第8話:響き渡る薪割りの音とかぼちゃの煮物:手放したくない白衣の日常
翌朝。
軽自動車のエンジンを止めて、診療所の駐車場に降りた時——裏庭から斧の音が聞こえた。
規則正しい、力強い音。「コンッ。……カァーン!」と木が裂ける乾いた響き。
あの男が、また薪を割っている。
私は白衣に着替え、ナースシューズに足を通した。鏡で自分の顔を確認する。目の下のクマが濃い。昨夜はほとんど眠れなかった。あの赤い目が、瞼の裏にちらつくたびに心臓が跳ねて、何度も目が覚めた。
——大丈夫。いつも通りにすればいい。
左手のバンドエイドの上から、ガーゼを巻いた。噛み傷。自分でつけた傷。あれが現実だった証拠。
病室に入ると、予想通り狼谷のベッドはもぬけの殻だった。
シーツは乱暴に剥ぎ取られ、昨日まで彼を繋ぎ止めていた点滴スタンドが、手持ち無沙汰そうに突っ立っている。外から響く「カァーン!」という音の主が誰か、確認するまでもなかった。
「……安静にしろって、あれほど言ったのに」
溜息が白衣の襟元に消える。田村さんはまだ眠っている。
朝食の準備。白米を炊き、味噌汁を作り、焼き鮭をグリルに入れる。
——狼谷の分のおかず。
冷蔵庫を開ける。昨日のうちに作っておいた、かぼちゃの煮物。甘く煮含めた、小さな一品。
「……これは栄養管理の一環よ。βカロテンは免疫機能の回復を——」
誰もいない台所で、声に出して言い訳した。自分でも馬鹿だと思った。
トレイに小鉢を載せ、病室に運ぶ。田村さんの分と、狼谷の分。
裏庭に出て声をかけた。
「朝ごはん。中に入りなさい」
狼谷が振り返る。黒いTシャツ。うっすら汗。琥珀色の目が、朝日の中で透き通って見えた。
「おう」
斧を薪の上に立てかけ、タオルで顔を拭きながら中に入ってくる。廊下ですれ違う時、狼谷の体温を近くに感じた。熱い。人間よりも少し高い体温。
——この人は、人間じゃないんじゃないか。
あの異常な回復力。銀の弾丸。メスの傷が翌朝には消えている体。
そして——あの夜、私を襲った赤い目の男。人間ではない何かが、この世界にはいる。
もし狼谷も——。
「氷室」
思考が断ち切られた。
「どうした」
狼谷が、テーブルについて俺を見ていた。箸を持ったまま、琥珀色の瞳で。
「何が」
「お前、今朝からおかしい」
心臓が跳ねた。
「おかしくない。いつも通りよ」
「嘘だ」
声が低い。いつもの「面倒くせぇ」のトーンではない。
「手が震えてる」
——バレている。
反射的に、左手を背中に隠した。ガーゼを巻いた左手。
「左手のガーゼ。昨日はなかったろ」
「……切っただけよ。料理してて」
「右利きの人間が、左手の甲を料理中に切るか」
鋭い。この男は、見ているのだ。ずっと。私が思っている以上に、観察している。
「何でもないったら何でもないの」
声が硬くなる。自分でもわかっている。防壁を積み上げている。いつもより高く、いつもより厚く。
「患者は自分の心配だけしてて。私の手の怪我なんて、あんたに関係ないでしょ」
突き放した。意図的に。冷たく。
狼谷は数秒、私を見つめていた。
琥珀色の瞳の奥に、何かが揺れた。怒りではない。悲しみでもない。——もどかしさのような、何か。
「……わかった。無理に聞かねぇよ」
背を向ける。廊下を歩いていく。斧ダコのある大きな手が、一瞬だけ拳を握った。すぐに開いた。
その背中を見送りながら、私は——自分の中の矛盾に気づいていた。
聞かないでほしかった。踏み込まないでほしかった。
——なのに。
聞いてほしかった。
