風呂で、額から流れた汗が顎を伝い、首筋に落ちた。
——じりじり、と。
太陽が肌を焼く音が、聞こえる気がした。
原付のエンジンが、喉を枯らしたみたいに掠れた音を立てている。数年前に中古で手に入れた、年季だけは一人前のポンコツだ。
沖縄本島の南端近く、喜屋武岬へ向かう海沿いの細い道を、俺はのろのろと走っていた。
左手にはガードレールの向こうに断崖と海。コバルトブルーなんて生やさしい色じゃない。沖縄の夏の海は、絵の具をぶちまけたみたいに鮮烈な青をしている。空との境目がわからなくなるほど青くて、三百年生きていても、この色だけは見飽きなかった。
右手には、さとうきび畑。風が吹くたびに背の高い茎がざわざわと擦れ合い、葉先が日光を弾いてちかちか光る。その合間を、蝉の声が津波みたいに押し寄せてきた。
——じーーーーーっ。
沖縄の蝉はクマゼミが多い。本土のミンミンゼミより鳴き声が鋭くて、鼓膜に釘を刺すような圧がある。イヤホンなんてしていなくても、エンジン音が掻き消されるほどだ。
所持金、三千円弱。
ポケットの中で丸まった紙幣と、じゃらじゃら言う小銭の感触を太ももの上から確かめる。ガソリンは半分。宿はない。次の仕事のアテもない。
まあ、いつものことだ。
三百年も生きていると、困ることには慣れる。人間の街に紛れて、日雇いの仕事で食い繋ぎ、金が尽きたらまた次の街を探す。その繰り返し。季節が巡っても、景色が変わっても、俺だけが同じ場所に立っている。
——孤独か?
そりゃ、最初の五十年くらいは堪えた。
でも、百年も経てば慣れる。二百年経てば、それが当たり前になる。三百年目ともなれば、孤独は空気みたいなもんで、いちいち意識しなくなる。
そう自分に言い聞かせるたびに、影の中で玄が微かに鼻を鳴らすのが癖になっていた。「嘘つき」とでも言いたげな、静かな気配。
「うるせぇ、黙ってろ」
声に出して言ったら、原付のミラーに映った自分の顔がひどく間抜けだった。
琥珀色の瞳。夏の夕方に淹れた麦茶みたいだと、昔どこかの婆さんに言われたことがある。通った鼻筋、長い睫毛、少し長めの黒髪が風に煽られて視界にかかる。見た目は二十歳そこそこの青年。
中身は、三百年分の疲労を溜め込んだ化け物だが。
さとうきび畑が途切れ、道が少し上りになった。その先にカーブがある。海風が正面から吹きつけて、潮の匂いがヘルメットの隙間から入り込む。
カーブを曲がった瞬間、視界に飛び込んできたのは——
ハザードランプを点滅させた、古い軽自動車だった。
---
かちっ、かちっ、かちっ。
ハザードランプが律儀に明滅を繰り返している。
白い——いや、元は白かったのだろう。今はくすんだクリーム色に褪せた軽自動車が、道の端で傾いていた。左前輪が、ぱっくりと口を開けた側溝にすっぽりとはまり込んでいる。
車の前で、女が一人、しゃがみ込んでいた。
三十代半ばだろうか。麦わら帽子を被り、白いリネンのブラウスの袖をまくって、タイヤの周りの泥を素手で掻き出そうとしている。額に汗が光り、唇を固く結んでいた。
後部座席のドアが開いていて、二人の女の子が外に出ていた。
大きいほうの子は、黒髪のボブカットで、日差しの中に立ちながらも表情が暗い。母親の横で腕を組み、何か考え込むようにタイヤを見つめている。十一歳くらいか。
小さいほうの子は、対照的だった。小麦色の肌に丸い頬。日焼けした鼻の頭。道端のハイビスカスの花をちぎって、くるくる回しながら何やら歌っている。七つか八つか。世界のどこにも困りごとなんてないみたいな顔をしている。
俺は原付のスピードを落とし、横を通り過ぎようとした。
——通り過ぎようと、した。
「あのっ……!」
女が立ち上がり、こちらに手を上げた。泥だらけの手。困り果てた顔。けれど卑屈さのない、まっすぐな目。
俺はアクセルを握ったまま、一瞬だけ迷った。
面倒くせぇ。
心の中でいつもの口癖が出る。
人間に関わると碌なことがない。それは三百年かけて学んだ、数少ない確かな教訓だ。助けたところで感謝されるのは一瞬、忘れられるのは翌日、利用されるのは——もう数えきれない。
だが。
女の後ろで、小さいほうの子が花をくるくる回すのをやめて、こっちを見上げた。大きな目。太陽みたいな、屈託のない顔。
「——お兄ちゃん、バイクかっこいい!」
……。
俺は原付を路肩に寄せ、エンジンを切った。
