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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第5章:ちりん、と鳴った夏の終わり

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第1話:ざわめく夏、止まった車とひとつの出会い

三百年の時を生きる不器用な人狼と、海辺の街で暮らすある家族の、ひと夏の物語です。


決して交わるはずのない「永遠」と「日常」。

一緒に歳を重ねられないと分かっていながら、それでも惹かれてしまう不器用な恋と、ひとときの温かい食卓の風景を描きました。


沖縄の夏の空気と一緒に、楽しんでいただければ幸いです。


 七月の沖縄は、空ごと燃えていた。


 アスファルトの上に陽炎がゆらゆらと立ち昇って、その向こうに見える海が蜃気楼みたいに歪んでいる。ヘルメットの中は蒸し風呂で、額から流れた汗が顎を伝い、首筋に落ちた。


 ——じりじり、と。


 太陽が肌を焼く音が、聞こえる気がした。


 原付のエンジンが、喉を枯らしたみたいに掠れた音を立てている。数年前に中古で手に入れた、年季だけは一人前のポンコツだ。

 沖縄本島の南端近く、喜屋武岬へ向かう海沿いの細い道を、俺はのろのろと走っていた。


 左手にはガードレールの向こうに断崖と海。コバルトブルーなんて生やさしい色じゃない。沖縄の夏の海は、絵の具をぶちまけたみたいに鮮烈な青をしている。空との境目がわからなくなるほど青くて、三百年生きていても、この色だけは見飽きなかった。


 右手には、さとうきび畑。風が吹くたびに背の高い茎がざわざわと擦れ合い、葉先が日光を弾いてちかちか光る。その合間を、蝉の声が津波みたいに押し寄せてきた。


 ——じーーーーーっ。


 沖縄の蝉はクマゼミが多い。本土のミンミンゼミより鳴き声が鋭くて、鼓膜に釘を刺すような圧がある。イヤホンなんてしていなくても、エンジン音が掻き消されるほどだ。


 所持金、三千円弱。


 ポケットの中で丸まった紙幣と、じゃらじゃら言う小銭の感触を太ももの上から確かめる。ガソリンは半分。宿はない。次の仕事のアテもない。


 まあ、いつものことだ。


 三百年も生きていると、困ることには慣れる。人間の街に紛れて、日雇いの仕事で食い繋ぎ、金が尽きたらまた次の街を探す。その繰り返し。季節が巡っても、景色が変わっても、俺だけが同じ場所に立っている。


 ——孤独か?


 そりゃ、最初の五十年くらいは堪えた。


 でも、百年も経てば慣れる。二百年経てば、それが当たり前になる。三百年目ともなれば、孤独は空気みたいなもんで、いちいち意識しなくなる。


 そう自分に言い聞かせるたびに、影の中でクロが微かに鼻を鳴らすのが癖になっていた。「嘘つき」とでも言いたげな、静かな気配。


「うるせぇ、黙ってろ」


 声に出して言ったら、原付のミラーに映った自分の顔がひどく間抜けだった。


 琥珀色の瞳。夏の夕方に淹れた麦茶みたいだと、昔どこかの婆さんに言われたことがある。通った鼻筋、長い睫毛、少し長めの黒髪が風に煽られて視界にかかる。見た目は二十歳そこそこの青年。


 中身は、三百年分の疲労を溜め込んだ化け物だが。


 さとうきび畑が途切れ、道が少し上りになった。その先にカーブがある。海風が正面から吹きつけて、潮の匂いがヘルメットの隙間から入り込む。


 カーブを曲がった瞬間、視界に飛び込んできたのは——


 ハザードランプを点滅させた、古い軽自動車だった。


 ---


 かちっ、かちっ、かちっ。


 ハザードランプが律儀に明滅を繰り返している。


 白い——いや、元は白かったのだろう。今はくすんだクリーム色に褪せた軽自動車が、道の端で傾いていた。左前輪が、ぱっくりと口を開けた側溝にすっぽりとはまり込んでいる。


 車の前で、女が一人、しゃがみ込んでいた。


 三十代半ばだろうか。麦わら帽子を被り、白いリネンのブラウスの袖をまくって、タイヤの周りの泥を素手で掻き出そうとしている。額に汗が光り、唇を固く結んでいた。


 後部座席のドアが開いていて、二人の女の子が外に出ていた。


 大きいほうの子は、黒髪のボブカットで、日差しの中に立ちながらも表情が暗い。母親の横で腕を組み、何か考え込むようにタイヤを見つめている。十一歳くらいか。


 小さいほうの子は、対照的だった。小麦色の肌に丸い頬。日焼けした鼻の頭。道端のハイビスカスの花をちぎって、くるくる回しながら何やら歌っている。七つか八つか。世界のどこにも困りごとなんてないみたいな顔をしている。


 俺は原付のスピードを落とし、横を通り過ぎようとした。


 ——通り過ぎようと、した。


「あのっ……!」


 女が立ち上がり、こちらに手を上げた。泥だらけの手。困り果てた顔。けれど卑屈さのない、まっすぐな目。


 俺はアクセルを握ったまま、一瞬だけ迷った。


 面倒くせぇ。


 心の中でいつもの口癖が出る。


 人間に関わると碌なことがない。それは三百年かけて学んだ、数少ない確かな教訓だ。助けたところで感謝されるのは一瞬、忘れられるのは翌日、利用されるのは——もう数えきれない。


