第9話:満月の夜、あの女をいただく――骸(むくろ)の蜘蛛の糸
夜の診療所は、昼間とはまるで別の顔をする。
白い蛍光灯が落とされた廊下には、非常灯のぼんやりした橙色だけが床に染みを作っていて、消毒液の匂いが昼間の三倍は濃く鼻につく。
私はナースステーションの小さなデスクで、カルテの整理をしていた。
宗方先生はもう奥の住居スペースに引き上げている。腰を痛めていた田所のおじいちゃんも昨日退院して、入院患者はカミヤだけ。
カミヤ。
ペンが止まる。
あの夜——町で出会った男のことを、まだ誰にも話せていない。
赤い目。動かなくなった体。自分の手を噛んで、やっと正気に戻ったこと。
あれは何だったのか。
夢だったと思いたかった。でも、左手のひらにはまだ歯型の痕が薄く残っていて、鏡を見るたびに現実を突きつけてくる。
「——澪」
声に振り向くと、廊下の暗がりにカミヤが立っていた。
病衣姿。裸足。琥珀色の目だけが、非常灯の光を拾って淡く光っている。
「……何、こんな時間に。ベッドに戻りなさい」
「話がある」
いつもの「面倒くせぇ」も、ぶっきらぼうな前置きもない。
声のトーンが違う。低くて、硬い。
私は反射的にペンを置いて立ち上がっていた。看護師の勘が、これはただ事じゃないと告げている。
「——先生も呼ぶ」
「ああ。頼む」
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宗方先生を起こして、診察室に三人が集まった。
先生は丸眼鏡をかけ直しながら椅子に座り、私はその隣に立った。カミヤは処置台の縁に腰を下ろし、しばらく黙っていた。
何かを言おうとして、やめて、また口を開きかける。
三百年生きてきた存在が、言葉を選びあぐねている。その姿が、妙に人間くさくて——胸の奥がちくりと痛んだ。
「……澪。お前に話がある。信じなくてもいい。けど、聞いてくれ」
カミヤは処置台の脇に置いてあったメスを手に取った。
「ちょっ——何して」
止める間もなかった。
カミヤは自分の左手の甲に、ためらいなくメスを走らせた。皮膚が裂け、赤い血が——いや、血と一緒に、銀色の粒子がこぼれ落ちた。
ガラスの粉を光に透かしたような、きらきらとした微細な光。
そして。
傷が、塞がっていく。
目の前で。三秒、五秒、十秒。メスで裂いたはずの皮膚が、まるで時間を巻き戻すように滑らかに接合されていく。血の跡だけが手の甲に残って、傷そのものは跡形もない。
呼吸を忘れていた。
「俺は人狼だ」
カミヤの琥珀色の目が、まっすぐに私を見ていた。
「三百年、生きてる」
心臓がうるさい。頭の中が真っ白になって、次に灰色になって、それから——怒りが湧いた。
「ふざけないで」
声が震えた。自分でもわかるくらい、みっともなく。
「何よそれ。人狼? 三百年? 馬鹿じゃないの。そんなの——」
「澪」
宗方先生の、静かな声が遮った。
「私からも話がある。——この青年の体は、医学の常識では説明がつかん。摘出した銀の弾丸、異常な回復速度。私は彼から、入院直後に話を聞いていた」
足元が揺れた気がした。
先生は——知っていた?
