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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第4章:満月の夜、吸血鬼が来る――銀の十字架と影狼と、言えなかった恋

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第9話:満月の夜、あの女をいただく――骸(むくろ)の蜘蛛の糸

 夜の診療所は、昼間とはまるで別の顔をする。


 白い蛍光灯が落とされた廊下には、非常灯のぼんやりした橙色だけが床に染みを作っていて、消毒液の匂いが昼間の三倍は濃く鼻につく。


 私はナースステーションの小さなデスクで、カルテの整理をしていた。


 宗方先生はもう奥の住居スペースに引き上げている。腰を痛めていた田所のおじいちゃんも昨日退院して、入院患者はカミヤだけ。


 カミヤ。


 ペンが止まる。


 あの夜——町で出会った男のことを、まだ誰にも話せていない。

 赤い目。動かなくなった体。自分の手を噛んで、やっと正気に戻ったこと。


 あれは何だったのか。


 夢だったと思いたかった。でも、左手のひらにはまだ歯型の痕が薄く残っていて、鏡を見るたびに現実を突きつけてくる。


「——澪」


 声に振り向くと、廊下の暗がりにカミヤが立っていた。


 病衣姿。裸足。琥珀色の目だけが、非常灯の光を拾って淡く光っている。


「……何、こんな時間に。ベッドに戻りなさい」


「話がある」


 いつもの「面倒くせぇ」も、ぶっきらぼうな前置きもない。


 声のトーンが違う。低くて、硬い。


 私は反射的にペンを置いて立ち上がっていた。看護師の勘が、これはただ事じゃないと告げている。


「——先生も呼ぶ」


「ああ。頼む」


 ---


 宗方先生を起こして、診察室に三人が集まった。


 先生は丸眼鏡をかけ直しながら椅子に座り、私はその隣に立った。カミヤは処置台の縁に腰を下ろし、しばらく黙っていた。


 何かを言おうとして、やめて、また口を開きかける。


 三百年生きてきた存在が、言葉を選びあぐねている。その姿が、妙に人間くさくて——胸の奥がちくりと痛んだ。


「……澪。お前に話がある。信じなくてもいい。けど、聞いてくれ」


 カミヤは処置台の脇に置いてあったメスを手に取った。


「ちょっ——何して」


 止める間もなかった。


 カミヤは自分の左手の甲に、ためらいなくメスを走らせた。皮膚が裂け、赤い血が——いや、血と一緒に、銀色の粒子がこぼれ落ちた。


 ガラスの粉を光に透かしたような、きらきらとした微細な光。


 そして。


 傷が、塞がっていく。


 目の前で。三秒、五秒、十秒。メスで裂いたはずの皮膚が、まるで時間を巻き戻すように滑らかに接合されていく。血の跡だけが手の甲に残って、傷そのものは跡形もない。


 呼吸を忘れていた。


「俺は人狼だ」


 カミヤの琥珀色の目が、まっすぐに私を見ていた。


「三百年、生きてる」


 心臓がうるさい。頭の中が真っ白になって、次に灰色になって、それから——怒りが湧いた。


「ふざけないで」


 声が震えた。自分でもわかるくらい、みっともなく。


「何よそれ。人狼? 三百年? 馬鹿じゃないの。そんなの——」


「澪」


 宗方先生の、静かな声が遮った。


「私からも話がある。——この青年の体は、医学の常識では説明がつかん。摘出した銀の弾丸、異常な回復速度。私は彼から、入院直後に話を聞いていた」


 足元が揺れた気がした。


 先生は——知っていた?