 だが。


 女の後ろで、小さいほうの子が花をくるくる回すのをやめて、こっちを見上げた。大きな目。太陽みたいな、屈託のない顔。


「——お兄ちゃん、バイクかっこいい!」


 ……。


 俺は原付を路肩に寄せ、エンジンを切った。


 かちかちかちかち、とハザードの音だけが残る。蝉の声がその隙間を埋め尽くすように降ってくる。


「すみません、ロードサービスに電話したんですけど、入ってなくて……。JAFも、その、入会してなくて……」


 女が早口で言いながら、気まずそうに目を伏せた。泥だらけの指先を太ももで拭おうとして、やめている。


「レッカー呼ぶと高いんですよね。近くに人がいないかなって思って……ああでも、こんな細い道じゃ」


「ちょっと見せろ」


 俺はヘルメットを外してハンドルにかけ、軽自動車の前にしゃがんだ。


 左前輪は側溝に二十センチほど落ち込んでいる。溝の縁にタイヤの側面がこすれて、ゴムが少し削れていた。車体が傾いでいるせいで、自力での脱出はまず無理だろう。普通の人間なら。


 普通の人間なら、だ。


「板か何か噛ませて、押してみるか」


 一応、人間らしい手順を踏むフリをする。周囲を見回して、道端に転がっていた流木を一本拾い、タイヤと側溝の縁の間に差し込んだ。


「すみません、私も押しますから——」


「いい。運転席に乗ってギアをバックに入れて、俺が合図したらアクセルを軽く踏め」


「は、はい」


 女が慌てて運転席に滑り込む。


 大きいほうの子が、腕を組んだまま俺を見ていた。黒いボブの下で、強い意志を湛えた瞳がじっとこちらを観察している。値踏みするような、警戒するような。まるで母親を守る小さな番犬だ。


 なかなか鋭い目をしている。こういうガキは、嘘が通じない。


 俺はタイヤの横にしゃがみ、片手をフェンダーの下縁にかけた。もう片方の手でタイヤのホイールに指をかける。


 さて——問題は力加減だ。


 この車は軽自動車で、重さはせいぜい八百キロ。俺の腕力なら片手で持ち上がる。コンクリートの壁を殴り抜ける拳で、戦車だって横転させられる。だが、それをやったら人間界で暮らせなくなる。


 大げさにならないように。あくまで「若くて力持ちの兄ちゃんが頑張った」程度に見えるように。


「……いくぞ。踏め」


 女がアクセルを踏む。エンジンが唸り、タイヤが空回りして泥を撥ねた。


 その瞬間に合わせて、俺はタイヤを斜め上に抜き出すように力を入れた。腕に走る力は全体の百分の一にも満たないが、軽自動車にはそれで充分すぎた。


 がこんっ、と鈍い音がして、タイヤが側溝の縁を外れた。車体がぐらりと揺れ、そのまま後ろへと抜ける。

 四輪がアスファルトの上に戻った。


「わあっ!」


 小さいほうの子が手を叩く。


「すごーい! お兄ちゃん、めっちゃ力持ち!」


 女が運転席から降りてきた。目を丸くしている。


「え……一人で? あの、板噛ませただけで……?」


「たまたまタイヤの角度がよかっただけだ」


 適当に誤魔化す。汗ひとつかいていない自分の額を、一応シャツの袖で拭う動作だけしておいた。


「ありがとうございます……本当に、助かりました」


 女が深々と頭を下げた。麦わら帽子のつばが揺れ、影が鎖骨のあたりに落ちた。


 顔を上げたとき、ふと、目が合った。


 ——綺麗な人だ。


 そう思ったのは、別に色恋の感覚じゃない。三百年も生きていれば、美醜の感覚は人間とはズレてくる。


 ただ、この女の顔には——なんというか、疲弊と矜持が同居していた。目の下にうっすら隈があり、手は荒れ、服は何度も洗って色が褪せている。それでも背筋は伸び、子供たちに見せる笑顔には一切の翳りがない。


 生活に削られながら、折れない人間。


 そういう人間を、俺は嫌いじゃなかった。


「ね、ね、お兄ちゃん」


 小さいほうの子が俺の手を引っ張った。見上げてくる丸い顔に、遠慮という概念がまるでない。


「お兄ちゃんの目、きれー。なにいろ? きんいろ?」


「……琥珀色だ」


「こはくいろ? 宝石? すごいすごい! ねえお母さん、お兄ちゃんの目、宝石だって!」


海音みおん、あんまり引っ張ったらダメでしょう」


 女が——瑠花が、慌てて娘の手を引き離そうとした。が、海音と呼ばれた子は離さない。がっしり握られた指は、小さいのに妙に力強かった。


 大きいほうの子は、相変わらず俺を見ている。


「……結菜、お礼言いなさい」


 瑠花がそう促す。


 結菜と呼ばれた少女は、唇を薄く開き——


「……ども」


 それだけ言って、視線を逸らした。


 なるほど。こいつは手強い。


 まあいい。礼は受け取った。これで終わりだ。原付に戻ろう。


 そう思って踵を返しかけたとき、瑠花が声をかけてきた。


「あの——よかったら、お昼ごはん、一緒にいかがですか?」



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