第12話:明後日には、彼は去る――手作りマスコットに込めた「ありがとう」
骸との決戦から三日が経った。
私はいつも通り朝の検温に向かう。廊下を歩く足取りが重いのは、昨夜あまり眠れなかったせいだ。それ以外の理由は、考えないことにした。
カミヤの病室のドアを開ける。
「検温——」
言葉が途切れた。
カミヤがベッドの上で上体を起こしていた。病衣の前をはだけて、自分の胸を確認している。
三日前、骸の腕に貫かれた傷。昨日まで生々しい赤紫色の瘢痕が残っていたそれが——消えていた。跡形もなく。肩の裂傷も、無数の擦過傷も。肌はまるで最初から何もなかったかのように滑らかで、ただ銀色の粒子の名残が微かにきらめいている。
「……毒、抜けたみたいだな」
カミヤが呟いた。その声には安堵よりも、どこか諦めに似た響きがあった。
私は体温計を差し出す。手は震えていない。震えさせない。
「三十六度四分。正常値」
カルテに数字を記入する。ペンの先が紙を走る音だけが、小さな病室に響く。
「血圧も脈拍も問題なし。傷も完治。——宗方先生に報告するわ」
事務的に。完璧に事務的に。
病室を出る時、振り返らなかった。振り返ったら何かが崩れる気がした。
---
午後。宗方先生がカミヤを診察室に呼んだ。
私もいつも通り補助につく。聴診器、触診、血液検査の簡易キット。先生の手つきは丁寧で、四十年の年輪が染み込んだ穏やかな所作で一つひとつ確認していく。
「——うん。銀の残留微粒子も検出限界以下だ。自己再生も正常に戻っている」
先生はカルテにペンを走らせ、それから——静かにカルテを閉じた。
パタン、と。
その小さな音が、やけに大きく聞こえた。
「退院だな」
先生の声は穏やかだった。丸眼鏡の奥の目が、カミヤを見て、それからちらりと私を見た。
「……寂しくなるな、ウチの診療所も」
カミヤは何も言わなかった。ただ小さく頭を下げて、診察室を出ていった。
私はカルテをファイルに戻す作業に没頭した。先生が何か言いたそうにしていたのはわかっていたけれど、今はその優しさを受け取る余裕がなかった。
---
翌日から、カミヤは旅支度を始めた。
診療所の裏に置かせてもらっていた原付バイク。埃を被ったそれを引っ張り出して、エンジンの整備を始めている。プラグを外し、キャブレターを清掃し、チェーンに油を差す。
私は洗濯物を干しながら、裏庭のその光景を見ていた。
カミヤの手つきは慣れたものだった。何百回、何千回とこうして旅支度をしてきたのだろう。町から町へ。出会っては別れ、助けては去り。三百年、ずっとそうやって生きてきた背中。
エンジンがかかった。低い排気音が山あいに反響する。
カミヤがアクセルを軽く煽って回転を確認し、満足そうにエンジンを切った。
「……順調みたいね」
声をかけたのは、無意識だった。
カミヤが振り向く。琥珀色の目が、秋の午後の日差しを受けて、夏の夕方の麦茶みたいに透き通っている。
「ああ。明後日には出られそうだ」
明後日。
たった二日。
「そう。退院届、用意しておくわ」
踵を返す。洗濯物のシーツが風に膨らんで、一瞬だけ私の顔を隠してくれた。
---
夜。
宿直室の狭いベッドに横になって、天井を見つめている。
眠れない。目を閉じると、琥珀色の瞳が瞼の裏に浮かぶ。振り払おうとすると、今度はあの夜の記憶が蘇る。血まみれの指が頬に触れた感触。「ありがとな」と掠れた声。私の涙を拭おうとした、あの不器用な優しさ。
——やめなさい、氷室澪。
自分に言い聞かせる。何度目かわからない。
冷静に、分析的に、自分の心を解剖する。
あの人は重傷だった。生死の境をさまよっていた。私は看護師として全力を尽くした。不眠不休で容態を監視し、汗を拭き、うわごとに耳を澄ませた。
そして——あの人は回復した。私の手の中で、命を繋ぎ止めた。
その達成感が、恋と錯覚を起こしている。
前にもあった。
都会の総合病院のICU。重症患者の担当になるたびに、のめり込んだ。寝食を忘れて付き添い、回復すれば安堵で涙を流し、亡くなれば自分の一部が削り取られるように感じた。同僚に「澪さん、入れ込みすぎだよ」と何度も言われた。
そして——あの医師。
外科医の彼に惹かれたのも、同じ構造だった。手術室で命を救う彼の姿に憧れ、必要とされたくて尽くし、けれど私のその重さに彼は耐えられなかった。「お前といると息が詰まる」。そう言って別の女のところに行った。
私はいつも、「必要とされること」に依存する。
だから今回も同じだ。カミヤが瀕死だったから。私に頼るしかなかったから。あの状況が生んだ、吊り橋効果みたいなもの。一時的な感情の昂り。時間が経てば冷める。冷めなきゃいけない。
——本当に?
天井の染みを数える。三つ目の染みがカミヤの横顔に見えて、思わず目を逸らした。
本当に、それだけ?
「面倒くせぇ」と言いながら、診療所の薪を黙々と割っていたあの背中は?
千代ばあちゃんに「あの子を泣かせたら許さんよ」と言われて、冗談じゃなく真剣に背筋を伸ばしたあの不器用さは?
私が缶コーヒー片手に過去を語った夜、何も聞かず、何も否定せず、ただ隣にいて——最後に「無理すんな」とだけ言ったあの声は?
あれは「患者と看護師」の関係から生まれたものじゃない。
あの人が薪を割るのは、入院費の代わりだと言い張ったから。私のおかず一品に気づいて指摘しないふりをしてくれたのは、私の不器用な好意を壊さないようにしてくれたから。あの人はいつだって、誰かを守るために自分を後回しにする——それが三百年の孤独で身についた、悲しい習性だと知っていても。
——好き。
認めた瞬間、涙が溢れた。
枕に顔を埋める。声を殺す。宿直室の壁は薄い。隣の部屋には誰もいないけれど、看護師が夜中に泣く姿なんて、誰にも見せたくなかった。
でも認めただけでは終われない。
あの人は三百年を生きた人狼だ。
日雇いの仕事で食いつなぎ、町から町へ渡り歩き、行く先々で人を助けては去っていく。人間界に紛れて生きることを選び、孤独を「慣れた」と笑う。あの人の時間は私とは違う。私が老いて死んでも、あの人はまだ旅を続けているだろう。
ついていけない。
仮に「一緒に行く」と言ったところで、私は足手まといにしかならない。あの夜だってそうだ。骸との戦いに、私ができたのは十字架を投げただけ。あとはカミヤが命を懸けて戦った。
私がそばにいれば、あの人はまた無茶をする。守ろうとして傷つく。私を庇って死にかける。
それは——嫌だ。
それだけは、絶対に嫌だ。
涙を拭う。枕カバーが濡れて冷たい。
ナイトテーブルの引き出しを開ける。中には夜勤の合間に、少しずつ縫っていた小さなマスコット。白い布で作った、白衣を着た人形。ボタンの目は左右で微妙にズレていて、手足の長さもちぐはぐ。裁縫は昔から苦手だった。
でも——これだけは、渡したい。
お守り、という名目で。
「……私は、ここで生きる人間だから」
声に出して言った。自分に刻み込むように。
好きだと認めた。それが献身癖の延長ではなく、本物の感情だと認めた。
その上で——手放す。
それが、私にできる精一杯の誠実さだった。




