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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第4章:満月の夜、吸血鬼が来る――銀の十字架と影狼と、言えなかった恋

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第14話:「元気でね」 欠け始めた月に呟いた一言

 カミヤが去った翌日。


 いつも通り白衣を着た。いつも通り髪を一本に束ねた。いつも通り紺のカーディガンを羽織って、いつも通り診療所の朝を始めた。


「大丈夫かね」


 宗方先生が、朝のコーヒーを淹れながら聞いてきた。何気ない声。でも丸眼鏡の奥の目は、四十年分の人生経験が詰まった深さで私を見ている。


「何が? いつも通りですけど」


「……そうか」


 先生はそれ以上何も言わなかった。ただコーヒーカップをもう一つ——いつもは二つしか出さないのに——三つ目を出しかけて、手を止めた。静かにカップを棚に戻す。


 その小さな仕草が胸に刺さって、私は慌てて背を向けた。


「午前の予約、確認してきます」


 足早に廊下を歩く。目が腫れているのは鏡で確認済みだ。昨夜、あれだけ泣いたのだから当たり前だ。冷たいタオルで冷やしたけれど、完全には引いていない。


 午前中は三人の患者を診た。風邪の子ども、膝の痛い農家のおばさん、定期検診の辰巳のおっちゃん。


 辰巳のおっちゃんが血圧を測りながら、ぽつりと言った。


「あの兄ちゃん、行っちまったなぁ。いい男だったのに」


「……血圧、上が148。少し高いですね。塩分控えてって何度も言ってるでしょう」


「はいはい。——でもなぁ、澪ちゃん。あの兄ちゃん、出てく時の顔、見たかい。ありゃあ——」


「次の患者さん、呼びますね」


 遮った。これ以上聞いたら、白衣の下で組んだ腕がほどけてしまいそうだった。


 ---


 夜。


 一日の業務を終えて、カルテの整理をしていた。


 五十音順にファイリングされたカルテの束。あ行、か行、さ行——


 指が止まった。


「狼谷」。


 カミヤのカルテ。


 そっと抜き出す。表紙を開く。宗方先生の端正な字で記された病歴。入院日、主訴、治療経過。「銀微粒子の残留による再生能力低下」なんて、医学のどんな教科書にも載っていない記述。


 ページをめくる。私が毎朝記録した体温と血圧の推移。几帳面な数字の羅列。三十六度八分、三十七度二分、三十六度五分——。


 数字の隙間に、あの日々が透けて見える。


 朝の検温で「起きなさい」と声をかけると、めんどくさそうに目を開けたこと。包帯を換える時、痛がるそぶりも見せずに窓の外を見ていたこと。食事の皿に一品多く盛ったおかずを、何も言わずに完食していたこと。


 カルテを閉じた。


 引き出しの一番奥——普段は使わない、鍵のかかる引き出しにカルテをしまった。鍵をかけて、鍵を白衣のポケットに入れた。


 捨てられない。かといって、毎日目に入る場所には置けない。


 窓の外を見る。


 月が出ていた。もう満月じゃない。右側が少し欠け始めた、いびつな月。あの夜の完璧な円からは、もう崩れ始めている。


「……ちゃんと食べてるかしら、あの馬鹿」


 千代ばあちゃんのおにぎり、すぐなくなるだろう。あの人は燃費が悪そうだから。ちゃんと温かいものを食べているだろうか。原付で長距離は体が冷えるのに、ジャケット一枚で——


「……っ」


 唇を噛んだ。


 もう、やめなさい。


 あの人はもういない。ここにはいない。それでいい。それが正しい。


 白衣を脱いで、カーディガンだけの姿になる。髪留めを外して、黒髪が肩に落ちる。


 鏡に映った自分の顔は、ひどいものだった。目が赤くて、頬がこけていて、唇の色が悪い。


 でも——泣いてはいなかった。


 もう泣かない。あの朝、全部泣き切った。これからは、この村で、この診療所で、白衣を着て生きていく。あの人がいてもいなくても、ここには私を必要としている人たちがいる。


