第7話:闇に響く賞賛、八百年を生きる吸血鬼の執着
日曜日。
澪は宗方先生の軽自動車を借りて、山道を下りた。
久しぶりの休日。本当は診療所にいたかった。カルテの整理も溜まっているし、薬品の在庫チェックもある。だが宗方先生に「たまには息抜きしなさい。それは命令だよ」と半ば追い出された。
麓の町は、村に比べれば都会だった。人口三万ほどの地方都市。駅前にスーパーとドラッグストアとチェーンの牛丼屋がある、こぢんまりした町。
ユニクロで下着とカーディガンを買った。ドラッグストアでハンドクリームと生理用品を補充した。書店で新刊の医療系ミステリーを一冊買った。
それだけで、やることがなくなった。
休日の過ごし方がわからない。東京にいた頃からそうだった。仕事以外の自分が空洞で、休みの日はその空洞を持て余すだけだ。
——あの人、ちゃんとお昼食べたかしら。村の配食サービス、放っておいたら「箸を持つのが面倒くせぇ」とか言って、手付かずで残しそう。
浮かんだ考えを振り払う。
仕事だから気になるだけだ。患者の栄養管理は——。
もういい。何度同じ言い訳を繰り返すつもりだ、私は。
駅前の小さなイタリアンレストランに入った。一人の夕食。ペペロンチーノとグリーンサラダ、グラスの白ワイン。窓際の席に座り、本を開く。
物語に集中できない。文字が滑る。
琥珀色の目が、ちらついた。
——「無理すんな。お前が倒れたら、ここの患者、誰が診るんだ」
あの夜の言葉。ぶっきらぼうな声。不器用な優しさ。言葉の選び方が下手で、でも嘘がなくて。
ワインを一口飲んだ。喉が熱くなった。
——やめよう。考えるのは。
会計を済ませ、店を出た。午後七時半。十月の夕暮れは早く、もうとっぷりと暗い。街灯がオレンジ色の光を落としている。
バス停への近道。商店街の裏手を通る、狭い路地。人通りはまばらだ。
ヒールのパンプスが、コンクリートを叩く音だけが響いていた。
「失礼」
声は、斜め後ろから来た。
振り返った。
男が立っていた。
グレーのコート。上質だが目立たない仕立て。すらりとした長身。整った顔立ち。三十代半ばに見える。
——肌が、白すぎた。
街灯の光を受けて、まるで蝋人形のように蒼白な肌。それなのに、影が——おかしい。男の足元に、影がない。いや、あるのだが——薄い。人間の影にしては、あまりにも薄い。
「少し道をお聞きしても。このあたりに、薬局は」
——目が合った。
その瞬間。
世界が、溶けた。
足元が消える感覚。地面がなくなったわけではない。地面に立っている感覚がなくなったのだ。体が水に浮いているような——心地よい浮遊感。
視界の端が白くぼやけていく。焦点が合わない。合わないのに、目の前の男の顔だけが異様にくっきり見える。
声が聞こえる。低い、穏やかな声。言葉の意味は頭に入ってこないのに、その声を聞いていたいという衝動だけが、脳の内側から湧き上がる。
——この人の話を聞かなければ。
——この人の近くにいなければ。
甘い。とても甘い。倦怠感のような、安堵のような——意識の輪郭が溶けていく。
——おかしい。
その認識は、溶けかけた意識の底から、きっぱりと立ち上がった。
看護師の訓練。ICUで叩き込まれた、バイタルサインの異常察知。患者の容態急変を〇・五秒で見抜くための、肉体に刻まれた反射回路。
それが——今、自分自身に向いた。
瞳孔が開いている。暗所反応ではない。外部刺激による散大。
心拍が落ちている。七十台から五十台へ。急激に。
呼吸が浅くなっている。横隔膜の動きが鈍い。自分の意志ではない。
——これは、私の生理反応じゃない。
——外部から、何かをされている。
認識が氷の刃になって、甘い霧を切り裂いた。
だが——体が動かない。わかっているのに動けない。
澪は歯を食いしばった。
自分の左手を——噛んだ。
渾身の力で。犬歯が皮膚を裂く。肉に食い込む。血が滲む。痛みが末梢神経から脊髄を駆け上がり、脳幹を貫く。
——痛い。
世界が戻った。
白いぼやけが砕け散り、視界がクリアになる。足元にコンクリートの感触が戻る。心拍が跳ね上がる。呼吸が深くなる。
目の前の男を見た。
男の目が——赤かった。
瞳の奥に、赤い光。人間の虹彩ではありえない色。暗い路地に、二つの赤い点が浮かんでいる。
悲鳴は出なかった。叫びも出なかった。
ICUでの訓練が、ここでも澪を動かした。パニックは殺す。感情は後だ。まず行動。
——逃げろ。
踵を返した。走った。ヒールが路面を叩く。硬い音が暗い路地に反響する。脱ぎ捨てている暇はない。心臓が壊れそうなほど打っている。
振り返るな。振り返るな。振り返るな。
商店街の角を曲がる。明かりが見える。人の声が聞こえる。日常の温度。
商店街に飛び出した。
買い物袋を下げた主婦。自転車を漕ぐ学生。総菜屋のおばちゃんの声。——日常。
振り返った。
路地には、誰もいなかった。
膝が笑った。コンビニの壁に手をつく。呼吸を整える。吐きそうだ。左手から血が垂れている。コンクリートに赤い点が落ちた。
——何だったの。
あの男。あの赤い目。あの——意識を溶かされる感覚。
ドラッグストアで買ったバンドエイドを震える手で左手に貼った。
バスに乗った。窓に映る自分の顔が、蒼白だった。
——誰にも言えない。
言ったところで信じてもらえない。自分でも信じられない。過労のせいだ。睡眠不足のせいだ。そうに違いない。
——あの赤い目のことさえ、忘れてしまえば。
忘れられるわけがなかった。
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路地の闇の奥。
骸は、澪が消えた方角を見つめていた。
蒼白な唇に、薄い笑みが刻まれている。
魅了を自力で振り切った人間。八百年の記憶の中で、片手で数えられるほどしかいない。聖職者でも、魔術師でもない——看護師。自分の身体を傷つけて、痛覚で意識を繋ぎ止めた。
「——いい女だ」
声が、闇に溶けた。
追えば捕まえられた。人間の足で、吸血鬼から逃げられるはずがない。
だが、今夜は追わない。
怯えさせるのが目的ではない。欲しいのは——あの女の、献身だ。弱った者を放っておけない、あの本能。それを手に入れるには、もう少し——時間がいる。
「次は、誰もいない場所で」
骸の体が輪郭を失っていく。コートの裾が影になり、影が蝙蝠になり、十数匹の黒い翼が夜空に散った。音もなく。
山の方角へ。洋館へ。棺桶の中へ。
半月が、蒼白な空に浮かんでいた。