あの夜のことを。あの赤い目のことを。怖かったと。一人で震えていたと。
でも言えない。言えば、この人の前で崩れてしまう。仕事の鎧を脱いで、ただの怯えた女になってしまう。
それだけは——嫌だった。
この人の前で弱くなりたくない。なぜかは、自分でもわからない。いや——わからないふりをしているだけだ。
私はトレイを下げ、台所に戻った。洗い物をしながら、左手の噛み傷がじくじくと痛んだ。
窓の外で、また斧の音が響き始めた。
「コンッ。……カァーン!」
規則正しいその音が、不思議と心臓の震えを鎮めてくれた。
---
朝食後。
カミヤは薪を割りながら、意識の半分を別のところに置いていた。
鼻が捉えている。朝、澪とすれ違った時——彼女の体に纏わりついていた匂い。
石鹸と消毒液の下。かすかだが、確実に残っている。昨日まではなかった匂い。
——冷たい。甘い。古い血。腐敗の気配。
人間の体臭ではない。
三百年の記憶が、その匂いの正体を告げている。
吸血鬼だ。
斧が丸太に食い込む。深く。木が裂ける音が、山に響いた。
氷室に、吸血鬼が接触した。あのガーゼの下の傷。おそらく噛み痕ではない——噛まれていたなら、もっと濃く匂いが残る。接触だけ。だが、それだけで匂いが移るほどの至近距離。
あの女は、恐怖を飲み込んで帰ってきたのだ。一人で。誰にも言わずに。
——面倒くせぇ女だ。
拳が白くなるほど斧の柄を握りしめた。
影の中から、クロがぬるりと顔を覗かせた。
『主。どうする』
黒い狼の目が、静かにカミヤを見上げている。
カミヤは斧を下ろし、影に向かって囁いた。声には出さない。影を通じた意識の対話。
——カゲ、シロガネ。今夜から診療所の周辺を二十四時間体制で警戒しろ。カゲは裏山の森林帯、シロガネは上空。蝙蝠が一匹でも近づいたら報告。
影がかすかに揺れた。了承の合図。二つの気配が地面に沈み、音もなく散った。
カミヤは空を見上げた。秋の青空に、薄い雲が流れている。
あの匂いの主は——山の向こうにいる。まだ遠い。だが、必ずまた来る。
澪に話すべきか。自分の正体を。あの匂いの正体を。
——今はまだ、話せない。
話せば、澪を俺の世界に引きずり込むことになる。人狼と吸血鬼の世界に。血と影と牙の世界に。
あの女には——白衣の世界がある。消毒液と包帯と、温かい卵焼きの世界が。
守るだけでいい。正体を知られずに。秘密を抱えたまま。
「……面倒くせぇことになりやがった」
斧を振り上げる。丸太を裂く。
診療所の中から、氷室の声が聞こえた。田村さんに薬を渡している、いつもの事務的な声。冷たくて、だけどどこか温かい声。
——守る。
その決意が、胸の奥で獣の形をとった。
名前をつけてはいけない感情が、爪を立てて叫んでいる。
知っている。この感情の名前を。三百年、ずっと避けてきたその言葉を。
だが、口にすれば終わりだ。口にした瞬間に、俺はこの場所を離れられなくなる。旅を続けられなくなる。あの女の隣に、居座りたくなる。
——それだけは、許されない。
人狼の寿命は、人間とは違う。俺がここにいれば、いつか必ず、澪だけが老いていく。三百年の孤独を知っている俺が、新しい孤独を作るわけにはいかない。
秋が深まる。木々が赤く燃えている。
斧の音が、山にこだまする。
カァーン。コンッ。カァーン!。
二人の間に、言えない秘密が積もっていく。澪はあの夜の恐怖を閉じ込め、カミヤはその匂いの正体を隠す。
互いを守ろうとして、互いに嘘をつく。
月が、少しずつ太っていく。
満月まで——あと五日。