 欠け始めた月に、小さく呟いた。


「……元気でね」


 ---


 国道を南へ。


 原付の振動が、腰から背骨を通って頭まで伝わってくる。見慣れた感覚だ。三百年、何度この振動を——いや、原付に乗るようになったのはここ数十年の話だが、旅の振動そのものは三百年分だ。


 風が冷たくなってきた。山間部を抜けて、平野に出た。道沿いのコンビニで缶コーヒーを買い、駐車場で一息つく。


 ポケットの中の、不格好なマスコットに指が触れる。


 ボタンの目。ズレた縫い目。白衣の形。


 あの声が、まだ耳の奥にこびりついている。人狼の聴覚は、一度拾った音を簡単には忘れない。


「好きよ、ばか」


 ……ああ。


 俺もだよ。


 言えなかった。言わなかった。


 あの時、振り返っていたら。「俺もだ」と言っていたら。原付を止めて、あいつの手を取って、「一緒に来い」と——


 駄目だ。


 それは駄目だ。


 あいつをこの旅路に連れ出すことは、あいつの居場所を奪うことと同義だ。あの診療所で、白衣を着て、村の人たちの命を守ること。それがあいつの生きる意味で、あいつの誇りで、あいつの光だ。


 俺にはその光を奪う権利がない。


 缶コーヒーを飲み干す。苦い。あいつが夜に飲んでいた缶コーヒーと同じブランドだと、買ってから気づいた。


「……参ったな」


 影の中から、クロがぬるりと顔を出した。冷静沈着なリーダー格の影狼が、黒い瞳で主を見上げている。


『——未練たらしいぞ、主』


「……うるせぇ。黙って寝てろ」


『三百年で初めて見た。お前が泣くところ』


「泣いてねぇよ」


『風のせいか?』


「……そうだ。風のせいだ」


 クロは鼻を鳴らして、影の中に戻っていった。信じていない目だった。


 空き缶をゴミ箱に投げ入れて、原付に跨る。エンジンをかける。


 次の町へ。次の出会いへ。次の——誰かの命を助ける場所へ。


 走り出す。


 ポケットの中で、小さな白衣の天使が心臓の鼓動に合わせて揺れている。


 秋の日差しが国道を金色に染めていた。影が長く伸びる。その影の中に、五匹の狼が静かに眠っている。


 バックミラーには、もう山は映っていない。


 前だけを見る。


 それが、三百年の生き方だ。


 それが——俺たちの正解だ。


 たぶん。


 きっと。


 ジャケットの内ポケットに手を当てる。マスコット越しに、自分の心臓の音が聞こえる。


 あいつの体温の残滓が、まだほんの少しだけ、そこにあった。


 ---


 秋の風が、山あいの診療所の窓を揺らしている。


 澪は白衣のポケットに手を入れた。指先に触れるのは、小さな鍵。カミヤのカルテをしまった引き出しの鍵。


 それを握りしめて、次の患者のカルテを開く。


「——次の方、どうぞ」


 声は凛として、冷静で、いつも通り。


 その白衣の下の紺のカーディガンのポケットには、銀の十字架が静かに光を湛えていた。





 ――第4章 了――



最後までお読みいただき、ありがとうございました。


書きたかったのは「好きだと言えないまま別れる二人」の話でした。


カミヤは守るために去り、澪は縛らないために見送る。どちらも相手を想っての選択で、どちらも正しくて、どちらも少しだけ間違っている。そういう不完全さが、人間(と人狼)の愛おしさだと思っています。


澪が最後に呟いた「好きよ、ばか」は、人狼の耳にはしっかり届いています。届いた上で、振り返れなかった。——その切なさが、皆さまの胸に残っていたら、書き手として本望です。


二人の未来がどうなるかは、もう少しだけ、想像の余白に預けさせてください。


感想・ブックマーク・評価、何でも励みになります。


またどこかの物語でお会いしましょう。


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