第13話: 「好きよ、ばか」――エンジン音に消えた、最後の言葉
出発の朝は、よく晴れていた。
秋の空は高くて青くて、山の木々が赤や黄色に色づき始めている。空気が冷たくて、息を吸うと肺の奥まで澄んだ匂いが染み渡る。
こんな日に出ていくのか、と思った。
こんなに綺麗な日に。
診療所の前の小さな広場に、原付バイクが停まっている。荷台には旅の荷物が括りつけられて、カミヤはその横でヘルメットの顎紐を調整していた。
病衣ではなく、来た時のジャケットとジーンズ。澪が血の染みを洗い落として、ほつれを繕っておいた服。——そのことにカミヤが気づいているかは、わからない。
見送りの人たちが集まっていた。
こんな小さな村で、たった数週間の滞在だったのに。
戸塚が駆け寄ってきた。嶺風会のリーダー、温厚な大学院生。あの日、山中で血まみれのカミヤを見つけて、簡易担架を作って運んでくれた人。
「カミヤさん、またこの山に来てくださいよ。秋の紅葉、最高なんですから。来年は一緒にトレッキングしましょう」
カミヤは少し面食らったような顔をして、それから不器用に頷いた。
「……ああ。機会があれば」
辰巳のおっちゃんが肩を叩く。郵便局長で、村の情報通。骸の一件の時、見慣れない蝙蝠の群れを最初に気にしていたのもこの人だった。
「若ぇの、無茶すんなよ。この辺の山道は冬になると凍結するからな、今のうちに南下しとけ」
「気をつける」
千代ばあちゃんが風呂敷包みを押し付けてきた。ずっしりと重い。
「おにぎり。鮭と昆布と梅。足りないかもしれないけど、途中で食べなさい」
「……こんなに」
「若い男の子はすぐお腹が空くんだから。ほら、遠慮しないの」
カミヤは風呂敷包みを両手で受け取って、深く頭を下げた。千代ばあちゃんの皺だらけの手が、カミヤの頭をぽんぽんと叩く。
「いい子だねぇ。——元気でね」
宗方先生が最後に歩み寄った。白衣ではなく、いつものカーディガン姿。四十年この村で命を診続けてきた老医師の、穏やかで深い目。
「体を大事にしなさい。君の体は頑丈だが、万能じゃない。銀には気をつけろ」
「……はい」
先生はカミヤのジャケットのポケットに、封筒をねじ込んだ。
「路銀だ。払えるようになったら返しなさい」
「先生、これは——」
「受け取れ。医者の言うことは聞くもんだ」
カミヤは封筒をポケットに押し込み直すと、先生に向かって、今日一番深い礼をした。
「——世話になりました」
先生は丸眼鏡をくいと上げて、ふっと笑った。
「……達者でな」
三百年。
この人はきっと、こうして町を離れてきたのだろう。でも今回は、これまでとは違ったはずだ。見送りに来る人たちがいる。おにぎりを包んでくれるおばあちゃんがいる。路銀を渡してくれる医師がいる。
初めて「村」に受け入れられた人狼の喉が、何度も何度も、小さく動いていた。
そして。
カミヤが、私のほうを見た。
村の人たちが自然と道を開ける。千代ばあちゃんが意味ありげに微笑み、宗方先生が静かに目を伏せる。
私は——白衣を着ていなかった。
今日は休みじゃない。出勤日だ。でも、白衣を着る気になれなかった。
紺のカーディガン。ジーンズ。いつも一本に束ねている髪を、今日は下ろしていた。理由は自分でもわからない。嘘だ。わかっている。わかっているけれど、認めたくない。
カミヤの琥珀色の目が、一瞬だけ見開かれた。
私の「白衣を脱いだ」姿を見て。看護師ではなく、一人の女としての私を見て。
何秒だったのか、何十秒だったのか。
私たちは黙って向かい合っていた。
秋の風が吹いて、下ろした髪が頬にかかる。払いのける余裕もなかった。言いたいことが山ほどあって、喉元まで来ていて、でもどの言葉を選んでも嘘になりそうで。
カミヤが先に口を開いた。
「……世話になった」
「別に。仕事だったから」
いつものセリフ。何十回と繰り返した常套句。でもその声が——自分で聞いてもわかるくらい——かすかに揺れていた。
カミヤの口が動きかける。何か言おうとしている。目が揺れている。あの琥珀色の中に、三百年分の言葉が渦巻いているのが見える。
でも結局、出てきたのは。
「……元気でな」
それだけだった。
ああ——この人もだ。
この人も、私と同じで、大事なことほど言葉にできない。
胸が軋んだ。泣きたかった。でもここで泣いたら、この人は罪悪感で動けなくなる。だから泣かない。泣いてたまるか。
代わりに、ポケットに手を入れた。
夜勤の合間に、不眠の夜に、少しずつ少しずつ針を動かして縫った、小さな布のマスコット。白い布で白衣を模して、黒い糸で髪を作って、ボタンの目をつけた。
自分に似せたつもりだった。でも出来上がったそれは、ボタンの目が左右でズレていて、腕の長さもちぐはぐで、お世辞にも上手とは言えない代物だった。
それでいい。上手に作れる器用さがあったら、私はもっと別の生き方をしていた。
「これ、あげる」
掌に載せて差し出す。
