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さよなら、優しい狼さん。~傷だらけの不死者が捧ぐ、一夜限りの逃避行~  作者: silver fox
第4章:満月の夜、吸血鬼が来る――銀の十字架と影狼と、言えなかった恋

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第8話:響き渡る薪割りの音とかぼちゃの煮物:手放したくない白衣の日常

 翌朝。


 軽自動車のエンジンを止めて、診療所の駐車場に降りた時——裏庭から斧の音が聞こえた。


 規則正しい、力強い音。「コンッ。……カァーン!」と木が裂ける乾いた響き。


 あの男が、また薪を割っている。


 私は白衣に着替え、ナースシューズに足を通した。鏡で自分の顔を確認する。目の下のクマが濃い。昨夜はほとんど眠れなかった。あの赤い目が、瞼の裏にちらつくたびに心臓が跳ねて、何度も目が覚めた。


 ——大丈夫。いつも通りにすればいい。


 左手のバンドエイドの上から、ガーゼを巻いた。噛み傷。自分でつけた傷。あれが現実だった証拠。


 病室に入ると、予想通り狼谷のベッドはもぬけの殻だった。


 シーツは乱暴に剥ぎ取られ、昨日まで彼を繋ぎ止めていた点滴スタンドが、手持ち無沙汰そうに突っ立っている。外から響く「カァーン!」という音の主が誰か、確認するまでもなかった。