「先生……」
「黙っていたのは私の判断だ。確証がないまま君を混乱させたくなかった。だが、今は話すべき時だ」
先生の目が、丸眼鏡の奥で静かに光っている。四十年、この山村で命を診続けてきた医師の目。揺るがない、深い目。
カミヤが口を開いた。
「——そして、お前を狙ってるやつがいる。吸血鬼だ」
空気が、凍った。
吸血鬼。
その言葉が耳に入った瞬間、あの夜の記憶が鮮明に蘇った。路地裏。蒼白な肌。温度のない顔。赤く光る目。操られかけた意識。自分の手を噛んで——
「……あの夜の男が、それなの」
声は自分のものとは思えないほど、掠れていた。
カミヤが頷いた。
「お前の体に、匂いが残ってた。人間のものじゃねぇ。腐敗と甘い血が混じったような——吸血鬼の気配だ。あの日お前が町から帰ってきた朝、すぐにわかった」
あの朝。私がいつも以上に事務的に振る舞って、手の震えを隠していた朝。
この人は、気づいていた。
何も言わずに、ずっと。
「——なんで、もっと早く言わなかったのよ」
「確証がなかった。それに——」
カミヤは目を逸らした。
「お前を、余計に怖がらせたくなかった」
その一言が、怒りの矛先を完全に折ってしまった。
膝から力が抜けそうになるのを、処置台の角を掴んでこらえた。
宗方先生が、診察室の奥の戸棚に向かった。古い木箱を棚の最上段から下ろし、埃を払って開ける。
中に収まっていたのは、掌ほどの大きさの銀の十字架だった。年月を経て黒ずんでいるけれど、蛍光灯の光を受けて鈍く、確かに光っている。
「先代の院長が残したものだ。この土地に伝わる魔除けだと言っていた。効くかどうかは——まあ、今なら信じてみる価値があるだろう」
先生がその十字架を、私の手に載せた。
ひんやりとした金属の重み。
「お守りだ。肌身離さず持っていなさい」
握りしめると、不思議と指の震えが止まった。
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カミヤは、あの夜から毎晩のように診療所を出ていく。
夜勤の巡回で廊下を歩くと、カミヤのベッドはもぬけの殻。窓が少しだけ開いていて、秋の夜気が白いカーテンを揺らしている。
最初の頃は「勝手に出歩かないで。傷が開いても知らないから」と怒鳴った。
カミヤは「ちょっと散歩だ」とだけ言って、夜明け前にはベッドに戻っている。
——嘘だ。
散歩なんかじゃない。この人は毎晩、何かを警戒して診療所の周りを見回っている。
私を、守ろうとしている。
そのことに気づいてしまうと、胸の奥で名前のつけられない感情がぎゅっと締まるように痛んで、私はベッドの中で銀の十字架を握りしめることしかできなかった。
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その頃、カミヤが何をしていたかを、私は後になって知ることになる。
影狼——カミヤが自分の影から召喚できるという、五匹の黒い狼たち。
カゲを山中の隠密偵察に。シロガネを診療所上空の監視に。毎夜、カミヤの影から音もなく滑り出して、闇に溶けていく。
数日後、シロガネが報告を持ち帰った。
『——主。裏山の尾根、毎夜同じ時刻に蝙蝠の大群が出る。百を超える。だが異常なのは一匹だ。翼幅が二メートルを超えている。あれは獣じゃない』
カミヤは診療所の屋根の上で、月を見ながら低く唸ったという。
三百年の記憶が、警鐘を鳴らしている。
吸血鬼。
何度か遭遇し、何度か殺しかけ、何度かは殺されかけた。人狼と吸血鬼——闇の種族同士、互いの弱点を知り尽くした天敵。
「……あいつ、こっちを探ってやがるな」
クロが影の中から顔を覗かせた。冷静沈着なリーダー格の狼。
『あの蝙蝠の軌道は、明らかに診療所を中心に旋回している。標的はあの女——看護師だろう』
「わかってる」
カミヤの琥珀色の目が、闇の中で炎のように揺らいだ。
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山間の洋館。
夜の帳が最も深くなる午前二時。
地下室の棺桶の蓋が、内側からゆっくりと持ち上がった。
骸が身を起こす。八百年の歳月を経た吸血鬼。蒼白な肌に、影のような黒い外套。瞳は闇の中でもなお暗い、底の知れない深紅。
壁一面の本棚に並ぶのは、数百年にわたって収集された書物。医学書、薬学書、民俗学、オカルト。この怪物は、知識を貪ることで八百年の退屈を凌いできた。
洋館の窓枠に、一羽のカラスが止まった。骸は手を伸ばし、カラスの頭を撫でる。瞳が一瞬、虚ろになる。——感覚共有。カラスの目を通して、遠くの出来事を覗いている。
見えるのは、診療所の裏庭。月明かりの下で屋根の上に座る青年。琥珀色の目。そして——その足元に蠢く、影の狼たち。
「……ほう」
骸の薄い唇が弧を描いた。
「やはり人狼か。あの女の傍に犬がいるとはな」
カラスの目を通して、さらに観察する。影狼の数、動きのパターン、人狼の体の状態。
——銀の毒が残っている。再生が鈍い。満月が近づけば力は増すが、同時に制御を失いやすくなる。
八百年の生命が蓄えた知識と経験が、瞬時に策を編み上げる。
「満月の夜にしよう」
骸は棺桶の縁に腰かけ、長い指を組んだ。
「人狼が最も強くなる夜——しかし同時に、理性が獣に蝕まれる夜だ。あの犬を暴走させれば、あの女を守るどころか自ら傷つける。女は人狼を恐れ、拠り所を失い……私の元に来る」
赤い瞳が、愉悦に細められた。
「八百年、欲しいと思った血は逃がさん」
骸は窓を開け放った。洋館から無数のカラスが飛び立ち、夜空を黒く染めていく。
蜘蛛が糸を張るように。
静かに。
確実に。
診療所の周辺に、見えない包囲網が敷かれ始めていた。