「……あんたの旅の、お守りに。別に深い意味はないから。仕事の練習で作っただけ。勘違いしないで」
カミヤは私の手の中の不格好なマスコットを見つめた。ボタンの目。ズレた縫い目。白衣の形をした、私の分身。
大きな手が、それをそっと包み込むように受け取った。
「……ありがとな。大事にする」
その声の温度に、堪えていた涙腺が危うく決壊しかけた。唇の内側を噛む。血の味。痛みで感情を押し戻す。あの夜、骸の魅了から逃れた時と同じやり方。
カミヤがマスコットをジャケットの内ポケット——心臓の上——にしまうのを、私はじっと見ていた。
カミヤが原付に跨り、エンジンキーに手を伸ばした。
その瞬間。
体が勝手に動いた。
カミヤのジャケットの裾を、右手が掴んでいた。
指先に力が入る。離したくない。離さなきゃいけない。わかっている。頭ではわかっている。でも指が言うことを聞かない。
「……最後、ハグして」
声が震えた。消え入りそうだった。たぶん人狼の聴覚でなければ聞き取れないくらいの、小さな小さな声。
看護師としてでも、仕事としてでもなく。
氷室澪という一人の女として、最初で最後の我がままだった。
カミヤの背中が一瞬だけ強張って——そしてすぐに、原付を降りた。
振り向いたカミヤの顔を、私は一生忘れない。
琥珀色の瞳に浮かんでいたのは、優しさと、痛みと、どうしようもない諦念が全部混ざった、名前のつけられない色だった。
腕が伸びてきて、私の体を引き寄せた。力強く。でも壊さないように。
カミヤの胸に顔が埋まる。
心臓の音が聞こえた。力強く、規則正しく、三百年を刻んできた鼓動。その上に、さっき私が渡したマスコットがある。私の分身が、この人の心臓の上にある。
匂いを吸い込んだ。秋の風と、機械油と、微かな獣の体温。この匂いを覚えておきたかった。細胞の一つひとつに刻み込みたかった。
どれくらいそうしていただろう。
腕を解く。体が離れる。
見上げると、カミヤの琥珀色の目が、至近距離にあった。
私の唇が震えていた。言葉にならない何かを求めて。好きだと言いたい。行かないでと言いたい。でもそのどちらも言ってはいけない。言ったらこの人を縛ってしまう。この人の三百年の旅路を、私の感情で歪めてしまう。
だから何も言わなかった。
代わりに、カミヤが動いた。
大きな手が私の肩に触れて、そっと引き寄せられて——唇に、温かいものが触れた。
優しかった。
けれど、その奥に深い後悔と、もっと深い愛情が滲んでいて。
短い口づけだった。たぶん数秒。でもその数秒の中に、この人が三百年かけても言葉にできなかったすべてが詰まっていた。
唇が離れる。
「……じゃあな」
カミヤは今度こそ原付に跨り、エンジンをかけた。排気音が山あいに跳ね返る。
走り出す。
砂利を蹴って、小さな原付が山道に向かっていく。
一歩、踏み出した。追いかけようとした。でも二歩目で足が止まった。止めたんじゃない。止まったのだ。ここが私の場所だと、足が知っていた。
だから——背中に向かって。
もうエンジン音にかき消されて届かないとわかっている声で。
「……好きよ、ばか」
---
原付のバックミラーに、澪の姿が映っている。
一歩踏み出して、立ち止まった彼女。紺のカーディガン。下ろした黒髪が風に揺れている。口が動いた。
エンジン音にかき消されて、人間の耳には聞こえない。
——だが、人狼の聴覚は残酷なまでに正確だった。
「……好きよ、ばか」
ハンドルを握る手が白くなる。
止まりたい。Uターンして戻りたい。あの細い体をもう一度抱きしめて、どこにも行かないと言いたい。お前の隣にいたいと。三百年の孤独なんかもういらないと。
けれど。
俺は人狼だ。
あいつを俺の世界に引きずり込むわけにはいかない。殺し屋が来る。吸血鬼が来る。銀の弾丸と毒が追いかけてくる。あいつの隣にいれば、あいつが巻き込まれる。
あいつには白衣がある。あの診療所がある。宗方先生がいて、千代ばあちゃんがいて、村の人たちがいる。光の下で生きる場所がある。
俺の闇に、あいつを引きずり込む権利は——俺にはない。
バックミラーの中で、澪の姿がどんどん小さくなっていく。カーブを曲がれば、もう見えなくなる。
ポケットの中の、不格好なマスコットに触れる。ボタンの目がズレた、白衣の天使。澪の体温が、まだかすかに残っている。
唇に、柔らかな感触の記憶。
ジャケットに染みついた、消毒液の匂い。
琥珀色の目の端を、一筋の光が伝って落ちた。風が攫っていく前に、頬の上で乾いた。
カーブを曲がる。
バックミラーの中から、澪の姿が消えた。
「……ほんと、参ったな」
声が掠れた。喉の奥が焼けるように熱い。
秋の山道を、原付が下っていく。エンジンの振動がハンドルを通じて腕に伝わる。タイヤの下で枯葉が乾いた音を立てる。何もかもがいつも通りの旅立ちのはずなのに、体の真ん中にぽっかりと穴が開いたみたいに寒い。