「……安静にしろって、あれほど言ったのに」


 溜息が白衣の襟元に消える。田村さんはまだ眠っている。


 朝食の準備。白米を炊き、味噌汁を作り、焼き鮭をグリルに入れる。


 ——狼谷の分のおかず。


 冷蔵庫を開ける。昨日のうちに作っておいた、かぼちゃの煮物。甘く煮含めた、小さな一品。


「……これは栄養管理の一環よ。βカロテンは免疫機能の回復を——」


 誰もいない台所で、声に出して言い訳した。自分でも馬鹿だと思った。


 トレイに小鉢を載せ、病室に運ぶ。田村さんの分と、狼谷の分。


 裏庭に出て声をかけた。


「朝ごはん。中に入りなさい」


 狼谷が振り返る。黒いTシャツ。うっすら汗。琥珀色の目が、朝日の中で透き通って見えた。


「おう」


 斧を薪の上に立てかけ、タオルで顔を拭きながら中に入ってくる。廊下ですれ違う時、狼谷の体温を近くに感じた。熱い。人間よりも少し高い体温。


 ——この人は、人間じゃないんじゃないか。


 あの異常な回復力。銀の弾丸。メスの傷が翌朝には消えている体。


 そして——あの夜、私を襲った赤い目の男。人間ではない何かが、この世界にはいる。


 もし狼谷も——。


「氷室」


 思考が断ち切られた。


「どうした」


 狼谷が、テーブルについて俺を見ていた。箸を持ったまま、琥珀色の瞳で。


「何が」


「お前、今朝からおかしい」


 心臓が跳ねた。


「おかしくない。いつも通りよ」


「嘘だ」


 声が低い。いつもの「面倒くせぇ」のトーンではない。


「手が震えてる」


 ——バレている。


 反射的に、左手を背中に隠した。ガーゼを巻いた左手。


「左手のガーゼ。昨日はなかったろ」


「……切っただけよ。料理してて」


「右利きの人間が、左手の甲を料理中に切るか」


 鋭い。この男は、見ているのだ。ずっと。私が思っている以上に、観察している。


「何でもないったら何でもないの」


 声が硬くなる。自分でもわかっている。防壁を積み上げている。いつもより高く、いつもより厚く。


「患者は自分の心配だけしてて。私の手の怪我なんて、あんたに関係ないでしょ」


 突き放した。意図的に。冷たく。


 狼谷は数秒、私を見つめていた。


 琥珀色の瞳の奥に、何かが揺れた。怒りではない。悲しみでもない。——もどかしさのような、何か。


「……わかった。無理に聞かねぇよ」


 背を向ける。廊下を歩いていく。斧ダコのある大きな手が、一瞬だけ拳を握った。すぐに開いた。


 その背中を見送りながら、私は——自分の中の矛盾に気づいていた。


 聞かないでほしかった。踏み込まないでほしかった。


 ——なのに。


 聞いてほしかった。


 あの夜のことを。あの赤い目のことを。怖かったと。一人で震えていたと。


 でも言えない。言えば、この人の前で崩れてしまう。仕事の鎧を脱いで、ただの怯えた女になってしまう。


 それだけは——嫌だった。


 この人の前で弱くなりたくない。なぜかは、自分でもわからない。いや——わからないふりをしているだけだ。


 私はトレイを下げ、台所に戻った。洗い物をしながら、左手の噛み傷がじくじくと痛んだ。


 窓の外で、また斧の音が響き始めた。


「コンッ。……カァーン!」


 規則正しいその音が、不思議と心臓の震えを鎮めてくれた。


 ---


 朝食後。


 カミヤは薪を割りながら、意識の半分を別のところに置いていた。


 鼻が捉えている。朝、澪とすれ違った時——彼女の体に纏わりついていた匂い。


 石鹸と消毒液の下。かすかだが、確実に残っている。昨日まではなかった匂い。


 ——冷たい。甘い。古い血。腐敗の気配。


 人間の体臭ではない。


 三百年の記憶が、その匂いの正体を告げている。


 吸血鬼だ。


 斧が丸太に食い込む。深く。木が裂ける音が、山に響いた。


 氷室に、吸血鬼が接触した。あのガーゼの下の傷。おそらく噛み痕ではない——噛まれていたなら、もっと濃く匂いが残る。接触だけ。だが、それだけで匂いが移るほどの至近距離。


 あの女は、恐怖を飲み込んで帰ってきたのだ。一人で。誰にも言わずに。


 ——面倒くせぇ女だ。


 拳が白くなるほど斧の柄を握りしめた。


 影の中から、クロがぬるりと顔を覗かせた。


『主。どうする』


 黒い狼の目が、静かにカミヤを見上げている。


 カミヤは斧を下ろし、影に向かって囁いた。声には出さない。影を通じた意識の対話。


 ——カゲ、シロガネ。今夜から診療所の周辺を二十四時間体制で警戒しろ。カゲは裏山の森林帯、シロガネは上空。蝙蝠が一匹でも近づいたら報告。


 影がかすかに揺れた。了承の合図。二つの気配が地面に沈み、音もなく散った。


 カミヤは空を見上げた。秋の青空に、薄い雲が流れている。


 あの匂いの主は——山の向こうにいる。まだ遠い。だが、必ずまた来る。


 澪に話すべきか。自分の正体を。あの匂いの正体を。


 ——今はまだ、話せない。


 話せば、澪を俺の世界に引きずり込むことになる。人狼と吸血鬼の世界に。血と影と牙の世界に。


 あの女には——白衣の世界がある。消毒液と包帯と、温かい卵焼きの世界が。


 守るだけでいい。正体を知られずに。秘密を抱えたまま。


「……面倒くせぇことになりやがった」


 斧を振り上げる。丸太を裂く。


 診療所の中から、氷室の声が聞こえた。田村さんに薬を渡している、いつもの事務的な声。冷たくて、だけどどこか温かい声。


 ——守る。


 その決意が、胸の奥で獣の形をとった。


 名前をつけてはいけない感情が、爪を立てて叫んでいる。


 知っている。この感情の名前を。三百年、ずっと避けてきたその言葉を。


 だが、口にすれば終わりだ。口にした瞬間に、俺はこの場所を離れられなくなる。旅を続けられなくなる。あの女の隣に、居座りたくなる。


 ——それだけは、許されない。


 人狼の寿命は、人間とは違う。俺がここにいれば、いつか必ず、澪だけが老いていく。三百年の孤独を知っている俺が、新しい孤独を作るわけにはいかない。


 秋が深まる。木々が赤く燃えている。


 斧の音が、山にこだまする。


 カァーン。コンッ。カァーン!。


 二人の間に、言えない秘密が積もっていく。澪はあの夜の恐怖を閉じ込め、カミヤはその匂いの正体を隠す。


 互いを守ろうとして、互いに嘘をつく。


 月が、少しずつ太っていく。


 満月まで——あと五日。


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