かちかちかちかち、とハザードの音だけが残る。蝉の声がその隙間を埋め尽くすように降ってくる。
「すみません、ロードサービスに電話したんですけど、入ってなくて……。JAFも、その、入会してなくて……」
女が早口で言いながら、気まずそうに目を伏せた。泥だらけの指先を太ももで拭おうとして、やめている。
「レッカー呼ぶと高いんですよね。近くに人がいないかなって思って……ああでも、こんな細い道じゃ」
「ちょっと見せろ」
俺はヘルメットを外してハンドルにかけ、軽自動車の前にしゃがんだ。
左前輪は側溝に二十センチほど落ち込んでいる。溝の縁にタイヤの側面がこすれて、ゴムが少し削れていた。車体が傾いでいるせいで、自力での脱出はまず無理だろう。普通の人間なら。
普通の人間なら、だ。
「板か何か噛ませて、押してみるか」
一応、人間らしい手順を踏むフリをする。周囲を見回して、道端に転がっていた流木を一本拾い、タイヤと側溝の縁の間に差し込んだ。
「すみません、私も押しますから——」
「いい。運転席に乗ってギアをバックに入れて、俺が合図したらアクセルを軽く踏め」
「は、はい」
女が慌てて運転席に滑り込む。
大きいほうの子が、腕を組んだまま俺を見ていた。黒いボブの下で、強い意志を湛えた瞳がじっとこちらを観察している。値踏みするような、警戒するような。まるで母親を守る小さな番犬だ。
なかなか鋭い目をしている。こういうガキは、嘘が通じない。
俺はタイヤの横にしゃがみ、片手をフェンダーの下縁にかけた。もう片方の手でタイヤのホイールに指をかける。
さて——問題は力加減だ。
この車は軽自動車で、重さはせいぜい八百キロ。俺の腕力なら片手で持ち上がる。コンクリートの壁を殴り抜ける拳で、戦車だって横転させられる。だが、それをやったら人間界で暮らせなくなる。
大げさにならないように。あくまで「若くて力持ちの兄ちゃんが頑張った」程度に見えるように。
「……いくぞ。踏め」
女がアクセルを踏む。エンジンが唸り、タイヤが空回りして泥を撥ねた。
その瞬間に合わせて、俺はタイヤを斜め上に抜き出すように力を入れた。腕に走る力は全体の百分の一にも満たないが、軽自動車にはそれで充分すぎた。
がこんっ、と鈍い音がして、タイヤが側溝の縁を外れた。車体がぐらりと揺れ、そのまま後ろへと抜ける。
四輪がアスファルトの上に戻った。
「わあっ!」
小さいほうの子が手を叩く。
「すごーい! お兄ちゃん、めっちゃ力持ち!」
女が運転席から降りてきた。目を丸くしている。
「え……一人で? あの、板噛ませただけで……?」
「たまたまタイヤの角度がよかっただけだ」
適当に誤魔化す。汗ひとつかいていない自分の額を、一応シャツの袖で拭う動作だけしておいた。
「ありがとうございます……本当に、助かりました」
女が深々と頭を下げた。麦わら帽子のつばが揺れ、影が鎖骨のあたりに落ちた。
顔を上げたとき、ふと、目が合った。
——綺麗な人だ。
そう思ったのは、別に色恋の感覚じゃない。三百年も生きていれば、美醜の感覚は人間とはズレてくる。
ただ、この女の顔には——なんというか、疲弊と矜持が同居していた。目の下にうっすら隈があり、手は荒れ、服は何度も洗って色が褪せている。それでも背筋は伸び、子供たちに見せる笑顔には一切の翳りがない。
生活に削られながら、折れない人間。
そういう人間を、俺は嫌いじゃなかった。
「ね、ね、お兄ちゃん」
小さいほうの子が俺の手を引っ張った。見上げてくる丸い顔に、遠慮という概念がまるでない。
「お兄ちゃんの目、きれー。なにいろ? きんいろ?」
「……琥珀色だ」
「こはくいろ? 宝石? すごいすごい! ねえお母さん、お兄ちゃんの目、宝石だって!」
「海音、あんまり引っ張ったらダメでしょう」
女が——瑠花が、慌てて娘の手を引き離そうとした。が、海音と呼ばれた子は離さない。がっしり握られた指は、小さいのに妙に力強かった。
大きいほうの子は、相変わらず俺を見ている。
「……結菜、お礼言いなさい」
瑠花がそう促す。
結菜と呼ばれた少女は、唇を薄く開き——
「……ども」
それだけ言って、視線を逸らした。
なるほど。こいつは手強い。
まあいい。礼は受け取った。これで終わりだ。原付に戻ろう。
そう思って踵を返しかけたとき、瑠花が声をかけてきた。
「あの——よかったら、お昼ごはん、一緒にいかがですか?」