「先生……」


「黙っていたのは私の判断だ。確証がないまま君を混乱させたくなかった。だが、今は話すべき時だ」


 先生の目が、丸眼鏡の奥で静かに光っている。四十年、この山村で命を診続けてきた医師の目。揺るがない、深い目。


 カミヤが口を開いた。


「——そして、お前を狙ってるやつがいる。吸血鬼だ」


 空気が、凍った。


 吸血鬼。


 その言葉が耳に入った瞬間、あの夜の記憶が鮮明に蘇った。路地裏。蒼白な肌。温度のない顔。赤く光る目。操られかけた意識。自分の手を噛んで——


「……あの夜の男が、それなの」


 声は自分のものとは思えないほど、掠れていた。


 カミヤが頷いた。


「お前の体に、匂いが残ってた。人間のものじゃねぇ。腐敗と甘い血が混じったような——吸血鬼の気配だ。あの日お前が町から帰ってきた朝、すぐにわかった」


 あの朝。私がいつも以上に事務的に振る舞って、手の震えを隠していた朝。


 この人は、気づいていた。


 何も言わずに、ずっと。


「——なんで、もっと早く言わなかったのよ」


「確証がなかった。それに——」


 カミヤは目を逸らした。


「お前を、余計に怖がらせたくなかった」


 その一言が、怒りの矛先を完全に折ってしまった。


 膝から力が抜けそうになるのを、処置台の角を掴んでこらえた。


 宗方先生が、診察室の奥の戸棚に向かった。古い木箱を棚の最上段から下ろし、埃を払って開ける。


 中に収まっていたのは、掌ほどの大きさの銀の十字架だった。年月を経て黒ずんでいるけれど、蛍光灯の光を受けて鈍く、確かに光っている。


「先代の院長が残したものだ。この土地に伝わる魔除けだと言っていた。効くかどうかは——まあ、今なら信じてみる価値があるだろう」


 先生がその十字架を、私の手に載せた。


 ひんやりとした金属の重み。


「お守りだ。肌身離さず持っていなさい」


 握りしめると、不思議と指の震えが止まった。


 ---


 カミヤは、あの夜から毎晩のように診療所を出ていく。


 夜勤の巡回で廊下を歩くと、カミヤのベッドはもぬけの殻。窓が少しだけ開いていて、秋の夜気が白いカーテンを揺らしている。


 最初の頃は「勝手に出歩かないで。傷が開いても知らないから」と怒鳴った。


 カミヤは「ちょっと散歩だ」とだけ言って、夜明け前にはベッドに戻っている。


 ——嘘だ。


 散歩なんかじゃない。この人は毎晩、何かを警戒して診療所の周りを見回っている。


 私を、守ろうとしている。


 そのことに気づいてしまうと、胸の奥で名前のつけられない感情がぎゅっと締まるように痛んで、私はベッドの中で銀の十字架を握りしめることしかできなかった。


 ---


 その頃、カミヤが何をしていたかを、私は後になって知ることになる。


 影狼——カミヤが自分の影から召喚できるという、五匹の黒い狼たち。


 カゲを山中の隠密偵察に。シロガネを診療所上空の監視に。毎夜、カミヤの影から音もなく滑り出して、闇に溶けていく。


 数日後、シロガネが報告を持ち帰った。


『——主。裏山の尾根、毎夜同じ時刻に蝙蝠の大群が出る。百を超える。だが異常なのは一匹だ。翼幅が二メートルを超えている。あれは獣じゃない』


 カミヤは診療所の屋根の上で、月を見ながら低く唸ったという。


 三百年の記憶が、警鐘を鳴らしている。


 吸血鬼。


 何度か遭遇し、何度か殺しかけ、何度かは殺されかけた。人狼と吸血鬼——闇の種族同士、互いの弱点を知り尽くした天敵。


「……あいつ、こっちを探ってやがるな」


 クロが影の中から顔を覗かせた。冷静沈着なリーダー格の狼。


『あの蝙蝠の軌道は、明らかに診療所を中心に旋回している。標的はあの女——看護師だろう』


「わかってる」


 カミヤの琥珀色の目が、闇の中で炎のように揺らいだ。


 ---


 山間の洋館。


 夜の帳が最も深くなる午前二時。


 地下室の棺桶の蓋が、内側からゆっくりと持ち上がった。


 骸が身を起こす。八百年の歳月を経た吸血鬼。蒼白な肌に、影のような黒い外套。瞳は闇の中でもなお暗い、底の知れない深紅。


 壁一面の本棚に並ぶのは、数百年にわたって収集された書物。医学書、薬学書、民俗学、オカルト。この怪物は、知識を貪ることで八百年の退屈を凌いできた。


 洋館の窓枠に、一羽のカラスが止まった。骸は手を伸ばし、カラスの頭を撫でる。瞳が一瞬、虚ろになる。——感覚共有。カラスの目を通して、遠くの出来事を覗いている。


 見えるのは、診療所の裏庭。月明かりの下で屋根の上に座る青年。琥珀色の目。そして——その足元に蠢く、影の狼たち。


「……ほう」


 骸の薄い唇が弧を描いた。


「やはり人狼か。あの女の傍に犬がいるとはな」


 カラスの目を通して、さらに観察する。影狼の数、動きのパターン、人狼の体の状態。


 ——銀の毒が残っている。再生が鈍い。満月が近づけば力は増すが、同時に制御を失いやすくなる。


 八百年の生命が蓄えた知識と経験が、瞬時に策を編み上げる。


「満月の夜にしよう」


 骸は棺桶の縁に腰かけ、長い指を組んだ。


「人狼が最も強くなる夜——しかし同時に、理性が獣に蝕まれる夜だ。あの犬を暴走させれば、あの女を守るどころか自ら傷つける。女は人狼を恐れ、拠り所を失い……私の元に来る」


 赤い瞳が、愉悦に細められた。


「八百年、欲しいと思った血は逃がさん」


 骸は窓を開け放った。洋館から無数のカラスが飛び立ち、夜空を黒く染めていく。


 蜘蛛が糸を張るように。

 静かに。

 確実に。

 診療所の周辺に、見えない包囲網が敷かれ始めていた。




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