第10話:「死ね、犬」――八百年の殺意が、月下で牙を剥く
満月の夜が来た。
空が異様だった。雲一つなく晴れ渡り、まん丸の月が山の稜線の上に浮かんでいる。こんなに明るい夜は、この村に来てから初めてだった。
夕食後の片付けをしていると、カミヤが台所に来た。
「澪。今夜は部屋から出るな」
その声には有無を言わさない重さがあった。
琥珀色の目が——いつもと違う。瞳孔が縦に裂けかけている。人間の目じゃない。獣の目に近づいている。
「何か、あるの」
「満月だ。俺の力が最大になる。だが——制御が難しくなる。今夜はお前の近くにいないほうがいい」
嘘じゃない。カミヤの体が微かに震えている。額に汗が滲み、腕の血管が浮き上がっている。全身の血が沸騰しているような、そんな荒々しさ。
「銀の毒がまだ完全には抜けてねぇ。変身すれば、制御がさらに——」
「わかった」
言葉を遮った。これ以上この人に喋らせたら、弱みを見せまいとする矜持が折れてしまうと思ったから。
「部屋にいる。——十字架は持ってるから」
カミヤは少しだけ目を細めた。安堵だったのか、それとも別の何かだったのか。
「……ありがとな」
私はカミヤに背を向けて、宿直室に向かった。振り返らなかったのは、振り返ったら引き止めてしまいそうだったからだ。
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午後九時。
宿直室の窓から、月明かりが白い帯のように差し込んでいた。ベッドに座り、銀の十字架を握りしめて、ただ耳を澄ませていた。
虫の声が——止んだ。
一瞬で。まるで見えない手が音量のダイヤルを回したように、秋の虫たちが一斉に沈黙した。
代わりに聞こえてきたのは、翼の音。
ばさ、ばさ、ばさ。
無数の、小さな翼が空気を叩く音。それが診療所の屋根の上を、壁の周りを、旋回している。
蝙蝠だ。
心臓が跳ね上がった。十字架を握る手に力を込め、窓に近づく。
月光に照らされた診療所の前庭——そこに、黒い影が立っていた。
蒼白な肌。黒い外套。あの夜、町の路地裏で出会った男。
骸が、診療所の正門に堂々と立っている。
そして、その骸を見下ろすように——診療所の屋根から、一つの影が飛び降りた。二階の高さから、猫のように音もなく着地する。
カミヤ。
月明かりの中、その姿は私の知っているカミヤとは違っていた。瞳が琥珀色から灼熱の金色に変わり、犬歯が唇の端から覗いている。全身から立ち昇る気配が、人間のそれじゃない。もっと熱く、もっと獰猛で、もっと——美しい。
「——おい、犬。あの女を渡せ」
骸の声が、夜気を裂いて響いた。低く、甘く、腐った果実のような声。
「八百年。欲しいと思った血は、逃がさん」
カミヤが一歩、前に出た。
「面倒くせぇな……」
その声は低く、喉の奥で唸るような響きを帯びていた。
「……帰れよ、蝙蝠野郎。ここの連中に手ぇ出すなら——俺が相手だ」
カミヤの足元から、影が噴き出した。
五匹。
黒い狼が、影という名の産道から次々と這い出してくる。月光を吸い込むような漆黒の体躯。それぞれが異なる大きさ、異なる気配を持っている。
先頭の一匹——最も大きく、最も冷たい目をした狼が、低い唸りを上げた。クロ。リーダー格。
その隣に、戦闘特化のキバ。筋肉の塊のような体躯に、名前の通り異様に発達した牙が月光を反射している。
上空にはシロガネが翼のように影を広げて滑空し、カゲは地面に溶け込むように姿を消した。最後の一匹、ツキがカミヤの足元に寄り添い、淡い光を纏っている。
五匹の影狼と一匹の人狼が、月の下で吸血鬼と対峙する。
骸は薄く笑った。
「影の使い魔か。——犬にしては芸が多いな」
