第11話:銀の十字架が弧を描き、吸血鬼の顔が焼け溶けた――そして、彼が動いた
その瞬間。
「——その人から、手を離しなさいッ!!」
私の声だった。
気づいた時には宿直室を飛び出していた。部屋にいろと言われた。わかっていた。出たら足手まといになる。わかっていた。それでも——あの窓から見えた光景が、私の足を動かした。
カミヤが持ち上げられている。血まみれで、胸に穴が開いていて、それでも骸の腕を掴んで抵抗している——あの姿を見て、部屋にいられるわけがなかった。
私は走った。
裸足のまま。寝巻きの上に羽織ったカーディガンのポケットに、銀の十字架を握りしめて。
宗方先生が裏口から出てくるのが視界の端に映った。その手には——木の杭。いつの間に用意していたのか。先生の手が、月明かりの中で白く光る樫の木の杭を握っている。
迷わなかった。
銀の十字架を——投げた。
ソフトボールの遠投みたいなフォームだったと思う。体育は苦手だった。球技はもっと苦手だった。でも、あの時の私は、たぶん人生で一番いい球を投げた。
十字架は弧を描いて飛び、骸の顔面に直撃した。
銀が吸血鬼の肌に触れた瞬間——蒸気が上がった。
じゅう、と。焼けた鉄に水をかけた時のような音。骸の蒼白な肌が爛れ、焦げ、溶ける。顔の左半分が焼け崩れ、白い煙が月夜に立ち昇る。
骸が悲鳴を上げた。八百年の存在が上げる、この世のものとは思えない絶叫。カミヤの髪を掴んでいた手が離れ、カミヤの体が地面に落ちる。
骸が十字架を振り払おうとのたうつ。その動きが完全に止まる。一瞬——だが、それで十分だった。
カミヤが動いた。
膝をつき、血を吐き、胸に穴が開いたまま——それでもこの人は動いた。
地面に転がっていた木の杭を掴む。宗方先生が「念のため」と裏庭の樫の木を削って用意していた、あの杭を。先生がいつの間にか戦場の近くに置いていたのだ。
カミヤが最後の力を振り絞って立ち上がる。琥珀色——いや、金色の瞳が、月光を受けて燃えている。
渾身の力で、杭を骸の胸に突き立てた。
鈍い音がした。
肋骨を砕き、心臓を貫く、取り返しのつかない音。
骸の赤い目が見開かれた。口から黒い血が溢れる。体の端から——灰化が始まった。指先が、腕が、灰色の粒子になって崩れていく。
だが——八百年の生命力は、一撃では尽きなかった。
骸は杭が突き刺さったまま、体を蝙蝠の群れに変えた。数十匹の蝙蝠が夜空に散らばり、ばらばらに飛び去っていく。山の向こうへ。洋館の方角へ。棺桶の中で、長い長い眠りにつくために。
灰が夜風に舞い、月光に溶けて消えた。カラスの群れも散り、蝙蝠の翼音も遠ざかり——やがて、虫の声が戻ってきた。
戦いは、終わった。
カミヤが膝をつき、それから両手をついた。荒い、壊れたポンプのような呼吸。
「……面倒くせぇ、吸血鬼……」
私は駆け寄った。転びそうになりながら。裸足の足裏に小石が刺さる痛みなんて、どうでもよかった。
カミヤの傍に膝をつく。看護師の手で傷口を確認する。胸の穴。肩の裂傷。無数の擦過傷。——再生が始まっている。遅いけれど、始まっている。銀色の粒子がぽろぽろとこぼれ落ちて、傷口が少しずつ塞がっていく。
手が震えていた。看護師の手が。何千回と包帯を巻いてきたこの手が、今は制御できないほど震えていた。
「馬鹿。死ぬかと思ったじゃない……っ」
声も震えていた。喉の奥から搾り出した言葉は、怒りなのか安堵なのか、自分でもわからなかった。
カミヤが顔を上げた。朦朧とした金色の——いや、もう琥珀色に戻りかけている瞳が、私の顔を見ていた。
月明かりに照らされて、たぶん私はひどい顔をしていたと思う。泣きそうで、怒っていて、安堵していて、全部がぐちゃぐちゃになった顔。
「……泣くなよ」
カミヤの声は掠れて、ほとんど吐息だった。
「面倒くせぇから」
「泣いてないっ……! 仕事、だから……っ」
嘘だった。
涙がぼろぼろ溢れていた。止められなかった。銀の十字架を投げた時は一滴も出なかったのに、もう大丈夫だとわかった途端に、ダムが決壊したみたいに止まらなくなった。
カミヤの手が持ち上がった。血まみれの、骨と筋が浮き出た大きな手。その指先が、私の頬に触れた。涙の跡をなぞるように。ごつごつした指先の感触が、壊れそうなほど優しくて。
「……ありがとな」
その一言で、最後の壁が崩れた。
私はカミヤの胸に顔を埋めた。血と土と汗の匂い。その下に、この人だけの温かい匂い。三百年の孤独を抱えた獣の、確かな体温。
声を上げて泣いた。
看護師として、こんな姿は見せてはいけない。患者の前で泣くなんて。仕事の範疇を越えている。わかっていた。全部わかっていた。
でも——もう、嘘はつけなかった。
仕事だから。看護師としての使命感。患者への献身。
全部、嘘だ。
この人が死ぬかもしれないと思った瞬間、私の心臓が止まりかけた。あれは使命感なんかじゃない。あれは——
カミヤの腕が、私の背中にそっと回された。力なく、でも確かに。
月が私たちを見下ろしていた。戦場の跡。砕けた石垣と、散らばった灰と、黒い血の痕。その真ん中で、血まみれの獣と泣き崩れた看護師が、互いにしがみついている。
不格好で、みっともなくて、どうしようもなく——美しい光景だったと、後になって宗方先生は言った。
「……若いっていうのは、いいもんだな」
先生は丸眼鏡の奥の目を細め、樫の杭を削った小刀を懐にしまいながら、静かに診療所に戻っていった。
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あの夜のことを、私たちは言葉にしなかった。
カミヤは何も言わなかった。私も何も言わなかった。
ただ、月明かりの中で流した涙と、頬に触れた指先の温度だけが、二人の間に残った。
名前をつけてしまったら、壊れる。
名前をつけなければ、始まらない。
私たちはそのあわいで、もう少しだけ、こうしていたかった。
翌朝、いつも通り白衣を着て、いつも通りカミヤの検温をした。
「三十六度五分。正常ね」
「……おう」
目が合って、逸らした。
耳が熱かった。
銀の十字架は、カーディガンのポケットの中で、私の体温を吸ってじんわりと温かかった。