骸が指を鳴らすと、夜空を覆っていた蝙蝠の大群が一斉に急降下した。同時に、洋館の周辺から飛来したカラスの群れが合流し、黒い嵐のように影狼たちに襲いかかる。
「行け」
カミヤの一言で、戦場が動いた。
クロとキバが正面から蝙蝠の壁を突き破り、骸に肉薄する。影のキバが骸の外套を裂き、黒い血が散る。だが骸は八百年の戦闘経験で即座に後退し、カラスの群れを盾にして距離を取る。
シロガネが上空から急降下し、骸の背後を狙う。しかし骸は感覚共有で——カラスの目を通して死角からの攻撃を完全に把握していた。身を捻り、シロガネの突撃をかわす。
カゲが地面の影を伝って骸の足元に忍び寄り、影から実体化して足首に噛みつく。骸の動きが一瞬止まる。
その一瞬を、カミヤは逃さなかった。
地面を蹴り、コンクリートにひび割れが走るほどの踏み込みから骸に拳を叩き込む。満月の力で最大化された怪力。骸の体が吹き飛び、診療所の石垣に激突して砂埃が舞い上がる。
だが——
砂埃の中から、骸は立ち上がった。石垣にめり込んだ体を引き抜き、首を鳴らす。胸骨がへし折れているはずなのに、みるみるうちに元の形に戻っていく。吸血鬼の再生力。
「……なるほど。満月の人狼か。力だけは一人前だ」
骸の瞳が深紅に燃えた。
その目がキバを捉えた瞬間——キバの動きが止まった。魅了。目を合わせた対象を意のままに操る、吸血鬼の最も恐ろしい能力。
キバが硬直した隙に、骸は怪力の蹴りを叩き込む。キバが悲鳴を上げて吹き飛び、影に戻って霧散する。
「キバッ——」
カミヤが叫ぶ。だがその一瞬の動揺を、骸は見逃さない。
体が蝙蝠の群れに分解する。数十匹の蝙蝠が夜空に散らばり、カミヤの視界から消える。次の瞬間——背後で蝙蝠が再結合し、骸がカミヤの首筋に牙を突き立てようと迫る。
カミヤは紙一重で身を捻り、骸の牙が肩の肉を抉るに留まる。黒い血が噴き出す。ツキが駆け寄り、治癒の光を当てる。だが銀の毒の残滓が体内に残り、再生が通常の速度に戻らない。傷の修復が遅い。致命的に遅い。
骸はそれを見抜いていた。
持久戦に持ち込む。カラスと蝙蝠の群れで影狼たちの動きを封じ、自身は骸の再生力を活かして消耗戦を仕掛ける。
カミヤの息が上がっていく。
クロがカミヤの傍に寄り、低い声で唸った。
『主、体の毒が限界に近い。これ以上は——』
「黙れ。まだやれる」
カミヤは拳を握り直す。だが、膝が震えている。満月の暴走衝動が理性を蝕み、銀の毒が体を内側から焼いている。
骸が歩み寄ってくる。余裕の足取りで。
「銀の毒が残っているな? 犬にしては頑張ったが——もう限界だろう」
骸の赤い瞳が、カミヤの目を正面から射抜いた。
魅了。
人狼の精神力は強い。通常なら、この程度の催眠は弾き返せる。だが今のカミヤは——満月の暴走衝動と、銀の毒の苦痛と、理性を保とうとする意志の三つが拮抗して、精神のリソースが限界に達していた。
体が——固まった。
一秒。
たった一秒。だがそれで十分だった。
骸の腕がカミヤの胸を貫いた。
「——ッ!」
血を吐く。肺に穴が開いた感覚。それでもカミヤは骸の腕を両手で掴み、力任せに引き抜いた。骸の指が肋骨を擦り、肉が裂ける音が夜に響く。
膝をついた。
再生が——追いつかない。ツキが必死に治癒の光を当てるが、銀の毒に蝕まれた体は光を吸収しきれない。
クロもシロガネもカゲも満身創痍。カラスと蝙蝠の群れに視界を塞がれ、物理攻撃の威力も落ちている。
骸がカミヤの前に立ち、見下ろした。
そしてカミヤの髪を掴み、持ち上げた。
足が地面を離れる。首の骨が軋む。骸の冷たい指が頭蓋を万力のように締め上げる。
「——死ね、犬」
骸の声は、もう笑っていなかった。八百年の生命が宿す、純粋な殺意。
「あの女は——私がもらう」




